トイレの。
暑さで乾いた口腔に勢い良く蛇口の水を捻った生暖かい水を含むと部活動が終わった事を実感する。
「部活中に水を飲んではいけない」と顧問が言うから、この瞬間は実に開放的だ。
「顔を洗ってきます!」と言ってこっそり水を飲んだり、ランニング中に顧問の目の届かない田畑の水を口にする必要も無ければ、「先生、あの子水飲んでます!」と告げ口をする同じ部活の子の目を気にする必要も無い。
どれだけ水を我慢できるか、水を我慢出来る事は真面目に部活動に取り組んでいる証拠と言われていた。
元はお国の為に演習や行軍をしていた兵隊さんが、持参している水筒が空になった時に湧水や川の水を煮沸しないでそのまま水筒に入れた結果腹を下す隊員がいて、それが生水を飲んではいけないと上官が徹底した結果、「なら、演習や行軍では最初から水を飲まない様にしよう」と0か100みたいな考えが浸透して、―――いつの間にか安全な飲み水が確保出来る学校の部活動にもその思考が定着したとかなんとか聞いた事がある気がする。
着替えも終わったし、後は帰るだけ。
最近クラスメイトが「電柱の影から大きな白いマスクに赤いトレンチコートを着て、傍を子どもが通りかかるとママチャリで追いかけて来る」妖怪の噂話をしていた。
良く知らないけど、全国的に噂話になっている妖怪らしい。
馬鹿らしい、と思いながら、そうだ、帰る前にお手洗いを済ませておこうと体育館から程近いトイレに入った。
上靴から便所下駄に履き替えて、個室に入ると「かつん、かつん」と外から便所下駄の音が聞こえてきた。部活のメンバーの誰かが、自分と同じ様に帰宅前にお手洗いを済ませておこうと考えたのかもしれない、と考えてレバーを下げて水を流して個室から出て、―――違和感に気付いた。
便所下駄が、自分が使用している分しか減ってない。誰か入ったハズだからもう一つ無くなっていないとおかしいのに。
そう言えば、下駄の音は聞こえたけれど、個室に誰かが入る音ってしなかったよなー、と気付いたら外は暑いのに、身体がすぅー...、と寒くなった。
手を洗うのも程々に、平静を装ってお手洗いから出て通学鞄を手に自転車置き場まで急いで、鞄を自転車の前カゴに放り投げると思い切りペダルを踏み込んで部活以上に全力で走って走って、自宅に辿り着いて安心すると同時に気が抜けてヘナヘナと座り込んだ。
あれはいったいなんだったのか、数十年経過した今でも分からない。
我が家の母の体験談を参考にしてます。