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水底  作者: 卦位


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5/8

均衡

 関係が始まってから、陽子の生活は二重になった。


 表では、変わらない日常。絵画教室で生徒を教え、家で娘の世話をし、出張中の夫に時々LINEを送る。何も変わっていないように見える生活。


 裏では、健二がいた。


 倉庫での仕事の日は、必ず二人で帰った。駅までの十五分。その十五分が、陽子には何よりも大切な時間になっていた。


「山本さん、今日も綺麗っすね」


「毎日同じこと言うのね」


「毎日思ってるんで」


 健二は陽子の手を握る。人目を気にしながら、でも離さない。その手の温かさに、陽子は溺れていった。


 週末には、隣町の喫茶店で会った。あの薄暗い店。二人だけの場所。


 キスをした。何度も。体を重ねることは、まだなかった。でも健二は急かさなかった。


「山本さんのペースでいいっすよ。俺、待てるんで」


 その言葉が、かえって陽子を追い詰めた。優しさが、じわじわと陽子を縛っていった。




 五月の終わり、昭雄から珍しく電話が来た。


「来月、一時帰国する」


「そう。いつ?」


「十日から二週間くらい。会議があるんだ」


「分かった」


 それだけの会話。夫婦の会話とは思えないほど、事務的だった。


 電話を切った後、陽子は健二にLINEを送った。


『来月、夫が帰ってくる』


 返信はすぐに来た。


『そうすか。どのくらい?』


『二週間』


『会えなくなりますね』


『……そうね』


『寂しいっす』


『私も』


『でも、待ちますから。山本さんが戻ってくるまで』


 陽子はスマートフォンを握りしめた。


 待ってくれる。健二は待ってくれる。その言葉に、陽子は救われていた。


 でも同時に、怖かった。


 昭雄が帰ってくる。二週間、同じ屋根の下で暮らす。顔を見て、話をして、同じ食卓につく。


 その間、自分は平静でいられるだろうか。




 六月十日、昭雄が帰国した。


 成田空港まで迎えに行った。瑠美は模試があるからと、家に残った。


 到着ロビーで昭雄を見つけたとき、陽子は一瞬、他人を見ているような気持ちになった。


 三ヶ月ぶりの夫。少し痩せていた。疲れた顔をしていた。でも目は、どこか落ち着かなかった。


「お帰り」


「ああ、ただいま」


 車に乗り込む。高速道路を走りながら、ぽつぽつと会話をした。仕事の話。ベトナムの気候の話。プロジェクトの進捗の話。


 陽子のことは、何も聞かなかった。絵画教室のこと、家のこと、瑠美のこと。何も。


 いつものことだった。昭雄は自分の話しかしない。陽子の話は、聞いてもすぐに忘れる。


「プロジェクト、うまくいってるの?」


「まあな。順調だよ。これが成功すれば、取締役も見えてくる」


「そう。良かったね」


「ああ」


 それだけ。昭雄は窓の外を見ていた。何を考えているのか、陽子には分からなかった。


 分かりたいとも思わなかった。




 昭雄が帰ってきてから、家の空気が変わった。


 変わった、というより、歪んだ。


 表面上は普通だった。朝食を一緒に食べ、夜は陽子が作った夕飯を食べ、テレビを見て、寝る。十八年間続けてきた日常。


 でも陽子には、その日常が薄い膜のように感じられた。触れれば破れる、脆い膜。


 健二とのLINEは続けていた。昭雄が寝た後、深夜に。


『旦那さん、どうすか』


『普通よ。いつも通り』


『触られたりしてないすか』


 その質問に、陽子は少し驚いた。


『……してないわよ。もう何年も、そういうことはないから』


『良かった』


『良かったって何よ』


『山本さんに触れていいのは、俺だけでいてほしいんで』


 陽子は画面を見つめた。


 独占欲。健二の中にある、強い独占欲。最初は心地よかった。求められている証だと思った。でも最近、少しだけ怖くなってきた。


『健二さん、重いわよ』


『重くていいんです。山本さんに対しては、重くいたいんで』


『……』


『嫌ですか』


『嫌じゃない。でも——』


『でも?』


 陽子は何と答えればいいか分からなかった。嫌ではない。本当に嫌ではない。でも、この先どうなるのか、見えなかった。


『何でもない。おやすみ』


『おやすみなさい。山本さんのこと、ずっと考えてます』


 陽子はスマートフォンを閉じた。


 隣で昭雄が寝ている。その寝息を聞きながら、陽子は天井を見つめた。


 私は何をしているのだろう。


 夫の隣で、別の男のことを考えている。別の男の言葉に、心を揺らしている。


 罪悪感があるはずだった。でも薄かった。驚くほど薄かった。




 昭雄が帰国して一週間が経った頃、異変が起きた。


 夜、昭雄がシャワーを浴びている間、リビングに置きっぱなしにされた昭雄のスマートフォンが鳴った。


 LINEの通知音。


 陽子は見るつもりはなかった。でも画面に表示された名前が、目に入ってしまった。


「Linh」


 知らない名前だった。外国人の名前。ベトナム人だろうか。


 通知には、メッセージの一部が表示されていた。


『I miss you so much. When will you come back?』


 陽子は凍りついた。


 miss you。恋しい。いつ戻ってくるの。


 それは、仕事の関係者が送るメッセージではなかった。


 陽子はスマートフォンを手に取った。取ってから、何をしているのか分からなくなった。でも指が勝手に動いた。画面をスワイプした。ロックがかかっていなかった。


 LINEを開いた。「Linh」とのトーク履歴。


 スクロールした。読んだ。


 読みながら、体の芯が冷えていくのを感じた。


『今日も会えて嬉しかった』


『君といると、日本に帰りたくなくなる』


『妻とはもう終わってる。君だけだ』


『愛してる』


 写真もあった。若い女性。二十代だろう。黒髪のベトナム人。綺麗な顔立ち。昭雄と一緒に写っている写真もあった。レストランで、二人で笑っている。


 シャワーの音が止まった。


 陽子は慌ててスマートフォンを元の場所に戻した。


 昭雄がリビングに戻ってきた。髪を拭きながら、スマートフォンを手に取った。画面を見て、少しだけ表情が変わった。でもすぐに元に戻った。


「何か見たか?」


「何が?」


「いや、別に」


 昭雄はスマートフォンをポケットに入れた。それから、テレビのリモコンを取って、ソファに座った。


 何事もなかったように。


 陽子はキッチンに立った。水を一杯飲んだ。手が震えていた。


『妻とはもう終わってる』


 あの言葉が、頭の中で反響していた。


 終わってる。昭雄にとって、私との関係は「終わってる」。


 不思議と、怒りは湧かなかった。悲しみも、薄かった。


 ただ、空虚だった。


 そうか、と思った。お互い様なのだ。昭雄も、私も。互いを裏切っている。互いを欺いている。


 この結婚は、とっくに死んでいたのだ。




 その夜、陽子は健二に電話をした。


「どうしたんすか、こんな時間に」


「……夫が、不倫してた」


 電話の向こうで、健二が息を呑む音がした。


「見つけたんすか」


「スマートフォン、見てしまって。ベトナム人の若い女と——」


「ひどいっすね」


 健二の声は、怒りを含んでいた。


「山本さんみたいな人がいるのに、他の女と。許せないっす」


「……でも、私も同じことしてる」


「違いますよ」


「違わないわ。私もあなたと——」


「違います」


 健二の声が強くなった。


「山本さんは、愛されてなかったから俺のところに来た。でも旦那さんは、山本さんを愛さないまま、他の女のところに行った。全然違います」


「……」


「山本さんは悪くない。悪いのは旦那さんです」


 陽子は黙って聞いていた。


「俺、山本さんのこと守りますから。もう傷つけさせない」


 その言葉に、陽子は泣いた。声を殺して、泣いた。


「会いたいっす。今すぐ」


「無理よ。夫がいるから」


「じゃあ、明日。絶対」


「……分かった」


「約束ですよ」


「約束する」


 電話を切った。涙が止まらなかった。


 健二がいる。健二だけが、私を見てくれる。健二だけが、私を守ってくれる。


 その思いが、陽子の中で大きくなっていった。




 翌日、陽子は嘘をついて家を出た。


 絵画教室の用事があると言って、隣町の喫茶店に向かった。健二が待っていた。


「山本さん」


 健二が立ち上がった。陽子を抱きしめた。強く。


「辛かったっすね」


「……うん」


「もう大丈夫っす。俺がいるから」


 陽子は健二の胸に顔を埋めた。温かかった。安心した。


 この人がいれば、大丈夫。


 そう思った。


「山本さん、離婚、考えてますか」


 健二が聞いた。


「……分からない」


「考えたほうがいいっすよ。あんな旦那、いる意味ないでしょ」


「でも、瑠美が——」


「娘さんは、もう十八でしょ? 大人っすよ。大学に入れば、家を出るかもしれないし」


「……」


「山本さん、俺と一緒になりませんか」


 陽子は顔を上げた。健二の目が、真っ直ぐに陽子を見ていた。


「俺、山本さんと一緒にいたい。ずっと。毎日、山本さんの顔を見て、山本さんの声を聞いて、山本さんに触れていたい」


「健二さん——」


「答えは今じゃなくていいっす。でも、考えてください。俺は本気だから」


 陽子は頷いた。


 考える。考えなければ。


 でも頭の中は、もう健二でいっぱいだった。




 昭雄の帰国期間が終わりに近づいた頃、陽子は決意した。


 問い詰めよう。昭雄に。「Linh」のことを。


 ある夜、瑠美が自室に入った後、リビングで昭雄と二人になった。


「話があるの」


「何だ」


 昭雄はスマートフォンを見ながら答えた。画面から目を離さない。いつものことだった。


「あなた、ベトナムで女がいるでしょう」


 昭雄の手が止まった。顔を上げた。目が少し見開かれていた。


「……何の話だ」


「Linhという人。スマートフォン、見たの」


 沈黙が落ちた。


 昭雄は画面を閉じた。ソファに深く座り直した。


「いつ見た」


「先週。あなたがシャワーを浴びてる間」


「……そうか」


 昭雄は溜息をついた。否定しなかった。


「本気なの? その人と」


「分からない」


「分からない?」


「向こうは本気だろう。俺は——分からない」


 陽子は昭雄を見た。五十三歳の夫。出世を目指して働いてきた男。でも今、その顔には疲労と、そして罪悪感のようなものがあった。


「私と、別れたいの?」


「……今は困る。プロジェクトの途中だ。スキャンダルになったら——」


「そういうことを聞いてるんじゃない」


 陽子の声が、少し荒くなった。


「私を愛してるかって聞いてるの」


 昭雄は黙った。長い沈黙だった。


「……分からない」


 その言葉が、答えだった。


「そう」


 陽子は立ち上がった。


「私にも、いるわよ」


「何?」


「男が。私にも、男がいる」


 昭雄の顔が強張った。


「本気か」


「本気よ」


「誰だ」


「言う必要ある? あなたにも言わなかったでしょう、私に」


 昭雄は黙った。


 二人は向かい合っていた。夫婦として、十八年間。でも今、その関係は完全に壊れていた。


「どうする?」


 陽子が聞いた。


「どうするって——」


「離婚する? それとも、このまま続ける?」


 昭雄は頭を抱えた。


「待ってくれ。今は——プロジェクトが——」


「私はもう待たない」


 陽子の声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「あなたが決めないなら、私が決める。離婚よ」


「陽子——」


「十八年、待ったわ。あなたが私を見てくれるのを。あなたが私の絵を理解してくれるのを。でも無駄だった」


 涙が出なかった。もう枯れていた。


「私、別の人と生きる。私を見てくれる人と」


 昭雄は何も言えなかった。


 その夜、二人は別々の部屋で眠った。

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