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水底  作者: 卦位


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4/8

発火

日曜日は、よく晴れていた。


 陽子は朝から落ち着かなかった。瑠美が図書館に行くと言って出かけるのを見送り、一人になった。


 鏡の前に立つ。何を着ていくか、昨夜から考えていた。結局、紺のワンピースを選んだ。少しだけ胸元が開いたデザイン。買ってから一度も着ていなかった。買い物依存の時期に買った一着。


 化粧をした。いつもより丁寧に。口紅の色も、少し明るいものにした。


 馬鹿みたいだ。


 四十九歳の女が、十も年下の男に会うために着飾っている。馬鹿みたいだ。


 でもやめなかった。


 待ち合わせ場所は、隣町の駅前だった。倉庫の近くは避けた。知り合いに見られたくなかったから。


 駅に着くと、佐藤はもういた。私服姿を見るのは初めてだった。黒いシャツにジーンズ。作業着とは印象が違った。少しだけ、若く見えた。


「山本さん」


 佐藤が近づいてきた。目が輝いていた。


「その服、すごく似合ってます」


「……ありがとう」


「今日、来てくれて嬉しいです。ずっと待ってたんで」


 二人で歩き出した。佐藤が少し先導する形で、商店街を抜けていく。


「どこに行くの?」


「いい店知ってるんすよ。静かで、落ち着けるとこ」


 連れて行かれたのは、雑居ビルの二階にある喫茶店だった。古い内装。薄暗い照明。客は他にいなかった。


 奥の席に座る。向かい合う形。佐藤の目が、じっと陽子を見ていた。


「何飲みます?」


「コーヒーでいいわ」


 佐藤が注文した。店員が去ると、また二人きりになった。


「緊張してます?」


「……少し」


「俺もっす。でも嬉しいほうが大きいっすね」


 コーヒーが来た。陽子はカップを両手で包んだ。温かかった。


「山本さん、旦那さんとは、いつから上手くいってないんすか」


 唐突な質問だった。でも陽子は答えた。


「……分からない。いつからだろう。気づいたら、こうなってた」


「最初から?」


「最初は違った。と思う。でも、何年も経つうちに——」


「絵のこと、分かってもらえなかったんすよね」


「ええ」


「それが一番辛かったんじゃないすか」


 陽子は頷いた。


「私の一番大切なものを、見てもらえなかった。それが——」


「分かります」


 佐藤が身を乗り出した。


「俺も、そういうこと経験したから。元嫁に、何も分かってもらえなかった。俺が何を考えてるか、何が好きか、何を大事にしてるか。全部、無視された」


「だから別れたの?」


「そうっす。二年で限界だった」


 佐藤の目が、陽子を捉えていた。


「でも山本さんは、我慢してきたんすよね。十八年も」


「……子供がいたから」


「それだけ?」


「それだけじゃない。経済的なこともあったし、自分に自信がなかったし——」


「今は?」


「今?」


「今、旦那さんのこと、愛してますか」


 陽子は言葉に詰まった。


 愛しているか。昭雄を。


 考えたことがなかった。というより、考えないようにしていた。


「……分からない」


「分からない、か」


 佐藤は少し笑った。


「俺は、分かりますよ。山本さんは、旦那さんを愛してない」


「勝手に決めないで」


「でも当たってるでしょ」


 陽子は黙った。否定できなかった。


「山本さんは、愛されたいんすよ。本当に見てくれる人に。本当に分かってくれる人に」


「……」


「俺、山本さんのこと見てます。ずっと見てる。山本さんの全部を、知りたいと思ってる」


 佐藤の手が、テーブルの上で陽子の手に触れた。


「俺じゃ、駄目ですか」


 心臓が止まりそうだった。


 駄目だ。駄目に決まっている。夫がいる。娘がいる。こんなことは——


「……駄目よ」


 陽子は言った。でも手を引かなかった。


「どうして」


「夫がいるから」


「愛してないのに?」


「それでも——」


「じゃあ、俺のことは?」


 陽子は佐藤を見た。落ち窪んだ目。こけた頬。でもその目には、熱があった。陽子を求める熱。


「俺のこと、嫌いですか」


「……嫌いじゃない」


「好き?」


「分からない」


「じゃあ、これから分かればいいじゃないすか」


 佐藤の手が、陽子の手を握った。強く。


「俺、待ちますから。山本さんが俺を選んでくれるまで。何年でも待ちます」


 陽子は振り払うべきだった。立ち上がって、店を出るべきだった。


 でもできなかった。


 握られた手が、温かかった。誰かに触れられるのは、いつ以来だろう。昭雄は、もう何年も陽子に触れていない。


「佐藤さん——」


「健二でいいですよ」


「……健二さん」


「はい」


「私、四十九よ。あなたより九つも上。こんなおばさんを——」


「おばさんなんかじゃないっすよ。山本さんは綺麗です。俺、最初に見たときから、綺麗だと思ってた」


 佐藤——健二が、立ち上がった。陽子の隣に移動してきた。


 近い。体温が感じられるほど近い。


「山本さん」


「……何」


「キスしていいですか」


 陽子は答えなかった。答える前に、健二の唇が重なってきた。


 柔らかかった。温かかった。長いキスだった。


 離れたとき、陽子の目から涙が溢れていた。


「泣いてる」


「……ごめん」


「謝らないでください。俺、山本さんを泣かせたかったわけじゃないんで」


「分かってる。分かってるの。でも——」


 涙が止まらなかった。


 何年も、こうやって誰かに求められることがなかった。誰かに触れられることがなかった。誰かに「綺麗だ」と言われることがなかった。


 健二が陽子を抱きしめた。


「大丈夫っす。俺がいるから。これからは、俺が山本さんを見ますから」


 その言葉に、陽子は頷いた。


 もう後戻りできない。分かっていた。


 でも後戻りしたくなかった。




 その日の夜、陽子は自分の部屋で天井を見つめていた。


 唇にはまだ、健二の感触が残っていた。


 何をしてしまったのだろう。


 夫がいる。娘がいる。それなのに、別の男とキスをした。不倫だ。明らかに。


 でも罪悪感より、別の感情のほうが大きかった。


 満たされた、という感覚。


 空っぽだった器に、何かが注がれた。それがどんなに危険なものでも、陽子にはもう止められなかった。


 LINEが来た。健二からだった。


『今日はありがとうございました。幸せでした』


『俺、山本さんのこと、本気で好きです』


『もう離さないんで。覚悟しといてください』


 離さない。


 その言葉に、陽子は震えた。


 怖い。でも嬉しい。


 藤井を思い出した。大学時代の彼氏。あの頃、藤井も同じようなことを言っていた。「君を離さない」と。でも陽子は、自分から離れた。藤井を捨てて、昭雄を選んだ。


 今、その逆が起きている。


 陽子が、昭雄を裏切ろうとしている。


 因果応報だろうか。


 でも、もう止められなかった。


『私も、嬉しかった』


 返信を送った。


 火が燃え始めていた。消せない火。消したくない火。


 陽子は、堕ちていった。

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