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銅線で繋がる男女の友情~私達3人のやさしい距離感~

作者: 北真っ暗


第一章 彼を待つ部屋


 カッターの刃を当てて、ぐっと力を込めると、銅線を覆う黒いチューブがぴり、と裂けた。中から覗く銅色の線が、蛍光灯の光を鈍く反射する。

 何度も繰り返すうちに、指先はひりひりと痛みを訴えていた。絆創膏を貼ったところはもう端がめくれ、刃先で擦れて新しい小さな切り傷が浮かんでいる。

 それでも手を止めるわけにはいかなかった。

 今頃、彼はまだ会社で働いている。終電を過ぎても帰ってこないこともある。毎日のように残業に追われ、帰宅してもまた別の仕事を持ち帰ってくる。

 その中の一つが、この銅線を剥く作業だ。彼が働く会社の取引先の頼みだ。誰かお願い出来ないかと言われ、請け負ってしまったらしい。

「これぐらいなら、私にもできるから」

 自分にそう言い聞かせて、黙々と刃を滑らせる。

 単調だけれど集中力を要する作業。ほんのわずかでも力を入れすぎれば、銅線そのものに傷が入り、台無しになってしまう。

 だからこそ、彼が毎日これをこなしていると思うと、胸が締めつけられた。

 時計を見ると、もう夜の十一時を回っている。

 テレビはつけっぱなしだったが、流れるニュースやバラエティの内容はまるで頭に入ってこない。ただ、無音の部屋に一人でいるのが怖くて、音を流していただけだ。

 剥いた銅線を束ねて机の端に寄せる。最初に比べれば山はだいぶ小さくなったけれど、それでもまだ終わりは見えなかった。

 ――少しでも、彼の負担を減らせるように。

 その思いだけで手を動かし続ける。

 玄関の鍵が回る音がしたのは、日付が変わる頃だった。

 がたん、とドアが開き、彼が重たい足取りで入ってくる。

「おかえり」

 慌てて立ち上がり、リビングの明かりを少し明るくする。

「……まだ起きてたのか」

「うん。ちょっとだけ、手伝っておいたよ」

 テーブルの上には、彼が持ち帰ったチューブの山と、剥き終わった銅線の束が整然と並んでいる。

 彼はそれを見て、一瞬驚いたように目を丸くした。けれど、すぐに疲労が勝ったのか、ただ「そっか」と呟いて椅子に崩れ落ちた。

 本当は「ありがとう」と言ってほしかった。

 でも、その言葉を求めてしまったら、もっと彼を追い詰めてしまう気がして、笑顔を作るしかない。

「ご飯、温めるね。すぐ食べられるから」

「ああ……」

 短い返事を残し、彼はソファに横たわる。ネクタイを緩めることすらせず、スーツのまま目を閉じた。

 レンジに皿を入れながら、小さく呟いた。

「お疲れさま」

 その声は、眠りに落ちかけている彼には届いていない。

 やがて、温めたご飯をテーブルに並べても、彼は起き上がらなかった。無理に起こすのも可哀想で、そのまま毛布を掛けてやる。

 部屋の片隅には、剥きかけのチューブと、散らばった銅線の屑が残っている。

 痛みを確かめるように手を握りしめると、指先の熱がじんと広がった。

 ――私は支えたい。

 でも、このやり方でいいのだろうか。

 心の奥底に小さな不安が芽を出していた。

 彼のためにと頑張っているのに、孤独がつきまとう。笑顔を向けても返ってこない。声をかけても届かない。

 支えているはずなのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。

 気持ちを整理するため、机の端に置いた小さなノートを開く。

 そこには、彼のためにやったことや、その日の自分の思いを日記のように綴っていた。

「今日もチューブを剥いた。指先が痛いけど、彼の笑顔が見たいから頑張れる」

「でも、最近あんまり話していない。疲れてるのは分かるけど、少し寂しい」

 書きながら涙がにじむ。ノートの紙に小さな染みが広がっていく。

 それでも最後に必ず一文を加えることにしていた。

「――私は彼の事が好きです」

 ペンを置き、深呼吸をして、ノートを閉じる。

 ソファで眠る彼の横顔を見ながら、小さく微笑もうとした。

 孤独と不安を抱えていても、彼がここに帰ってきてくれる限り、自分は頑張れる。

 そう自分に言い聞かせながら、部屋の明かりを落とした。



第二章 先輩のまなざし


 翌日の昼休み、会社の給湯室でマグカップを手にしていた。インスタントのコーヒーを注ぎながら、ふと指先の絆創膏を気にする。

 ――昨夜もだいぶ剥いたから、また新しい傷になっちゃった。

 袖口で隠しているつもりでも、何気なく視線が指先にいってしまう。

「また切ったのか?」

 背後から声がかかって、思わずカップを落としそうになった。振り返ると、同じ部署の先輩、笹本先輩が立っていた。落ち着いた雰囲気の三十代で、いつも周囲に気を配る人だ。

「あ、えっと……ちょっと料理で」

「料理? 包丁で切ったにしては傷が細いな」

「……」

 言葉に詰まると、笹本先輩は無理に問い詰めることなく、やわらかく笑った。

「まあ、深く聞かないけど。気をつけろよ」

 笹本先輩のそういうさりげなさに、少し救われる気がした。

夕方、仕事を終えて帰ろうとしたとき、笹本先輩から声をかけられた。

「このあと飯行かないか? 新しくできた定食屋、結構うまいらしいぞ」

 誘われて、私は一瞬ためらった。家に帰れば、また銅線の作業が待っている。けれど、今日は彼が出張で遅くなると言っていた。少しぐらい寄り道しても大丈夫だろう。

「……はい。じゃあ、ご一緒します」

 店は職場から歩いて五分ほど。木の温もりを感じる内装で、落ち着いた雰囲気が漂っていた。私は久しぶりに、誰かと並んで食事をしているという事実に、胸の奥が温かくなるのを感じた。

「どうだ? 結構うまいだろ」

「はい……。なんだか、ちゃんとご飯を食べるの、久しぶりな気がします」

 ぽろりと本音が漏れ、私は慌てて口を押さえた。笹本先輩は驚いたように私を見て、それから静かに笑った。

「無理してるんだな」

「そんなこと……」

「顔を見ればわかる。俺も昔は、似たような生活してたから」

 その一言に、胸の奥がじんとした。彼にすべてを話したわけではない。けれど、私の孤独や疲れを察してくれる人がいる――それだけで救われた。

それからも、笹本先輩はたまに食事に誘ってくれるようになった。

 また別の日には、休憩中に「このゲーム知ってるか?」とスマホを見せてきた。オンラインで協力して遊ぶアクションゲームで、シンプルだけれど奥が深そうだ。

「ストレス解消になるぞ。やってみないか?」

「ゲームなんて、もう何年もやってなくて……」

「じゃあ、久しぶりに一緒にやろう。下手でもいい。俺も最初は全然ダメだったし」

 軽く笑って言われると、断る理由が見つからなかった。

 夜、帰宅して彼の仕事を手伝い終えたあと、ベッドに横になりながらアプリを入れてみる。操作は不慣れだったけれど、チャット欄に「ナイス!」と笹本先輩から飛んできた文字を見て、思わず小さく笑ってしまった。

 ――あ、今、私、笑ってる。

 そんなことに気づいた瞬間、胸の奥が少し軽くなる。

ある日の帰り道。ふと空を見上げて「もう夏ですね」と口にすると、笹本先輩は隣で「そうだな。アイスでも食べて帰るか」と提案してきた。

 コンビニでアイスを買い、並んで歩きながら食べる。職場以外で誰かと並んで笑うのは、いつぶりだろう。

 ただ、それでも心の奥ではいつも彼のことを考えていた。

 ソファで眠ってしまう彼の姿。机に山積みのチューブ。荒れた指先。

 笹本先輩といるときに楽しい気持ちが芽生えても、そのすべてを「彼を待つ時間の一部」として抱きしめている自分に気づく。

 ――私が好きなのは、やっぱり彼だけ。

 そう言い聞かせながら、私は笑顔をつくった。笹本先輩は、私の揺れる想いに気づいているのかいないのか、ただ優しい眼差しで見守っていた。



第三章 名前の影


 「この前、笹本先輩に教えてもらったお店、すごく美味しかったんだよ」

 夕食の食卓で、無意識のうちにそう口にしていた。

 定食屋の唐揚げ定食、ボリュームもあって値段も手頃で、また行きたいと思える味だった。私としては、ただ何気ない話題を出したつもりだった。

 けれど、箸を止めた彼の沈黙が、空気をわずかに重くする。

「……笹本先輩?」

「あ、えっと、会社の先輩で。すごく面倒見のいい人なんだ」

「ふうん」

 それ以上は何も言わなかったが、彼の表情は固いままだった。

 食事のあとの皿洗いをしているときも、背中に漂う無言の気配を感じて、私は自分の失言に気づいた。

それから数日、彼はいつも以上に疲れ切った顔で帰宅するようになった。ブラック企業で働き詰めなのは変わらない。だが、そこにうっすらと疑念の影が差したことを、私は後で知った。

「今日も残業で……もう、クタクタだ」

「お疲れさま。ご飯、温めておくね」

 声をかけても、以前のようなわずかな微笑みすら返ってこない。

 それでも、なるべく普段どおりに振る舞おうとした。だが、話題の中でまた無意識に笹本先輩の名前を出してしまう。

「この間、先輩が面白いゲームを教えてくれて――」

「……また、その人か」

 ぽつりとした一言に、私の胸がざわめいた。

 彼は視線をテレビに向けたまま、声を低くする。

「毎日のように、その先輩の名前が出てくるな」

「そ、そんなつもりじゃ……。ただ、気軽に話せる人だから」

「俺以外に、そんなに頼れるのか」

 責めるような響きではなかった。ただ、疲労と不安が混ざり合った声だった。

 私は慌てて手を振る。

「違うの! 笹本先輩は、ただの同僚で……友達みたいな感じで。私があなたを支えたい気持ちは、ずっと変わらないから」

 必死に言葉を重ねても、彼の表情は晴れなかった。

数日後。

 会社の帰り道、私は思い切って笹本先輩に相談を持ちかけた。

「……実は、彼が少し誤解しているみたいで。先輩の名前を出すたびに、不安そうな顔をするんです」

「なるほどな」

 笹本先輩は腕を組んで、少し考え込むようにうなずいた。

「誤解は早めに解いた方がいい。だったら、一度三人で会ってみるのはどうだ? 俺がどういう人間か直接知ってもらえば、安心するだろう」

「三人で……ですか?」

「飯でもゲームでもいい。とにかく顔を合わせれば、余計な疑念は減る」

 胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。

 先輩と彼を会わせるなんて、最初は怖いと思っていた。でも、笹本先輩の穏やかな口調に背中を押されて、決意が芽生える。

「……はい。そうしてみます」

その夜、彼が帰宅したとき。

 いつものように疲れ切った顔だったが、勇気を振り絞って口を開いた。

「ねえ、今度、笹本先輩と一緒にご飯行かない? 三人で」

 彼は意外そうに眉を上げる。

 しばし沈黙のあと、ため息をつき、やや投げやりに答えた。

「……俺なんかが行っても、場が持たないだろ」

「そんなことないよ。むしろ、ちゃんと会って話した方がいいと思うの。私も、あなたに誤解してほしくないし」

 彼はしばらく視線を逸らしていたが、やがて小さくうなずいた。

「……わかった。一度会ってみる」

 その返事に、胸は大きく波打った。

 次の週末、三人での会食が決まった瞬間だった。

 食卓の上の照明が柔らかく光り、久しぶりに彼の表情が少し和らいだ気がした。



第四章 三人のテーブル


 週末の夕方。

 私は少し緊張した面持ちで駅前の定食屋に立っていた。木の看板に「手作り定食」と書かれたその店は、以前笹本先輩に連れてきてもらった店だ。

 ほどなくして、背広姿の彼が現れる。相変わらず目の下には濃い隈があり、肩の力が抜けない様子だ。

「……本当に、来てよかったのか」

「うん。来てくれてありがとう」

 私は微笑みながら、もう一人の人物に視線を向けた。

 すでに待っていた笹本が、手を軽く上げる。

「やあ。君が噂の彼氏くんだな。よろしく」

「……どうも」

 ぎこちない挨拶を交わし、三人は店に入った。

テーブルに並ぶ定食は、どれも湯気を立てて食欲をそそる。

 最初は沈黙が多かった。彼は警戒心を隠さず、短い相槌しか返さない。

 だが、笹本が話題を仕事の愚痴に振ると、少しずつ空気が和らいでいった。

「上司に振られた仕事が、翌朝までに全部仕上げろってさ。まるで魔法でも使えってくらいの無茶振りだよな」

「……わかります。こっちも似たようなことばかりで」

 思わず返事をした彼に、笹本はにやりと笑った。

「だろ? 働きすぎると、人間って壊れるんだよ」

「……そう、かもしれませんね」

 彼の声は小さかったが、二人が言葉を交わしている。それだけで十分だった。

食事の途中、笹本がスマホを取り出した。

「そういえば、この前彼女に勧めたゲーム、もう始めてるんだ。オンラインで協力してモンスターを倒すやつ」

「あ、それ。ちょっとだけやってみたよ。まだ全然下手だけど」

 私が照れ笑いすると、笹本先輩は画面を彼に見せた。

「君もどうだ? 息抜きにちょうどいい」

「俺は……ゲームなんて、最近触ってないな」

「難しい操作はないよ。ストレス発散にもなるし、三人でやれば結構盛り上がる」

 半信半疑で画面を覗き込む彼。そこに表示されているのは、色鮮やかなキャラクターと巨大なモンスターの戦闘シーンだった。

 私も身を乗り出して、

「協力すると、すごく楽しいよPCでも、スマホでも出来るから」と重ねる。

 その一言に、彼の瞳が少し揺れた。

「……まあ、試すくらいなら」

「決まりだな。じゃあ今度三人でログインして、初心者用のステージからやってみよう」

 笹本先輩が軽快に言う。

会食を終えて外に出ると、夜風が心地よく頬を撫でた。

 駅までの道を三人で並んで歩く。会話はまだぎこちないが、完全な沈黙ではなかった。

「今日は……来てよかったです」

 彼がぽつりと呟いた。

 思わず足を止めて彼を見上げる。

「本当に?」

「誤解してた。君が先輩の話をするたびに、不安になってた。でも……直接会ってみて、少し安心した」

 その言葉に、笹本が肩をすくめる。

「俺はただの同僚さ。君の彼女を心配してただけだ。これからは、三人で遊べる友達ってことでどうだ?」

「……そうですね」

 短く答えた彼の顔には、久しぶりに柔らかな表情が浮かんでいた。

 ――ああ、よかった。少しずつでも、これでいい。

 夜空に瞬く星を見上げながら、三人の新しい関係が静かに始まった。



第五章 三人のフィールド


 週末の夜。

 リビングのテーブルにノートPCを広げ、彼は慎重にアカウントを作成していた。

 私は隣でスマホを操作しながら、わくわくした顔で画面を覗き込む。

「名前どうする? かっこいいのがいいんじゃない?」

「……適当でいい」

「そんなこと言わないでよ。ほら、せっかくだから」

 少し考え込んだ末に入力した名前は、意外とセンスがあった。

「おお、いいじゃん!」と褒めると、彼は照れ隠しのように視線を逸らした。

 数分後、ヘッドセットをつけた笹本の声がイヤホンから響いてきた。

「やあ。準備はできたか?」

「ええ、なんとか……」

「よし。じゃあチュートリアルは飛ばして、簡単なダンジョンから行こう」

 画面の中で、三人のキャラクターが揃う。

 彼は不慣れな操作に戸惑い、すぐにモンスターの攻撃を受けてキャラクターが倒れてしまった。

「ちょ、ちょっと! すぐ倒れるよ!」

 笑い混じりの声が飛ぶ。

「ごめん……操作がよく分からなくて」

「大丈夫、大丈夫。俺が蘇生するから」笹本が落ち着いた声で言う。

 画面の中でキャラクターが立ち上がる。私も隣で必死に回復アイテムを使っている。

「ほら、こっちで援護するから、後ろから攻撃して!」

「こ、こうか?」

 ぎこちないながらも彼の攻撃がモンスターに当たり、「ナイス!」とチャット欄に表示される。

 その瞬間、彼の口元がわずかに緩んだ。

 ゲームを続けるうちに、彼は少しずつコツをつかんでいった。

 敵を引きつける役、後ろから支援する役、そして私のキャラクターが決める華やかな一撃。

 三人の連携がうまく噛み合ったとき、画面に大きな「クリア!」の文字が輝いた。

「やったー! 三人で初勝利だね!」

 喜びのあまり両手をあげてしまう、笹本先輩も「いいチームワークだったな」と満足げに言う。

 彼はというと、最初のぎこちなさが嘘のように、どこか子どものような笑顔を浮かべていた。

「……確かに、これは面白いな」

「でしょ? だから一緒にやろうって言ったんだよ」

 得意げに胸を張ってみた。

夜が更けても、三人は何度もダンジョンに挑んだ。

 彼が倒れれば笹本先輩がカバーし、笹本先輩がピンチのときは2人で助ける。

 チャット欄には「ナイス」「ありがとう」の言葉が飛び交い、リビングには久しぶりに笑い声が満ちた。

「こんなに笑ったの、久しぶりかも……」

 彼がぽつりと呟いた。

「よかった。少しでも楽しいって思ってくれたなら」

 隣でモニターを見つめる彼の横顔は、会社で擦り減った姿ではなく、少しだけ生き生きとした表情に見えた。

ゲームを終え、PCを閉じたあと。

 彼は深く息を吐き、椅子にもたれかかった。

「……悪くないな、こういうのも」

「でしょ! これからも一緒にやろうよ」

「まあ……時間があるときなら」

 照れくさそうに答える彼に、笹本が笑いながら言った。

「ほら、もう仲間だ。これからは三人で冒険していこう」

「……ああ」

 その返事は短いけれど、確かな響きを持っていた。

 私はそっと彼の手を握る。指先の小さな傷が痛んだけれど、その痛みさえも心地よいものに思えた。

 ――彼が少しでも笑える時間を、一緒に作っていけるなら。

 夜更けの静かな部屋で、その願いを胸に抱きしめた。



第六章 試練と支え合い


 金曜日の夜、彼はいつもよりさらに疲れ切った表情で帰宅した。

 スーツはぐしゃぐしゃ、靴も泥がついたまま、肩は落ち、背中には重たい荷物のような疲労がのしかかっていた。

「……今日も、遅くなっちゃった」

「うん、わかってる」

 いつものように食事を用意したが、手元の箸が微かに震えているのを自覚していた。

 夕食を終えて、後片付けをし終わり様子を見に行くと、リビングの床にぐったりと横になり、目を閉じたまま動かない。

 心配になって肩を軽く叩くと、返事がない。

「……!」

 どうしていいか分からず、咄嗟に笹本先輩に電話をしてしまった。

「どうした?」

遅くにも関わらず2コールで出てくれた。

「……彼が……倒れちゃって……」

「落ち着け。とにかく応急処置できるものを用意しろ。氷、タオル、それに水。俺も用意してすぐに行く」

 電話を終えてから少しして、笹本先輩が駆けつけてくれた。

 彼の腕を支え、まずは楽な姿勢にしようとする。

「よし、ソファでいいから横になろう。北枕だけど、まぁ今はしょうがない。少し落ち着いたらゼリータイプのスポーツドリンク買ってきたから、飲めるようなら飲んでくれ。」

「うん……」

 笹本の指示に従いながら、心臓が張り裂けそうなほどの不安を感じていた。

 このまま彼を一人で支えきれない――そう直感した。

しばらくすると、彼は少しずつ意識を取り戻した。泣いている私の顔が見えたのだろう。

「ご、ごめん……迷惑かけた」

「そんなことないよ! 大丈夫だから、ゆっくり休んで」

 必死に笑顔を作るが、内心は揺れていた。

 銅線のチューブ剥きや、毎日の支えだけでは、この過労に対処できない。

 彼を守るためには、自分だけで抱え込むのはもう無理なのだ。

 笹本は静かに横に座り、優しい声で言った。

「あまり背負い込むなよ。お前が壊れたら、彼も立てなくなる」

「……先輩……」

「俺はただ、二人の間に必要な距離を作る手伝いをしてるだけさ。こういうときは、誰かに頼るのも悪くない」

 その言葉に、目頭が熱くなった。

 彼だけでなく、先輩の存在があってこそ、自分も彼を支えられるんだ――そう、はっきりと自覚した瞬間だった。

その後、氷を用意し、タオルで彼の額を冷やす。笹本は隣で静かに見守り、必要なときだけ手を貸す。

 彼は少しずつ落ち着き、弱々しく微笑むことさえできた。

「……ありがとう、二人とも」

「当たり前だろ。大事な人を支えるのは当然だ」

 笹本が微笑む。

 その穏やかな笑顔に心底安心した。

 夜が深まり、彼はそのままソファで眠った。

 彼の手を握り、そっと呟く。

「無理しないでね。一人じゃないよ、私も笹本先輩もいるよ。」

 その言葉に、彼の肩が少しだけ力を抜いたように見えた。

 先輩の存在が心の支えになることを、改めて理解する。

 ――これからは、三人で支え合える。

 彼のためだけじゃなく、自分も壊れないように、先輩と一緒に歩いていける。

 静かな夜、リビングに漂う温かい空気の中で、三人の絆が静かに深まった瞬間だった。



第七章 安心の距離


 ある土曜日の昼下がり。

 笹本先輩と3人で街へ出かける準備をしていた。映画館に行き、その後カフェで軽く食事をする予定だ。

「……今日は、笹本さんと3人で映画だっけ?」

 リビングで彼が静かに尋ねる。目は疲れているようだったが、どこか落ち着いた表情もあった。

「うん。どうする?疲れているなら、連絡しとくけど」

「大丈夫、でも寝たらごめん」

 彼は言葉少なにうなずき、出かける準備をしていた。

 少し寝不足で目が腫れている彼は、微笑む努力をしている。

「大丈夫だよ。笹本先輩がいるから起こしてもらうよ」

 軽く言うと、彼はふっと息をつき、肩の力を抜いた。

「……ああ。じゃあ、行こうか」

 その一言に、私の胸はじんわりと温かくなる。

 以前なら、彼の反応に緊張していたはずだ。だが今は、安心して気持ちを伝えられる。

 先輩の優しさは彼の心にも届いているのだと思えた。

街の映画館で、三人はポップコーンを分け合いながら笑い、映画の合間に軽口をたたいた。

 笹本先輩は皆が笑顔で楽しめるように気を配り、無理に話題を広げず、自然体で接してくれる。

 私もまた、彼を思いながらも、目の前の楽しさを素直に味わっていた。

「この前のゲーム、結構進めたんだ」

「おお、もう次のレベルか」

「先輩が手伝ってくれたから、助かったよ」

 私の言葉に笹本先輩は笑い、彼も画面越しで何度も見ていたゲームの光景を思い浮かべるように頷いた。

 ――ああ、これでいい。

 以前のように彼の心に不安はなく、安心している様子だった。

映画が終わり、カフェでケーキを食べながら、三人はのんびりと話す。

 趣味や好きな食べ物の話題が中心で、仕事の愚痴はほとんど出ない。

 それでも自然に、先輩と接することを、彼は気にせず受け止められるようになっていた。

「俺、こういう時間、もっと大事にした方がいいな」

 彼がぽつりと言う。

「え?」

「彼女のために無理して疲れるんじゃなくて、こうして支えてもらえる関係もあるんだって、今さら気づいた」

 思わず目に涙が浮かぶ。

 過去には、彼のために自分がすべて抱え込まなければ――と思い詰めていた。

 でも今は、笹本先輩というもう一つの支えがある。

 彼がその存在を受け入れ、安心してくれていることが、何よりも嬉しかった。

 帰り路。三人で歩きながら、街灯に照らされる影が揃う。

 私はふと立ち止まり、彼に笑顔を向けた。

「ありがとう。今日も楽しかったよ」

「……先輩もいたからな」

 彼の声は自然で、以前のぎこちなさはもうない。

 笹本は軽く笑い、肩をすくめる。

「じゃあこれからも、三人で楽しもう」

 三人の間に漂う空気は、穏やかで、柔らかく、そして温かかった。

 胸の奥で、小さく呟く。

「こうやって、今の関係性でいられたらいいな……」

 彼もまた、笑顔を返す。

 先輩も、自然に頷く。

 静かな夜、三人の友情と信頼が、ゆっくりと確かな形になった瞬間だった。



第八章 日常の余韻


 平日の夜。

 リビングの照明は柔らかく灯り、机の上には今日も剥き終えた銅線の束が整然と置かれていた。

 手を止め、窓の外に目をやる。遠くに見える街灯の光が、静かに夜の街を照らしていた。

 「今日もお疲れさま」

 私の声に、彼はソファから顔を上げる。

 疲れた表情はあるが、どこか穏やかで、先ほどまでの不安は消えていた。

「……うん、ありがとう」

 短い言葉の中に、深い安心が込められている。

 私は微笑みながら、そっと彼の手を握った。指先の小さな傷を気にしつつも、温かさを感じる。

その夜、三人はいつものようにオンラインゲームを始めた。

 リビングにはヘッドセットをつけた彼と私、笹本先輩は自宅からログインしている。

 画面上で三人のキャラクターが揃うと、自然と笑い声が広がった。

「今日はダンジョンに挑戦するぞ!」

「わかった、私が回復するね」

「俺は前衛で敵を引きつける」

 操作に不慣れだった彼も、今ではしっかりと役割をこなせるようになっていた。

 ミスをしても、笹本先輩がフォローし励ます。画面上のモンスターが倒されるたびに、三人で小さくガッツポーズを交わす。

 ゲームを通じて笑い合う時間は、疲れた心を癒すだけでなく、互いの存在を改めて確認するひとときでもあった。

ゲームを終え、チャット欄に「今日も楽しかったね」と文字を残す。

 彼はヘッドセットを外し、私に向かって言った。

「皆でゲームするの結構好きかも」

 以前なら、笹本先輩の存在を心配する気持ちもあったと思う。しかし今は、先輩がいてくれることで、彼も自分も笑える時間を持てる。

「うん、私もそう思う」

 私が微笑むと、彼も自然に微笑み返した。

 リビングには、静かな夜の音だけが漂っている。テレビの雑音も、街のざわめきも届かないほど、心地よい静けさがあった。

ふと、窓の外の街灯を眺めながら、小さく呟く。

「三人で支え合える関係って、こういうことなんだ……」

 過労で倒れる彼を支え、笹本先輩の存在に救われ、そして互いの絆を少しずつ確かめ合う日々。

 恋愛感情だけではなく、友情と信頼で結ばれた関係は、静かだけれど強く、確かなものになっていた。

 夜のリビングで、今日も小さく微笑む。

 彼も、安堵の表情を見せる。

 そして笹本先輩も、チャット越しに穏やかな笑いを返す。

 ――この三人なら、どんな日常も、少しの笑顔と支えで乗り越えられる。

 窓の外に流れる夜風が、部屋のカーテンをやさしく揺らす。

 静かに、けれど確かに、三人の絆は夜の光に溶け込むように広がっていった。

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