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水底  作者: 卦位


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3/8

接近

水曜日が来た。


 陽子は朝から落ち着かなかった。鏡の前で服を選び直した。何を着ていくか迷った。結局、いつもと同じ黒のパンツとカーキのシャツに落ち着いたが、少しだけ口紅を塗った。


 馬鹿みたいだ、と思った。倉庫に行くのに化粧をして何になる。


 でもやめなかった。


 倉庫に着くと、佐藤はもういた。入口近くの棚の前に立っていた。陽子を見つけると、すぐに近づいてきた。


「山本さん、おはようございます」


「おはよう」


「待ってました」


 その言葉を、佐藤はさらりと言った。冗談のように。でも目は笑っていなかった。じっと陽子を見ている。


「……そう」


 陽子は視線を逸らした。ロッカーに向かって歩き出す。佐藤がついてくる気配があった。


「山本さん、今日も綺麗っすね」


「何言ってるの」


「本当のこと言ってるだけっすよ」


 佐藤の声は穏やかだった。でもその穏やかさの奥に、何かがあった。陽子には掴めない何か。


 更衣室の前で立ち止まる。「じゃあ、また後で」と言って中に入った。一人になると、心臓が速くなっているのに気づいた。


 待ってました。


 その言葉が、胸の中で反響していた。




 午前中の作業は、佐藤と二人だった。


 他のスタッフは別のエリアにいて、陽子と佐藤は倉庫の奥で検品作業をしていた。段ボールを開け、中身を確認し、伝票と照合する。単純作業。でも佐藤がいると、空気が違った。


「山本さん、土日何してたんすか」


「別に。家にいただけよ」


「旦那さんは?」


「出張中」


「へえ。寂しくないすか」


 陽子は手を止めた。佐藤を見る。彼は段ボールを開けながら、何気ない顔をしていた。


「……別に」


「俺だったら寂しいっすね。山本さんみたいな人が家にいるのに、出張なんて」


「仕事だから仕方ないでしょ」


「仕方ないっすかね」


 佐藤は顔を上げた。陽子を見る。


「俺だったら、仕事より山本さんを選ぶっすけど」


 心臓が跳ねた。陽子は慌てて視線を逸らした。


「何を言ってるの。会ったばかりでしょう」


「会ったばかりでも、分かることはあるっすよ」


「何が分かるの」


「山本さんが、大事にされてないってこと」


 陽子は言葉を失った。


 佐藤は作業を続けながら言った。


「顔見れば分かります。寂しそうな顔してる。誰かに見てほしいって顔」


「そんなこと——」


「違います?」


 陽子は答えられなかった。


 違わない。違わないのだ。昭雄には見てもらえない。娘にも見てもらえない。誰にも。


 佐藤が一歩近づいた。


「俺、山本さんのこと見てますよ」


 低い声だった。囁くような。でもはっきりと聞こえた。


「ずっと見てます」




 昼休み、休憩室に行くと他のスタッフが数人いた。陽子はいつもの窓際の席に座った。佐藤は少し離れた席に座った。


 他の人がいるときは、距離を取る。それが暗黙のルールのようになっていた。でも佐藤の視線は、ずっと陽子を追っていた。食べているときも、スマートフォンを見ているときも。


 陽子はそれに気づいていた。気づいていて、嫌ではなかった。


 見られている。


 その感覚が、どこか心地よかった。


 休憩時間が終わる少し前、他のスタッフが先に出ていった。残ったのは陽子と佐藤だけだった。


 佐藤が立ち上がり、陽子の席に近づいてきた。


「山本さん」


「何」


「LINE、教えてもらえませんか」


 唐突だった。陽子は戸惑った。


「……何で」


「山本さんと、もっと話したいんで」


「仕事中に話せるでしょ」


「仕事中じゃ足りないんすよ」


 佐藤の目が、陽子を捉えていた。逃がさない目。


「山本さんのこと、もっと知りたいんです」


「私のことなんて、知っても面白くないわよ」


「俺が決めます。面白いかどうかは」


 陽子は黙った。


 断るべきだ。分かっていた。夫がいる。娘がいる。こんなところで、見ず知らずの男にLINEを教えるなど。


 でも口が動いた。


「……いいわよ」


 言ってしまった。言ってしまってから、後悔した。でも取り消せなかった。


 佐藤は笑った。嬉しそうに。でもその笑顔には、獲物を捕らえたような光があった。


「ありがとうございます」


 二人でスマートフォンを出して、IDを交換した。佐藤の指が、陽子のスマートフォンに触れた。その一瞬、背筋がざわついた。


「今夜、連絡しますね」


「……ええ」


 佐藤は満足そうに頷いて、休憩室を出ていった。


 陽子は一人残された。自分のスマートフォンを見つめた。佐藤健二。友だちリストに名前が追加されていた。


 何をしているのだ。


 分かっている。分かっているのに、止められなかった。




 その夜、瑠美が帰ってきたのは十時過ぎだった。


「遅かったね」


「うん。自習室混んでて」


「ご飯、食べた?」


「コンビニで買ってきた」


 それだけ言って、瑠美は自分の部屋に入っていった。


 陽子はリビングに一人残された。テレビをつけた。何も見ていなかった。スマートフォンを握りしめていた。


 佐藤からの連絡を、待っていた。


 十時半、LINEが来た。


『山本さん、今日はありがとうございました』


 心臓が跳ねた。返信を打つ。


『こちらこそ。お疲れ様でした』


 すぐに返事が来た。


『家、着きました?』


『ええ、とっくに』


『良かったです。心配してました』


『大げさね』


『大げさじゃないっすよ。山本さんのこと、ずっと考えてたんで』


 陽子は画面を見つめた。


 ずっと考えてた。


 その言葉の重さ。普通なら引くところだ。初めて連絡先を交換した相手に、「ずっと考えてた」なんて。重い。怖い。


 でも陽子の心は、違う反応をしていた。


 嬉しい。


 誰かが自分のことを考えている。見ている。気にかけている。それがこんなにも嬉しいとは。


『山本さん、今何してます?』


『テレビ見てる。見てないけど』


『旦那さんは?』


『出張中って言ったでしょ』


『そうでした。じゃあ一人っすか』


『娘がいるわ』


『でも、部屋にいるんでしょ?』


『……そうね』


『寂しくないすか』


 また、その質問。陽子は少し考えて、正直に答えた。


『少し、ね』


『俺と話してると、少しはマシになります?』


『……なるかも』


『良かった。俺、山本さんの寂しさ、埋めたいんです』


 陽子は息を呑んだ。


 埋めたい。


 その言葉が、胸に刺さった。


『大げさよ』


『本気っすよ』


『何で。会ったばかりなのに』


『会った瞬間から、山本さんのこと気になってたんです。初日、倉庫に来たとき。ああ、この人だって思った』


『この人って何よ』


『俺が探してた人』


 陽子は返信できなかった。指が震えていた。


 探してた人。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。昭雄は言わなかった。藤井も言わなかった。誰も。


『重いっすよね。すんません。でも嘘は言いたくないんで』


『……』


『引きました?』


『少し』


『でも、ブロックはしないでくれるんすね』


 陽子はスマートフォンを見つめた。ブロックすればいい。今すぐ。これ以上関わらないほうがいい。分かっている。


 でも指が動かなかった。


『しない』


 送信した。


『ありがとうございます。おやすみなさい。また明日、連絡しますね』


『……おやすみ』


 陽子はスマートフォンを置いた。手が震えていた。


 何をしているのだ。


 夫がいる。娘がいる。四十九歳の、いい年をした女が、何をしているのだ。


 でも胸の奥で、小さな火が燃えていた。消せない火。消したくない火。


 佐藤は危うい。分かっている。普通ではない。初対面で「探してた人」なんて言う男は、普通ではない。


 でも、その危うさが——


 陽子は目を閉じた。


 藤井を思い出した。大学時代の彼氏。痩せていて、神経質で、でも絵に対しては誰よりも真剣だった。陽子を見る目が、いつも真っ直ぐだった。


 佐藤の目は、藤井に似ている。


 でも違う。藤井の目には純粋さがあった。佐藤の目には、それがない。代わりに、何か別のものがある。飢え。渇き。そして——執着。


 危険だと、頭では分かっている。


 でも心が、その危険に惹かれていた。




 翌日から、LINEは毎日来るようになった。


 朝、『おはようございます』。


 昼、『今日も頑張ってください』。


 夜、『今日はどうでしたか』。


 陽子は返信した。最初は短い返事だった。でも少しずつ、長くなっていった。


 佐藤は聞き上手だった。陽子の話を、何でも聞いた。絵画教室のこと、生徒のこと、昔描いていた絵のこと。


『山本さんの絵、見てみたいっすね』


『もう描いてないから』


『なんで描かなくなったんすか』


 陽子は迷った。明美のことを話すべきか。でも話してしまった。


 後輩が二科展に入選したこと。自分は何度出しても駄目だったこと。夫が絵に無関心だったこと。


『それ、辛かったっすね』


 佐藤の返信は、シンプルだった。でもその一言が、陽子の胸に染みた。


『旦那さん、ひどいっすね。山本さんの才能、分からないなんて』


『才能なんて——』


『ありますよ。俺は分かります。山本さんの手を見れば』


『手を見ただけで分かるわけないでしょ』


『分かるんすよ。何かを作ってきた人の手は、違うんです』


 陽子は自分の手を見た。四十九歳の手。皺が増えた。でも確かに、絵を描いてきた手だ。


 昭雄は一度も、そんなことを言わなかった。


『山本さん、また描いてみたらどうすか』


『今さら——』


『今さらなんてないっすよ。俺、山本さんの絵、見たいです。山本さんが描いた絵を』


 陽子は返信できなかった。涙が滲んでいた。




 倉庫での仕事は、週に三日。水曜、金曜、土曜。その三日間が、陽子にとって特別な時間になっていった。


 佐藤は相変わらず、陽子のそばにいた。作業中、休憩中、帰り道。いつも近くにいて、いつも見ていた。


「山本さん、今日の服、似合ってますね」


「山本さん、髪、いつもより綺麗っすね」


「山本さん、笑った顔、好きっす」


 小さな言葉を、積み重ねてくる。陽子はそれに慣れていった。慣れて、心地よくなっていった。


 でも同時に、佐藤の危うさも見えてきた。


 ある日、倉庫の若い女性スタッフが陽子に話しかけてきた。仕事のことで質問があるという。陽子は丁寧に答えた。


 その後、佐藤が近づいてきた。


「さっき、何話してたんすか」


「仕事のことよ。検品の手順を聞かれて」


「そうすか」


 佐藤は頷いた。でも目が笑っていなかった。


「あの子、山本さんに懐いてますね」


「別に。仕事の話しかしてないわよ」


「でも、楽しそうに話してたじゃないすか」


「楽しそうって——普通に話してただけよ」


「俺以外と楽しそうに話してると、ちょっと嫌なんすよね」


 陽子は言葉に詰まった。


「……何それ」


「すんません、変なこと言って」


 佐藤は笑った。でもその笑顔の奥に、冷たいものがあった。


「でも本音なんで。山本さんには、俺だけ見てほしいんです」


 陽子は黙った。


 怖い、と思った。でも同時に、嬉しいとも思った。こんなにも自分を求めてくれる人がいる。独占したいと思ってくれる人がいる。


 歪んでいる。分かっていた。でも、その歪みが心地よかった。




 一ヶ月が経った。


 陽子と佐藤の関係は、まだ一線を越えていなかった。LINEのやり取り、倉庫での会話、帰り道の同行。それだけ。


 でも陽子の心は、確実に佐藤に傾いていた。


 昭雄からの連絡は相変わらず少なかった。週に一度、事務的なLINEが来るだけ。電話はもうしなくなった。かけても出ないから。


 瑠美は受験勉強に追われていた。家にいても、ほとんど部屋にこもっている。陽子と話すのは、朝と夜の挨拶くらいだった。


 家の中で、陽子は透明人間のようだった。誰にも見られていない。誰にも必要とされていない。


 でも佐藤は違った。


 佐藤だけが、陽子を見ていた。


『山本さん、今日も一日お疲れ様でした』


『山本さんの声、聞きたいっす。電話してもいいすか』


『山本さんのこと考えてたら眠れないんです』


 毎日、毎日、言葉が積み重なっていく。陽子はそれに溺れていた。


 ある夜、佐藤から電話が来た。


「山本さん」


「何」


「会いたいです」


 陽子は黙った。


「仕事以外で。二人で。会ってくれませんか」


 心臓が速くなった。


「……いつ」


「日曜日。旦那さん、いないんでしょ?」


「瑠美がいるわ」


「どこかで会えばいいじゃないすか。外で」


 陽子は考えた。考える必要なんてなかった。答えは決まっていた。


「……いいわよ」


 電話の向こうで、佐藤が息を呑むのが分かった。


「ありがとうございます。絶対、後悔させないんで」


 陽子は電話を切った。手が震えていた。


 何をしているのだ。


 分かっている。分かっているのに、止められない。


 日曜日。あと三日。


 陽子は、落ちていく自分を感じていた

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