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水底  作者: 卦位


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6/8

崩壊

 離婚を切り出してから、家の中は戦場になった。


 昭雄は最初、離婚を拒んだ。プロジェクトの途中だ、スキャンダルは困る、もう少し待ってくれ。そればかり繰り返した。


「あなたの都合ばかりね」


「現実の問題だろう。俺が取締役になれなかったら、経済的にも——」


「私、働いてるわよ。自分で食べていける」


「絵画教室と倉庫のバイトで? 馬鹿言うな」


 その言葉が、陽子の中の何かを壊した。


「馬鹿言ってるのはどっちよ。ベトナムで女作っておいて、偉そうに」


「あれは——」


「あれは何? 遊び? 本気? どっちにしても、私を裏切ったことに変わりないでしょう」


 言い争いは、毎晩続いた。


 瑠美は自室にこもっていた。聞こえているはずだ。薄い壁越しに、両親の罵り合いが。


 ある夜、瑠美がリビングに降りてきた。


「うるさい。勉強できない」


 冷たい声だった。陽子は娘を見た。十八歳の顔。受験のストレスで、頬がこけていた。


「ごめんね、瑠美——」


「何やってるの、二人とも。いい年して」


「瑠美、お前は黙ってろ」


 昭雄が言った。瑠美の目が、父親を射抜いた。


「お父さんが浮気したんでしょ。お母さん、言ってたじゃない」


「それは——」


「最低」


 瑠美は父親に背を向けた。そして母親を見た。


「お母さんも。男がいるって、どういうこと」


 陽子は答えられなかった。


「二人とも最低。子供のことなんて、何も考えてない」


 瑠美は階段を駆け上がっていった。ドアが激しく閉まる音がした。


 リビングに、沈黙が落ちた。




 七月、離婚が成立した。


 協議離婚だった。昭雄は最終的に折れた。プロジェクトは佳境だったが、これ以上家庭内の争いを続けることが、かえって仕事に支障をきたすと判断したのだろう。


 財産分与は最低限。慰謝料はなし。互いに不貞があったから、どちらも請求しなかった。


 瑠美の親権は陽子が取った。でも瑠美は、母親とも口をきかなくなっていた。


「お母さんの男って、誰なの」


 ある日、瑠美が聞いた。


「……倉庫で知り合った人よ」


「いくつ」


「四十」


「お母さんより十も年下じゃない。気持ち悪い」


 その言葉が、陽子の胸に刺さった。


「瑠美、私は——」


「聞きたくない。お母さんの言い訳なんて」


 瑠美は部屋に戻っていった。


 陽子は一人、リビングに残された。


 気持ち悪い。娘にそう言われた。


 でも、止められなかった。健二への気持ちは、止められなかった。




 離婚が成立した日、陽子は健二に会った。


 いつもの喫茶店。でも今日は、二人の空気が違った。


「離婚、したんすね」


「ええ」


「おめでとうございます」


 健二が笑った。嬉しそうに。心から嬉しそうに。


「これで、山本さんは自由っすね」


「自由——」


「俺のものになれる」


 その言葉に、陽子は少し引っかかった。


「私は、誰のものでもないわよ」


「そうすか? 俺は違うと思いますけど」


 健二が陽子の手を握った。強く。


「山本さんは、俺のもんです。俺が見つけて、俺が守って、俺が愛してる。だから俺のもん」


「健二さん——」


「違います?」


 陽子は答えられなかった。


 健二の目が、陽子を捉えていた。熱い目。でもその熱の中に、何かがあった。執着。独占。所有欲。


 怖い、と思った。でも同時に、安心もした。


 こんなにも求めてくれる人がいる。こんなにも必要としてくれる人がいる。


 それは、陽子がずっと欲しかったものだった。


「山本さん、一緒に住みましょう」


「え?」


「離婚したんだから、もう隠す必要ないでしょ。俺のアパートに来てください」


「でも、瑠美が——」


「娘さんは、もうすぐ大学でしょ? 受験終わったら、一人暮らしするかもしれないし」


「まだ分からないわ」


「じゃあ、受験が終わったら。それまで待ちます」


 健二は笑った。でもその笑顔の裏に、譲らない意志があった。


「約束してください。受験が終わったら、俺のところに来るって」


 陽子は頷いた。


 頷いてしまった。




 夏が過ぎ、秋が来た。


 瑠美は受験勉強に没頭していた。母親とはほとんど口をきかない。必要最低限の会話だけ。


 陽子は絵画教室と倉庫の仕事を続けていた。離婚後、経済的には厳しくなった。昭雄からの養育費はあったが、それだけでは足りない。


 健二との関係は、深まっていった。


 週末は必ず会った。健二のアパートに行くこともあった。狭い部屋。六畳一間。でも健二がいると、そこが世界の全てになった。


「山本さん、今日も綺麗っす」


「毎日同じこと言うのね」


「毎日思ってるんで」


 同じやり取り。でも陽子には心地よかった。


 体を重ねた。何度も。健二は優しかった。でも時々、その優しさの裏に、激しいものが見えた。


「山本さんは俺だけのもんっすよね」


「ええ」


「他の男と話したりしないでくださいね」


「してないわよ」


「本当に?」


「本当よ」


「良かった」


 健二は陽子を抱きしめた。強く。痛いくらいに。


「俺、山本さんを失いたくないんです。山本さんがいなくなったら、俺、生きていけない」


 その言葉が、陽子の首に巻きついた。




 十一月、異変が起きた。


 絵画教室の帰り道、陽子は駅で偶然、昔の同僚に会った。大学時代の知り合い。男性。世間話を少ししただけだった。


 その夜、健二から電話が来た。


「今日、誰と話してたんすか」


「え?」


「駅で。男の人と」


 陽子は凍りついた。


「見てたの?」


「たまたま通りかかったんです。誰なんすか」


「昔の知り合いよ。大学時代の」


「何話してたんすか」


「別に。挨拶しただけ」


「本当に?」


「本当よ」


 電話の向こうで、健二が息を吐く音がした。


「すんません、疑って。でも、山本さんが他の男と話してるの見ると、どうしても——」


「健二さん、私を信じてないの?」


「信じてますよ。信じてます。でも不安なんです。山本さんを取られるんじゃないかって」


「取られないわよ。私は、あなたといるって決めたんだから」


「本当に?」


「本当よ」


「……ありがとうございます。愛してます」


「私も」


 電話を切った後、陽子は自分の手を見た。


 震えていた。


 見ていた。健二は、陽子を見ていた。偶然? それとも——


 分からない。分かりたくなかった。




 十二月。瑠美の受験が近づいていた。


 陽子は娘との関係を修復しようと、何度も話しかけた。でも瑠美は心を開かなかった。


「お母さん、いつ出ていくの」


 ある日、瑠美が聞いた。


「何を——」


「あの男の人のところに行くんでしょ。私が大学に入ったら」


 陽子は言葉を失った。


「分かってるわよ。お母さんが早くあの人のところに行きたいって思ってること」


「瑠美、そんなことは——」


「嘘つかないで」


 瑠美の目が、冷たく光っていた。


「お母さんは、私よりあの男を選んだの。お父さんより、あの男を選んだの。家族より、自分の気持ちを選んだの」


「違う、私は——」


「何が違うの。全部本当でしょ」


 陽子は何も言えなかった。


 瑠美は背を向けた。


「私、大学受かったら、一人暮らしする。お母さんと一緒にいたくない」


 その言葉が、陽子の胸を貫いた。




 年が明けた。


 二月、瑠美は志望校に合格した。


 陽子は喜んだ。心から喜んだ。でも瑠美は、合格を告げる言葉以外、何も言わなかった。


「おめでとう、瑠美。良かったね」


「ありがとう」


 それだけ。目も合わせなかった。


 三月、瑠美は一人暮らしを始めた。大学の近くにアパートを借りた。引っ越しの手伝いを申し出たが、断られた。


「一人で大丈夫」


「でも——」


「お母さんは、あの人のところに行けばいいじゃない。もう自由なんだから」


 瑠美は荷物をまとめて、出ていった。


 陽子は一人、空っぽになった部屋に立っていた。


 自由。


 そう、自由だ。夫はいない。娘も出ていった。


 残ったのは、健二だけだった。

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