記憶という異変
勘違いしていた。
この世界は変わらないのではない。
変わったことが、綺麗に忘れられていくだけなのだ。
私は幼いころから、ほかの人には見えないものが見えていた。
空に浮かぶ正体不明の光。
空間に走る亀裂。
夜道に立つ、半透明の人影。
それらの異変を見つけるたび、私は足を止め、観察した。
色は。匂いは。温度は。触れたら、どうなるのか。
忘れないように、すべてメモ帳に書いた。
そのせいで、私は「不思議ちゃん」と呼ばれた。
けれど気にしなかった。
私にしか見えない世界がある。それは誇りだった。
──あのときまでは。
高校の帰り道、田んぼ道に赤い火の玉が浮かんでいた。
私は走り寄り、衝動のまま手を伸ばした。
温かい。
こたつで乾かした手袋に指を入れたときの、あの感触。
その瞬間、火の玉が震えた。
逃げるでも、消えるでもない。
まるで──怯えたように。
私は初めて、怖くなった。
「……ごめん」
その夜、メモ帳に書いたはずの記録は、朝には消えていた。
──
大人になった今でも、月に一度ほど、みんなに見えない異変が現れる。
その日は、バスの中だった。
吊革につかまる私の横に、黒い霧のような人影が揺れている。
誰も気づかない。
老人も、乗客も、スマホを見たまま。
見えているのは、私だけだ。
そこからは少しだけ焦げた匂いがした。
油と埃に混じった、不快な臭い。
私は、確信していた。
──これは、私が「忘れなかったもの」だ。
バスが左折する瞬間、私は手を伸ばした。
指先が、霧をすり抜ける。
冷たい。
霧が形を整え、こちらを向いた。
顔はない。
それでも、はっきりと分かる。
怒っているのではない。
責めているのでもない。
──待っている。
視線のようなものが、私を捉えていた。
「……すみません」
私が謝ると、黒い霧はわずかに揺れた。
次の停留所で、私はバスを降りた。
喫茶店に入り、コーヒーを注文する。
砂糖を入れ、かき混ぜる。
メモ帳を開いた。
そこには、さきほどの出来事が書かれていた。
黒い霧。
冷たさ。
謝ったこと。
そして、最後の一行。
「異変は、私自身だ」
胸が、詰まった。
私は気づいてしまった。
異変を私が見ていたのではない。
世界の“異変”だったのは、私自身だったのだ。
忘れない人間。
気づいてしまう人間。
世界にとって、最も危険な存在。
だから、世界は私を守るために、私から記憶を奪う。
私はメモ帳を閉じた。
忘れることを、選んだ。
コーヒーを飲み干す。
カップの底に、影はもう映らない。
外に出ると、世界は驚くほど静かだった。
誰もが安心して、同じ現実を生きている。
私は歩き出す。
──もしまた、何かを見てしまったら。
そのときは、きっと、もう一度だけ書こう。
世界を壊さないために。
そして、私自身を生きるために。




