第26話 帝国の選択
ゴポ、ゴポ、ゴポ……
船底を叩く音が、記憶の奥底を揺らす。
「……ディ……」
(……アリクス……?)
ザザ、ザザ、ザザ……
波のさざめきが、頭の中にノイズのように入り込む。
「……リディ……」
(……ううん、姉さん?)
「……リディ、リディ」
──その声に引き戻されて、ライデルははっと目を覚ました。
「……っ、ルティ……?」
体中にじっとりと冷たい汗がまとわりつく。ぼやけた視界のすぐそばに、心配そうに寄り添うルティの瞳があった。
「大丈夫? リディ…… うなされてたよ……」
その声は、まるで祈るように震えていた。
「……うん。ありがとう、ルティ……」
上体を少し起こす。
「……いつも、君に助けられてばかりだね」
そう言うと、ルティは少し照れたように、目を逸らした。
──ライデルはまだ、二年前の影の中にいた。
あの男──ダインザール・オーグ・ヴラシュカル
二年前、シャクティ=プラムの神殿で出会ったあのラオ族の男……
(あいつは、いま、この南部小大陸に……)
元は旧魔王軍南部小大陸方面軍の将校。現在は、ディーウェルト王国を名乗り、南部小大陸に居座る残党軍の将軍のひとりである。
ライデルはナギの協力を得て、密かに彼の所在を追っていた。だが、その足跡は深く、そして黒い。
「はいっ、水だよ。飲める?」
ルティが差し出す水差しを受け取り、ライデルは一口飲むと、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう……少し、風にあたってくるよ」
† † †
グゴゴゴゴゴ……オオオ……
鉛色の雲が空を覆い、風は唸るように船体を叩く。甲板の向こう、波が逆巻き、船はうねる海にきしみをあげていた。
グゴゴゴゴゴ……オオオ……
「ちょっとー! この音、五月蝿いよー! グラハムー!」
「グゴゴ……う、うっぷ……すまねぇ……」
グラハムの顔は見事なまでに青白く、大きな背中を小さく丸め、膝を抱えてちょこんと座っていた。
「まったく……海ってのは人の住む場所じゃねぇ……うう……」
「二年前の航海は平気だったのにねぇ?」
サーナが不思議そうに眉を寄せる。
「ふふ、昨日……グラハム、少し発酵が進んだ麦汁を、たっぷりと……」
「ぇぇ……リディ、それは……」
「それはエールだな」
相変わらずナギが冷静にツッコむ。
「しばらく飲めねぇと思ってよ……飲み溜めだ飲み溜め飲み溜……ぐぅ……」
「“酒に溺れるな。それは身を滅ぼす。ただ御霊の息で満たされよ。”……そっとしておこう」
ライデルは苦笑を浮かべたまま、顔を背けた。
† † †
「見えたぞ!」
見張りの叫びに、全員が甲板へと駆け寄る。鉛色の海の果て、その先に──大陸の影が、ぼんやりと姿を現していた。
「……あれが、南部小大陸……」
ライデルが息を呑む。
そして、視線の先、その遥か彼方。大地の奥、空の一角が、赤々と燃えていた。
「……あれは……空が、燃えているのか……?」
そのつぶやきに、誰も言葉を返すことができなかった。
空に赤い煙がのぼる。
大地が、命が、灰になっていく──その現実を、遠くからでも感じ取れた。
補給線を遮断された残党軍は、南部小大陸を各地で転戦しながら、広範囲にわたり物資の徴発を強行していた。物資供出に応じた都市には一定の寛遇を与える一方で、抵抗あるいは非協力的な都市には報復的措置として徹底的に焼き払い、戦略的にも心理的にも圧力を強めていった。
「……みんな、大丈夫かな……」
ルティが祈るようにつぶやく。
一方、帝国軍はは冷静だった。水源や主要街道を戦略的に制圧・封鎖しながら、民間人を組織的に北部へと避難させる一方で、残党軍を南方へと追い詰める掃討作戦を展開した。兵站線の遮断と住民の避難誘導を同時に行うことで、敵戦力の孤立と士気の低下を狙う、計画的かつ段階的な包囲戦術が採られていた。
不安そうに揺れる、ルティ横顔を見ながら、ライデルは言葉を選んだ。
「……大丈夫だよ……きっと、うまくいく」
けれどその言葉とは裏腹に、燃え盛る空は、まるでこの旅の行く末を占うかのように、不気味に揺らめいていた。
† † †




