第46話 体現——斗南
早朝、突然の歓声にも似た叫び声で、斗南の視界に部屋の景色が戻る——昭僧が目を覚ました。
八枝子はすでに身を起こしていた。
ほぼ同時に、医療研究者の男が部屋に入って来て何かを叫んでいる。パジャマに白衣を羽織っただけの格好で、慌てているのが分かる。
捲し立てる日本語はうまく聞き取れなかったが、危険を知らせているのは分かった。
だが、八枝子はぼうっとして動かなかった。動けなかったのかもしれない。
騒々しく、荒々しい声と、駆け回る足音が近づいて来たかと思うと、数人の村人が部屋になだれ込んできた。そのほとんどが鎌や鉄の棒、手斧やらを手にしている。
斗南が村の男に抱えられると、八枝子は火がついたように暴れだし、狂乱した。
だが、抵抗むなしく八枝子も医療研究者の男も捕らわれ、連行されていった。
外に引きずり出された三人が目にしたのは、血溜まりの中に倒れ、すでに事切れたドイツ人医師の姿だった。
叫喚する医療研究者の男だったが、押さえられて近づくこともできない。
「あの医者がいない」「儀式が先だ」「もう一人餓鬼がいるはずだ」「女を広場に連れていけ」「すぐに儀式を」「ほっとけ、とにかく儀式だ」「餓鬼も殺す」声が飛び交う。
何人かは再び研究所へ入って行った。
斗南は傍観することしかできなかった。胸が締めつけられる。昭僧が泣いているようで、視界はぼやけ自分を抱えている男の顔もまともに見えなかった。
「何をやっているんだ——」
この場の全員が声のした方を向いた。彦一がこちらへ向かってきている。
医者だ! いたぞ! と声があがる中、医療研究者の男が押さえを振り払い、村の男から斗南を奪い返し、彦一のもとへ走った。
男たちは慌てて追い、虚をつかれた村人から逃れた八枝子も手斧を奪い、それを追った。
「来ルナ! トナミ! 逃ゲロ!」医療研究者の男の腕から、斗南は彦一の胸に。戸惑う彦一に、「殺サレタ! 殺サレル! 急ゲ!」と叫ぶ——医療研究者の男に、その後ろから追ってきた男が鎌を振りおろした。
首から鮮血が吹き出す。
目の前で、医療研究者の男は首を押さえながら崩れ落ちた。間髪を入れず彦一へ男が鎌を振りかざす——!
だが、その男の首は八枝子の手斧による一撃で体から分断されて転げ落ちた。
「やえちゃん……」
八枝子のどこにそんな力があるのか——驚きを隠せない彦一に、「返せ!」容赦なく八枝子は牙を剥く。
「坊やをぉおおお! 返せ、あああ、来るな!」振り返り、追ってきた村人を威嚇する。
彦一は後ずさり、八枝子に背中を向けて逃げた。
抱き抱えられた斗南は、彦一の肩越しに見る——「待てえっ!」白髪を振り乱して、痩せこけて青白く、棒のように細くなった手足からは、とても想像できないほどの速さで迫る八枝子の狂気を——。
目の前に迫り、振り下ろされた狂気の刃を——。
がくり、と彦一はバランスを崩すが、足を止めることなく走った。
振り返らずに走った。
斗南は揺れる肩越しに、見続けた。
村人たちに取り押さえられる八枝子を——。
山道に入ってすぐ、彦一は、木の陰でうずくまっていた坊やの手を強く握った。
「この子も助かったんだ……良かった」斗南は胸を撫で下ろすが、村人に捕まりながらも手を伸ばし、遠ざかる自分を見続けていた八枝子の表情を思い出すと、締め付けられる思いもあった。
それはいくつもの負の感情が混ざり合う、切望と怨みの表情だった。
斗南は感じていた。それらを生み出したものが、結局は八枝子の愛情からなのだ、と。
愛情——そうだ!
あまりの出来事に気を取られ、現実での状況を失念していた斗南だったが、落ち着きを取り戻すにつれてそれが蘇ってきた。
「そう、想いだ」
斗南は車での桜紗と松宮の会話を思い出した。
伊予乃が憑依された理由。
松宮のことを考える。どうしているだろう? きっと、同じように幻覚を見せられているのではないか。
先輩……先輩! 松宮先輩——!
強く念じるとともに、彦一が、坊やが、山道の景色が、流れるように変わっていく——。
松宮が見える。
「先輩!」
ぽたりぽたりと、紫桜は頭から出血し、その血液が数本の筋となって流れては落ちる。
「しえ! 精神を、心を保て。少しでも同調して虜となれば、八枝子の思う壺だ。その身を滅ぼされるぞ。お前の精神力ならば負けやしない」
桜紗は鼓舞する。
広場で儀式を行っている二人は、八枝子の遺骨から、自身の頭の中になだれ込んでくる思念に、八枝子の過去に、苛まれながらも念唱を休むことなく唱え続けていた。
ピキッ! と、小さな音を立てて八枝子の頭蓋に亀裂が走る——ぼ——うや、ぼうやぁ、坊やあぁ——。
行かないで——!
必死に手を伸ばすが、彦一に抱きかかえられた昭僧が遠のいていく。
邪魔をするな——坊やを……返して。
村の男たちに捕らわれた八枝子は、研究所そばの広場に簡易的に用意された祭祀場へ連行された。
とはいえ、そこはとても祭祀場とは呼べない適当なもので、掘られた穴も浅い。
八枝子は殴る蹴るの暴行を受け、瀕死の状態でその穴に落とされた。
憎い、憎い、許さない、呪ってやる……。
土がかけられ——盛られていく。
人型の木組みに火が放たれた——。
呪ってやる——。
最期、呪詛を口にして八枝子は死んだ。
「あと一息だ! しえ!」
桜紗の額を鮮血がしたたる。




