第18話 まだ来ていないもの
朝の光が、まだやわらかい。
白樺亭の中には、夜の静けさが少しだけ残っていて、窓から差し込む淡い光が、並んだ机と椅子の上を静かに滑っていた。
客は、まだ少ない。
厨房の火も、完全には強くなっていない。
パンの焼ける匂いも、これからゆっくり広がっていく途中だった。
その中で。
ルティは、ひとり立っていた。
エプロンをつけて。
何も持たずに。
ただ、店の真ん中で立っている。
「……」
何をすればいいのか、分からない。
昨日までは違った。
誰かが来て。
何かが起きて。
それに合わせて動いていた。
皿を洗う。
パンを運ぶ。
呼ばれる。
渡す。
その繰り返し。
でも、今は。
何も起きていない。
「……」
店の中を見る。
椅子。
机。
窓。
静かな光。
「……なにも、ない」
ぽつりと、つぶやく。
「どうした」
後ろから声がした。
振り向くと、バルドが立っている。
いつものように腕を組んで、少し眠そうな顔をしていた。
「……なにも、ない」
ルティは、もう一度言う。
バルドは、一瞬だけ眉を上げる。
「そりゃそうだ。朝だからな」
短く返す。
それ以上は、何も言わない。
「……」
沈黙が落ちる。
だが、不思議と気まずくはなかった。
「……」
ルティは、少しだけ考える。
それから、小さく首をかしげた。
「……みんな、くる?」
「ん?」
「……あとで」
「ああ」
バルドは、カウンターの上を拭きながら答える。
「腹減らした連中が、そのうちぞろぞろ来る」
「……」
ルティは、その言葉をゆっくり聞いている。
腹が減る。
来る。
食べる。
帰る。
少しずつ、繋がり始めている。
「……」
そのときだった。
店の外で、何か重いものが倒れる音がした。
どさり、と鈍い音。
「……?」
ルティが、そちらを見る。
バルドも動きを止める。
「……なんだ?」
外へ向かう。
扉を開けると、朝の冷たい空気が流れ込んできた。
店のすぐ脇。
壁際に、ひとりの男が倒れていた。
旅人だった。
服は土埃にまみれ、肩で荒く息をしている。
「おい」
バルドが駆け寄る。
「……っ」
男は、うっすら目を開ける。
だが焦点が合っていない。
「熱いな……」
額に触れたバルドが、小さく舌打ちする。
熱がある。
それも、普通じゃない。
「……」
ルティは、少し離れた場所から見ている。
じっと。
「水!」
バルドが振り返らずに言う。
「……」
ルティは、すぐに動いた。
昨日までみたいな迷いはない。
厨房へ走る。
桶。
布。
水。
必要だったものを、そのまま持って戻ってくる。
「お、おう……」
バルドが、一瞬だけ目を見開く。
早い。
説明していないのに。
「……」
ルティは、しゃがみ込む。
男を見る。
苦しそうだった。
呼吸が浅い。
「……」
胸の奥が、少しざわつく。
どこかで見た。
似たものを。
「……?」
ルティの視線が、男の腕で止まる。
服の隙間。
そこに、黒ずんだ痣のようなものが見えた。
ただの汚れではない。
「……」
空気が、少しだけ重くなる。
教会で感じたものと、ほんの少しだけ似ていた。
「……バルド」
「なんだ」
「……これ、へん」
ルティが、男の腕を指さす。
バルドが視線を落とす。
「……なんだ、これ」
痣は、じわじわ広がっているように見えた。
血管みたいに、黒く。
「……」
バルドの表情が、わずかに変わる。
「……おい」
低い声。
「どこ通ってきた」
男は、かすかに目を開ける。
唇が震える。
「……森……」
「森のどこだ」
「……古い……石……」
そこまで言って、男の意識が落ちる。
「おい!」
バルドが肩を揺らす。
反応はない。
「……くそ」
低く吐き捨てる。
その横で。
「……」
ルティは、男を見たまま動かない。
黒い痣。
重い空気。
古い石。
頭の奥で、教会の景色が重なる。
「……」
そのときだった。
ぞわり、と背筋が冷える。
「……!」
ルティが、はっと顔を上げる。
店の向こう。
通りの奥。
誰かがいた。
黒いフード。
立っている。
遠く。
でも、こっちを見ている。
「……」
一瞬だけ。
目が合った気がした。
その直後。
影は、人混みの向こうへ消える。
「……?」
バルドが振り返る。
「どうした」
「……いた」
「誰が」
「……」
ルティは、答えない。
いや。
答えられない。
分からない。
でも。
「……みてた」
小さく、そう言った。
「……」
バルドの顔から、眠気が消える。
店の前の空気が、ほんの少しだけ変わった。
朝だった。
まだ静かなはずの時間。
それなのに。
何かが、もう動き始めている。
「……」
ルティは、通りの奥を見たまま動かない。
胸の奥が、またざわついていた。
昨日までとは違う。
これは、“残っているもの”じゃない。
近づいてきているものだ。
⸻
その頃。
白樺亭の屋根の上。
「……遅かったな」
ガイルが、小さくつぶやく。
視線は、通りの奥へ向けられている。
フードの影が消えた方向。
「……もう嗅ぎつけたか」
静かな声だった。
だが、その目は笑っていない。
「……」
風が吹く。
朝の町の音が流れていく。
その中で。
ガイルだけが、はっきりと気づいていた。
もう、“町の中だけの話”では終わらない。
境界が、近づいてきている。
⸻
「……下がって」
低い声がした。
「……?」
バルドが振り返る。
店の入口。
そこに、ミーシャが立っていた。
いつもの軽い雰囲気ではない。
視線が、倒れている旅人の腕に固定されている。
「……」
黒い痣。
血管みたいに、じわりと広がっているもの。
それを見た瞬間。
ミーシャの顔から、一瞬だけ血の気が引いた。
「……また、これ」
小さく漏れる。
「……ミーシャ?」
バルドが眉を寄せる。
「知ってんのか、これ」
「……昔、見たことある」
ミーシャは、ゆっくりしゃがみ込む。
旅人の腕を、直接は触らない。
触れないまま、近くで見る。
「……境界熱、って呼ばれてる」
「……なんだそれ」
バルドの顔が険しくなる。
「病気か?」
「病気、って言われてる」
ミーシャは短く答える。
「でも、たぶん少し違う」
「……」
店の空気が、静かになる。
ルティだけが、じっとミーシャを見ていた。
「……昔、旅人の間で聞いたことがある」
ミーシャは、旅人の腕から目を離さないまま続ける。
「森の古い場所とか、崩れた教会とか」
「そういう、“残ってる場所”に長くいた人が、たまにこうなるって」
「……残ってる場所?」
「空気の薄い場所、って言えばいいのかな」
少しだけ迷う。
説明を選んでいるみたいに。
「こっちと、向こうの境目が曖昧になってる場所」
「……」
バルドは、黙って聞いている。
「最初は熱が出る」
「……」
「それから、夢と現実の区別が曖昧になる」
「……」
「道に迷う。時間がおかしくなる。変なものを見る」
ミーシャの視線が、黒い痣へ落ちる。
「で、進むと……これが出る」
「……」
バルドの顔から、完全に表情が消える。
「……治るのか」
その問いに。
ミーシャは、少しだけ沈黙した。
「……軽ければ」
「軽くなきゃ?」
「……戻ってこない人もいる、って」
静かな声だった。
誰かを脅かす言い方じゃない。
ただ、聞いた話を置くみたいに。
「……」
白樺亭の中が、しんと静まる。
さっきまで聞こえていた通りの音が、急に遠く感じられた。
「……なんだよ、それ」
バルドが、小さく吐き出す。
「そんな話、聞いたことねえぞ」
「噂になっても、みんな嫌がるから」
ミーシャは、小さく肩をすくめる。
「教会も、あんまり触れたがらないし」
「……教会」
その単語に、ルティの目がわずかに動く。
「……」
ミーシャは、その反応を見逃さなかった。
ほんの一瞬だけ。
視線が細くなる。
「……ルティ」
「……?」
「この人、何か見てた?」
「……」
ルティは、少しだけ考える。
それから。
「……いし」
ぽつりと、言った。
「……ふるい、いし」
「……っ」
ミーシャの目が、わずかに変わる。
「……やっぱり」
小さく、つぶやく。
「何かわかんのか」
バルドが聞く。
「……境界が近くなってる」
その言葉は、あまりにも静かだった。
けれど。
店の空気を変えるには、十分だった。
「……普通は、こんな短期間で出ないって聞く」
ミーシャは、旅人を見る。
「誰かが触ったか、開きかけてるか……」
そこまで言って。
ふと、口を閉じる。
「……」
視線が、ルティへ向く。
ほんの一瞬だけ。
探るような目。
「……」
ルティは、ただ見返している。
意味は分からない。
でも。
「……へん、だった」
小さく、言う。
「……あそこ」
「……」
ミーシャは、ゆっくり息を吐いた。
その顔は、少しだけ困ったようにも見えた。
「……見えてるんだ」
誰にも聞こえないくらいの声。
「……思ったより、ずっと早く」
⸻
その頃。
白樺亭の屋根の上。
「……余計なことを喋ったな」
ガイルが、小さくつぶやく。
だが、その声に怒気はない。
むしろ。
確認だった。
「……やっぱり知ってたか、ミーシャ」
視線は、店の中へ向けられている。
「……」
風が吹く。
その目だけが、静かに鋭くなっていた。
「……お前、どっち側だ」




