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記憶という異変

作者: TOMMY
掲載日:2026/02/05

勘違いしていた。

この世界は変わらないのではない。

変わったことが、綺麗に忘れられていくだけなのだ。


私は幼いころから、ほかの人には見えないものが見えていた。


空に浮かぶ正体不明の光。

空間に走る亀裂。

夜道に立つ、半透明の人影。


それらの異変を見つけるたび、私は足を止め、観察した。

色は。匂いは。温度は。触れたら、どうなるのか。


忘れないように、すべてメモ帳に書いた。


そのせいで、私は「不思議ちゃん」と呼ばれた。

けれど気にしなかった。

私にしか見えない世界がある。それは誇りだった。


──あのときまでは。


高校の帰り道、田んぼ道に赤い火の玉が浮かんでいた。

私は走り寄り、衝動のまま手を伸ばした。


温かい。

こたつで乾かした手袋に指を入れたときの、あの感触。


その瞬間、火の玉が震えた。


逃げるでも、消えるでもない。

まるで──怯えたように。


私は初めて、怖くなった。


「……ごめん」


その夜、メモ帳に書いたはずの記録は、朝には消えていた。


──


大人になった今でも、月に一度ほど、みんなに見えない異変が現れる。


その日は、バスの中だった。


吊革につかまる私の横に、黒い霧のような人影が揺れている。

誰も気づかない。

老人も、乗客も、スマホを見たまま。


見えているのは、私だけだ。


そこからは少しだけ焦げた匂いがした。

油と埃に混じった、不快な臭い。


私は、確信していた。


──これは、私が「忘れなかったもの」だ。


バスが左折する瞬間、私は手を伸ばした。

指先が、霧をすり抜ける。


冷たい。


霧が形を整え、こちらを向いた。


顔はない。

それでも、はっきりと分かる。


怒っているのではない。

責めているのでもない。


──待っている。

視線のようなものが、私を捉えていた。


「……すみません」


私が謝ると、黒い霧はわずかに揺れた。


次の停留所で、私はバスを降りた。


喫茶店に入り、コーヒーを注文する。

砂糖を入れ、かき混ぜる。


メモ帳を開いた。


そこには、さきほどの出来事が書かれていた。


黒い霧。

冷たさ。

謝ったこと。


そして、最後の一行。


「異変は、私自身だ」


胸が、詰まった。

私は気づいてしまった。


異変を私が見ていたのではない。

世界の“異変”だったのは、私自身だったのだ。


忘れない人間。

気づいてしまう人間。

世界にとって、最も危険な存在。


だから、世界は私を守るために、私から記憶を奪う。

私はメモ帳を閉じた。

忘れることを、選んだ。


コーヒーを飲み干す。

カップの底に、影はもう映らない。


外に出ると、世界は驚くほど静かだった。

誰もが安心して、同じ現実を生きている。

私は歩き出す。


──もしまた、何かを見てしまったら。


そのときは、きっと、もう一度だけ書こう。


世界を壊さないために。

そして、私自身を生きるために。

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