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水底  作者: 卦位


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7/8

沈下

 四月、陽子は健二のアパートに引っ越した。


 狭い部屋だった。六畳一間にキッチン。陽子の荷物を入れると、さらに狭くなった。でも健二は嬉しそうだった。


「やっと一緒っすね」


「ええ」


「待ってたんです、この日を」


 健二が陽子を抱きしめた。強く。


「もう離さないっすからね」


 その言葉に、陽子は頷いた。


 これでいい。これが私の選んだ道だ。


 そう自分に言い聞かせた。




 一緒に暮らし始めてから、健二は変わっていった。


 いや、変わったのではない。隠していたものが、表に出てきただけだ。


「山本さん、今日どこに行ってたんすか」


「絵画教室よ。仕事」


「何時に終わったんすか」


「四時」


「じゃあ、何で家に着いたの六時なんすか」


「買い物して——」


「何買ったんすか」


「夕飯の材料」


「レシート見せてください」


 陽子は言葉を失った。


「……何で」


「何でって、確認したいだけっすよ。山本さんが嘘ついてないか」


「嘘なんて——」


「じゃあ見せてください」


 陽子はバッグからレシートを取り出した。健二がそれを受け取り、じっくりと見た。


「スーパー、四時半。確かにそうすね」


「だから言ったでしょう」


「すんません。でも確認しないと不安なんで」


 健二は笑った。でもその目は笑っていなかった。




 五月。


 陽子は絵画教室の仕事を辞めた。


 辞めたいと思ったわけではない。健二が言ったのだ。


「山本さん、絵画教室、男の生徒いるんすよね」


「一人だけ。七十代のおじいさんよ」


「でも男でしょ」


「おじいさんよ?」


「男は男っす」


「馬鹿なこと——」


「馬鹿じゃないっすよ。俺、山本さんが他の男と話してるの想像するだけで、頭おかしくなりそうなんで」


「健二さん——」


「辞めてくれませんか。絵画教室」


 陽子は黙った。


「俺の稼ぎだけじゃ足りないっすか」


「そういう問題じゃ——」


「俺、山本さんを養いたいんです。山本さんには、俺だけを見ていてほしい。それだけなんです」


 健二の目が、陽子を捉えていた。逃がさない目。


 結局、辞めた。


 倉庫の仕事だけが残った。それも、健二と同じシフトでしか入れなくなった。


「一緒に働けるほうがいいでしょ?」


 健二は笑顔で言った。陽子は頷くしかなかった。




 六月。


 陽子は、自分がどこにも行けなくなっていることに気づいた。


 朝、健二と一緒に倉庫に行く。仕事中、健二はずっと陽子を見ている。帰りも一緒。家に帰っても、一緒。


 一人になる時間がなかった。


「健二さん、私、少し一人で出かけたいんだけど」


「どこに?」


「美術館。久しぶりに絵を見たくて」


「俺も行きますよ」


「一人で——」


「何で一人がいいんすか。俺と一緒じゃ駄目なんすか」


「そういうわけじゃ——」


「じゃあ一緒に行きましょう」


 結局、二人で行った。でも健二は絵に興味がなかった。ずっとスマートフォンをいじっていた。陽子が絵の前で立ち止まると、「まだ見るんすか」とため息をついた。


「もう帰りましょうよ」


「でも——」


「疲れたんで」


 陽子は美術館を出た。


 帰り道、健二は上機嫌だった。


「今日、楽しかったっすね」


 陽子は何も言えなかった。




 七月。


 陽子は娘に連絡を取ろうとした。


 瑠美とは、引っ越してからほとんど連絡していなかった。何度かLINEを送ったが、返事は短かった。「元気」「忙しい」。それだけ。


 電話をかけてみた。呼び出し音が鳴る。出ない。


「誰に電話してるんすか」


 健二が後ろから声をかけた。


「瑠美よ。娘」


「何で」


「会いたいから。元気か確認したいから」


「必要ないっすよ」


「え?」


「娘さん、山本さんのこと嫌ってるんでしょ。そんな人に連絡したって、傷つくだけっすよ」


「でも、娘だから——」


「俺がいるじゃないすか」


 健二が陽子のスマートフォンを取り上げた。


「山本さんには俺がいれば十分でしょ。他の人なんて、いらないっすよ」


「健二さん——」


「ね?」


 健二の目が、陽子を見ていた。優しい目。でもその優しさの奥に、冷たいものがあった。


 陽子は頷いた。


 頷くしかなかった。




 八月。


 陽子は鏡を見た。


 五十歳になっていた。誕生日は、健二が祝ってくれた。ケーキを買ってきて、「おめでとうございます」と言った。二人きりの誕生日。


 鏡の中の自分は、疲れていた。痩せた。化粧をしなくなった。健二が「すっぴんのほうが好き」と言ったから。


 髪も伸びていた。美容院に行きたいと言ったら、健二が「俺が切る」と言った。下手だった。でも「似合ってる」と言われて、そのままにした。


 陽子の世界は、健二だけになっていた。


 友人はいない。娘とは連絡が取れない。絵も描いていない。


 残ったのは、倉庫の仕事と、健二との生活だけだった。


 ふと、明美のことを思い出した。


 田中明美。大学の後輩。二科展に入選した。「普通の主婦が描く現代絵画」として脚光を浴びた。


 あの人の夫は、「また描いてみたら」と言った。「お前の絵が好きだ」と言った。


 陽子の夫は、何も言わなかった。


 そして健二は——


「山本さん、俺の絵、見たいっす」


 そう言った。でも、「また描いてみたら」とは言わなかった。


 描かせてくれなかった。


 絵を描く時間も、場所も、心の余裕も、全部奪われていた。


 夫が違えば——


 その言葉が、また浮かんだ。


 でも今は、別の意味で響いた。


 夫が違えば、私は幸せになれた。でも健二を選んでも、私は幸せにならなかった。


 違ったのは、夫ではない。


 私自身だ。


 私が、間違え続けてきたのだ。


 藤井を捨てたとき。昭雄を選んだとき。健二に堕ちたとき。


 全部、間違いだった。


 でも、もう戻れない。


 陽子は鏡から目を逸らした。




 その夜、健二が言った。


「山本さん、俺のこと愛してますか」


「ええ」


「本当に?」


「本当よ」


「俺だけ?」


「あなただけよ」


 健二は満足そうに頷いた。


「俺も山本さんだけっす。山本さんがいないと、俺、生きていけない」


「……」


「山本さん、絶対に俺から離れないでくださいね」


「分かってるわ」


「約束して」


「約束する」


 健二は陽子を抱きしめた。強く。痛いくらいに。


「愛してます」


「私も」


 その言葉は、嘘ではなかった。嘘ではないはずだった。


 でも陽子の心は、どこか遠くにあった。


 空っぽだった。何も感じなかった。ただ、そう言うことが正解だと分かっていたから、そう言っただけだった。


 これでいいのだ。


 これが、私の選んだ人生なのだ。


 陽子は目を閉じた。


 暗闇の中で、健二の腕が陽子を締めつけていた。抱きしめるように。逃がさないように。

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