第41話 帰ってきて
「……オットー!!」
ルティの叫びが、暗い境界の奥へ響いた。
小さな声だった。
けれど。
今までで、一番強い声だった。
「……」
ぼんやり沈んでいたオットーの輪郭が、ほんの少しだけ揺れる。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
顔が、上を向いた。
「……っ」
ルティの目が、わずかに開く。
届いた。
まだ。
まだ、消えてない。
「……かえる」
震える声で言う。
「……いっしょ」
手を伸ばす。
暗い。
冷たい。
沈んでいく。
それでも。
「……」
離したくなかった。
⸻
白樺亭の中では、誰も動けなかった。
窓際の空間が、ぐにゃぐにゃと歪んでいる。
光が曲がり。
床が沈み。
空気そのものが、別の場所へ繋がってしまっている。
その中心に。
ルティがいる。
小さな身体で。
必死に、何かを掴んでいる。
「……っ」
ミーシャが、口元を押さえる。
見ていられなかった。
ルティの腕。
黒い痣が、じわじわと広がっている。
細い手首へ。
腕へ。
まるで、墨を流したみたいに。
「やだ……」
小さく、声が漏れる。
「やだよ、そんなの……」
涙が滲む。
あの子は。
まだ小さいのに。
怖がりもしないで。
一人で。
「……」
リックは、拳を握り締めていた。
爪が食い込むほど強く。
「くそっ……」
何もできない。
助けたいのに。
近づけない。
「……」
ガイルの顔も険しかった。
視線は、ルティの痣に向いている。
進行が速い。
想定より、ずっと。
「……」
このまま引き込まれれば。
戻れなくなる。
オットーと同じように。
境界へ。
「……ルティ」
低く呼ぶ。
「戻れ」
「……」
返事はない。
ルティは、必死に前を見ている。
「……」
暗い空間の奥。
オットーが、沈んでいる。
ぼんやりと。
薄く。
もう少しで、完全に向こうへ落ちる。
「……」
ルティの胸が痛む。
嫌だった。
消えるの。
忘れられるの。
誰も思い出せなくなるの。
そんなの。
そんなの、嫌だった。
「……っ」
身体が、引っ張られる。
深い場所へ。
寒い。
苦しい。
怖い。
「……やだ」
涙が落ちる。
「……きえたく、ない」
小さく。
震える声。
「……ここ、いる」
白樺亭。
パンの匂い。
ミーシャの甘い飲み物。
バルドの声。
リックの笑い声。
全部、浮かぶ。
「……」
帰りたい。
まだ。
あそこに。
「……オットー」
もう一度、呼ぶ。
「……かえろ」
「……」
オットーの輪郭が、ゆっくり揺れる。
ぼやけた顔。
でも。
ほんの少しだけ。
目が、動いた。
「……」
その瞬間。
酒の匂いが、ふわりと強くなる。
「っ……!」
リックが顔を上げる。
「オットー!!」
叫ぶ。
「帰ってこいよ!!」
今度は、はっきり思い出せた。
窓際の席。
無言で酒を飲む姿。
たまに、小さく笑う顔。
「まだ飲み比べ勝ってねえだろ!!」
声が震えていた。
「勝手に消えんなよ……!」
⸻
空間が、大きく揺れる。
境界が軋む。
「……っ!!」
ルティの身体が引かれる。
黒い痣が、さらに広がった。
肘の近くまで。
「ルティ!!」
バルドが叫ぶ。
もう限界だった。
止められない。
目の前で、小さな子どもが削れていく。
それを見ているだけなんて。
「……っ」
踏み出そうとする。
その瞬間。
「来るな!!」
ガイルが怒鳴った。
「今触れれば、お前も持っていかれる!!」
「だったらどうしろってんだ!!」
バルドの声が、割れる。
初めてだった。
あんな声を出したのは。
「……あいつ、ガキだぞ!!」
苦しそうに。
怒って。
どうしようもなく。
「一人でやらせんなよ……!!」
⸻
ルティの視界が、揺れる。
もう、自分が立っているのかも分からない。
でも。
「……」
手の先に、感触があった。
冷たい。
薄い。
消えかけている。
でも。
確かに、そこにいる。
「……つかまえた」
小さく言う。
泣きそうな声で。
「……だめ」
「……いっちゃ、だめ」
その瞬間。
オットーの輪郭が、ぐっとこちら側へ引かれた。
「……っ!!」
境界が、悲鳴みたいに歪む。
空気が割れる。
光が揺れる。
そして――
「ぐっ……!!」
突然。
オットーが、白樺亭の床へ倒れ込んだ。
「!!」
全員が息を飲む。
本当に。
突然だった。
今まで誰もいなかった場所へ。
急に、“戻ってきた”。
「……オットー!!」
リックが駆け寄る。
肩を掴む。
冷たい。
でも。
いる。
ちゃんと。
ここに。
「……」
オットーが、ゆっくり目を開ける。
焦点が合わない。
ぼんやりしたまま。
「……酒」
かすれた声。
「……残ってるか」
その瞬間。
リックの顔が、ぐしゃりと崩れた。
「っ、ばかやろう……!!」
泣きながら笑う。
「帰ってこいよ、ほんとに……!!」
⸻
その声を聞いて。
ルティは、ようやく小さく息を吐いた。
「……」
よかった。
帰ってきた。
ちゃんと。
「……」
そう思った瞬間だった。
力が、抜ける。
視界が、真っ暗になる。
「ルティ!?」
ミーシャの叫び。
小さな身体が、その場で崩れ落ちた。
「っ!!」
バルドが、とっさに抱き止める。
軽い。
あまりにも。
「……ルティ」
呼んでも、返事がない。
眠っているみたいに静かだった。
けれど。
腕に広がった黒い痣だけが。
今までより、ずっと濃く残っていた。




