連鎖
九月。
陽子のもとに、一通のLINEが届いた。
瑠美からだった。何ヶ月ぶりかの連絡。
『お母さん、元気?』
陽子は驚いた。慌てて返信を打った。
『元気よ。瑠美は? 大学どう?』
返事はすぐに来た。
『まあまあ。今度、会えない? 話したいことがあるの』
陽子の心が跳ねた。娘が会いたいと言っている。話したいことがある。
『もちろん。いつでも』
『来週の土曜日、お昼、駅前のカフェで』
『分かった。楽しみにしてる』
陽子はスマートフォンを握りしめた。
瑠美が会いたいと言っている。何かあったのだろうか。でも、会えるだけで嬉しかった。
健二には——
「誰からLINE来たんすか」
背後から声がした。健二だった。
「瑠美よ。会いたいって」
「会う必要ないでしょ」
「娘よ?」
「山本さんのこと、散々傷つけた娘でしょ。また傷つけられるだけっすよ」
「でも——」
「俺がいるのに、他の人に会う必要ありますか」
健二の目が、陽子を見ていた。冷たい目。
「……分かったわ」
陽子は頷いた。
LINEを開いた。返信を打とうとした。「ごめん、その日は無理」と。
でも指が止まった。
瑠美の顔が浮かんだ。十八歳の娘。冷たい目で自分を見ていた娘。でも、あれは娘なのだ。自分の腹を痛めて産んだ、たった一人の娘なのだ。
「山本さん?」
健二が覗き込んできた。
「何してるんすか。早く断ってください」
陽子は——
断った。
『ごめんね。その日は予定があって。また今度ね』
送信した。
健二が満足そうに笑った。
「良かった。山本さんには、俺だけいればいいんすよ」
「……ええ」
陽子は頷いた。
頷きながら、自分の中の何かが死んでいくのを感じた。
それから三ヶ月後。
陽子は、一枚の写真を見た。
SNSで流れてきた写真。瑠美がアップしたものだった。
瑠美と、年上の男性が一緒に写っていた。四十代くらいだろうか。スーツを着ている。知的な顔立ち。
キャプションには、こう書いてあった。
『大切な人』
陽子はコメント欄を見た。友人らしき人たちのコメントが並んでいる。
『え、教授じゃない?』
『マジ? あの人、奥さんいるよね』
『瑠美、大丈夫?』
陽子は画面を見つめた。
手が震えていた。
教授。奥さんがいる。つまり——
瑠美は、妻子ある男と関係を持っている。
あの日、瑠美が会いたいと言ったのは、これを相談したかったのではないか。母親として、何か言ってほしかったのではないか。
でも陽子は断った。健二に言われて、断った。
娘を、見捨てた。
陽子は笑った。声を出して、笑った。
何を笑っているのか、自分でも分からなかった。でも笑いが止まらなかった。
瑠美は、母親と同じ道を歩もうとしている。
妻子ある男に惹かれ、禁断の関係に堕ちていく。母親を非難しておきながら、同じことをしている。
血は争えないのか。
それとも、私が見せた背中が、娘をそうさせたのか。
分からない。分からないまま、陽子は笑い続けた。
「山本さん、何笑ってるんすか」
健二が不審そうに聞いた。
「何でもないわ」
陽子はスマートフォンを閉じた。
「それより、夕飯何にする?」
「何でもいいっすよ。山本さんの作るものなら」
「じゃあ、パスタにするわね」
「はい」
陽子はキッチンに立った。
鍋に水を入れる。火にかける。沸騰するのを待つ。
その間、何も考えなかった。
考えることを、やめていた。
瑠美のことも。明美のことも。自分の人生のことも。
全部、もう遠いことだった。
今の陽子には、健二しかいない。
健二だけが、陽子を見ている。
健二だけが、陽子を必要としている。
それでいい。
それだけでいい。
パスタが茹で上がった。ソースをかけて、皿に盛る。
「できたわよ」
「ありがとうございます」
二人で食卓につく。狭いアパートの、小さなテーブル。
「美味いっすね」
「良かった」
健二が笑う。陽子も笑う。
幸せそうな光景。でもその幸せは、薄い膜のようだった。触れれば破れる、脆い膜。
陽子は気づいていた。
これが幸せではないことを。
これが愛ではないことを。
ただ、沈んでいるだけだということを。
でも、もう浮かび上がる力がなかった。
健二の視線が、陽子を捉えている。優しい目。でもその優しさの奥には、冷たいものがある。
陽子を逃がさない、という意志。
陽子は目を伏せた。
これでいい。
これが、私の選んだ水底だ。
暗い。冷たい。息ができない。
でも、誰も私を傷つけない。誰も私を捨てない。健二だけが、私を求め続けてくれる。
それだけでいい。
それだけで——
窓の外で、鳥が鳴いていた。
陽子は空を見た。青い空。どこまでも続く空。
あの空の下で、瑠美が同じ道を歩もうとしている。
母と娘。二人の女が、同じ闇に落ちていく。
連鎖は、終わらない。
終わらないまま、続いていく。
〈了〉




