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其の陸拾陸 混迷の中で

 端的に言うならば、九十九は正気に戻った。

 尤も、それが禍福のどちらを招いたかと問われれば、本人にとっては“禍”の側だろうと答えざるを得ない。


「……」


 目を覚まして数分、ようやく世界を認識した九十九は、漫然とした動作で起き上がる。

 部屋は薄暗く、しかし室内の構造は理解できる。自分が寝かされていた布団が、いつも使っているものである事も。


 ここは、自分の部屋だ。

 そう確信し、己の頬にそっと手を添えようとして──眠気を吹き飛ばすほどの痛みが走った。


「い、ぎっ……!? これ、は……」


 目線を落として、ようやく気付いた。

 自分の右腕には今、夥しい量の包帯が巻かれている。


 左腕は問題無く動かせるものの、右腕は指先に至るまで一切の力を入れる事ができない。

 そればかりか、無理に力を込めようとすれば、先ほどのように痛みが走るばかりだ。


「……ぁ」


 ぼんやりとしていた意識が、右腕を襲う痛みによってくっきりと晴れる。

 そうして戻った理性は、己の脳裏に溜め込まれた記憶という記憶、情報という情報を片っ端から引き摺り出し──


「……負けたのか、僕」


 全てを、思い出した。


 今回の『ぷれいやあ』であったヒバチ・ヒトウバンを取り逃した事。

 ヒョウタン・アブラスマシの妖術によって、深刻なダメージを負った事。

 神ン野との決闘に挑んだはいいものの、歯が立たず一方的に蹂躙された事。


 負担を度外視して妖術を行使した結果、右腕が折れてしまった事。

 そうして放った大技でさえ、神ン野に容易く防がれてしまった事。


 接敵した妖怪の誰1人として倒す事ができず、完敗を喫してしまった事。

 そして。


「……──っ!?!?」


 込み上げる吐き気。

 思わずと言った風に、左手で口元を抑え込んだ。


 幸い(と呼べるものでも無いだろうが)、戦闘が始まったのは夕食前。

 昼食はとうの昔に消化し切っているだろうから、吐瀉物として出るのは胃液だけだろう。

 けれど、喉と胃を凌辱するこの不快感だけは、どうにも拭えそうに無かった。


「はぁ……はぁっ……ぼ、くは」


 息が荒くなる。動悸が狂う。


 不思議な事に、3体の妖怪との戦闘で刻み込まれた傷や怪我のほとんどは、右腕を除いて大きく癒えつつある。

 未だ痛む部分はあるもの、あと数分もすれば立ち上がって行動する事ができると思われた。


 体が癒え、暫く眠りについたおかげで、思考もクリアな状態になっている。

 自分の身に何が起きたのか、戦いの場で何が起きたのか。それらを鮮明に思い出し、理解する事ができるほどに。


 先にも語った通り、八咫村 九十九は正気に戻った。


 ()()()()()()()()()


「僕は、あの場で……なに、を、言った……!?」


 正気に戻ったという事は、裏を返せば、それまで正気で無かった事を意味する。

 では、いつから彼は理性を失っていたのか。そして、理性を失っている間に何があったのか。


 その答えは全て、神ン野との戦いにあった。



『……お前を、撃つ為だ』


『……お前が言うよりも、ずっと愚かな奴だと思うよ、僕は。だって……はは。体が、止まれないんだ』


『理屈の上では、分かってるんだ。僕がやろうとしてるのは、とても馬鹿げた事だって。でも、なんでだろうな……ははっ。これじゃあ……姫華さんを笑えないや……』


『それでも僕は、八咫烏だ。勝利の象徴が、逃げるなんて許されない』



 あれらの発言は、紛う事無く九十九のものだ。九十九が語ったものだ。

 だが、それらを彼が尋常の状態で語ったかと問われれば、否と答える他無い。


 あの時、九十九が繰り出した攻撃も、妖術も、策も、手練も、何もかもが神ン野には通じなかった。

 そればかりか、奴が軽く武器を振るっただけで、こちらは大きなダメージを負う始末。

 ヒトウバンたちとの戦闘で消耗していた、だなんて言い訳にもなりはしない。それほど隔絶した実力差が、あの場にはあったのだ。


 何もかもが敵の力量に届かない中、遂に追い詰められ、敗北が確定した状況下にあって。

 肉体的にも、精神的にも限界を迎えた九十九は、薄れる意識の中で──



【──a、Aa】



 カラスの鳴き声を、聞いた。


「ぅ……!?」


 再度、嘔吐を催す。

 左手を口に押し込んで堪えたものの、思考の片隅で「このまま吐いてしまえば、体の奥の妖気も吐き出せるのではないか」という考えが過る。

 喉を灼く胃液を飲み下して手を離せば、荒い呼吸が部屋の中に溶けていった。


「あ、れが……妖気に、呑まれる……って、感覚……」


 あの時、何が起きたのか。その答えは、神ン野の言葉が全てだ。


『……妖気に呑まれたか。命脈が衰え、心身に限界が訪れた結果、己の身に流れる妖怪の血に()てられたのだな。それは、貴様の魂魄が惰弱である事の証明だ』


 結論だけを語るならば、至って簡単な話だ。

 八咫村 九十九は未だ心身共に弱く、彼の体に宿る妖怪テッポウ・ヤタガラスの力は、彼の心身を凌駕するほどに強かった。


 これまでの九十九は、例えるならば蛇口を捻って出てきた水を運用していただけに過ぎない。

 敵に圧倒され続けた中で、無視できないダメージばかりが積み重なり、遂に壊れた蛇口から鉄砲水が吹き荒れたのだ。


 その結果として、己の内から湧き出すヤタガラスの妖気に力負けし、理性を喪失。

 正気ならざる状態に陥った彼は、己のコンディションさえ無視して戦闘続行の意思を示し、最後には……。


「……」


 じっとりと、粘ついた汗が滲み出る。

 ()()は、どこからどこまでが「自分」だったのだろう。なんの意味も無い疑問が、脳裏に反響する。

 無意識に左手を胸に当てれば、今の精神状態を反映したかのように不規則な鼓動が伝わってくる。


 ドク、ドク、ドク。

 どれだけ傷を負っても、意識を失っていても、苦痛に喘いでいても、心臓は変わらずリズムを刻み続け──



【夜ヲ、恐レルナ】



 そんな声が、聞こえた気がした。


 その瞬間、ゾワリと全身の鳥肌が立つ。

 毛穴という毛穴が開き、体内に溜め込まれた全ての水分が汗として排出されたのではないかとさえ錯覚する。


 自然と、全身の筋肉と神経に力を込める。

 折れた右腕にも多少の力が入り、鋭い痛みが心を刺すが、それを気にしてはいたくなかった。


 だって、こうでもしなければ正気を保てない。

 心の奥底のヤタガラスが、もう1度、己の体を侵蝕するかもしれなかったから。


「僕、は……僕は……ぼ、くは……」


 手が震えているのを自覚する。

 視線を落とすと、汗塗れの左手が布団をキツく握り締めていた。


 今、途方も無く湧き上がってくるこの感情の正体は、自分がよく分かっている。


 カタナ・キリサキジャックの齎す惨劇に巻き込まれた時よりも。

 未知の力に覚醒(めざ)め、戦いに身を投じる宿命(さだめ)だと悟った時よりも。

 ヒトウバンやアブラスマシとの戦いで、劣勢に陥った時よりも。

 神ン野という強大な敵を前に、完膚なき敗北を喫した時よりも。


「僕は……この力が、怖い……っ!」


 己の手にした力が、己の手で制御できないほどに強く、使い手の身を滅ぼし得る事に。

 そんな力を、ただ「戦う為の武器」とだけ認識して、意気揚々と振るっていた事実に。


 八咫村 九十九は、自らが宿す妖怪の血(ルーツ)に、生まれて初めて“恐怖”を抱いた。











「ま、そんなこったろーと思ったわよ」


 溜め息と呆れの交互に入り混じった声。

 よく聞き慣れた、しかしこの状況で聞こえる筈の無いその声色に、九十九は思わず顔を上げる。


 一体、どこから。

 そう思って首を動かそうとした直後、後ろから自分の頭を撫でてくる手のひらを感じた。


「あんたってば昔からそう。後先考えずに突っ込んで、後から自分のやった事に凹むの。今回、何があったかはざっくりとしか聞いてないけど、大方察しはつくわよ。どうせ、意地張って逃げなかったんでしょ。ホント、1度『こう!』と決めたら頑固よね」


 がっしがっし、わしわし、と。

 荒っぽく、それでいて痛みは無い。どこか温かくて、でもやっぱりぶっきらぼうで。

 そんな撫で回し方に確かな懐かしさを感じて、ゆっくりと頭上を見た。


「ねえ、さん……?」

「あら、それ以外の誰に見えるのかしら? 私は見ての通り、あんたの強く賢く美しい姉、八咫村 五十鈴その人よ」


 九十九よりも艶やかで、九十九よりも淡い色彩の黒髪。

 肩まで伸びたそれは、後頭部でサラサラのポニーテールとして纏められている。


 鋭い目尻も、愛嬌のあるタレ目も、重みのある黒目も。

 何も変わらない。カラッと澄み渡った晴れ空のように整った顔立ちは、四十万の家に引っ越す事を相談した数週間前から、何も変わっていない。


「さ、久々のお姉ちゃんタイムよ。あんたが何に悩んでるのか、片っ端から聞かせてもらおうじゃない」


 そこにいたのは間違いなく、九十九の姉、五十鈴だった。

今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。

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