其の陸拾参 それぞれの真夜中
どこまでも続く、長い、長い廊下。
人2人がギリギリ通れるかどうかというほど狭く細い木製の通路を、軋ませ揺るがしながら歩く1つの影があった。
いや、それは影と言うにはあまりも巨大な存在だった。
大の大人よりも一回り以上に大きな、身長4mの巨体。肩幅ですら常人と比べ物にならないその肉体を、無骨な鎧が覆い尽くしている。
薙刀を背に担ぎ、額に「神」の1文字を飾り立てたその男こそ、神ン野に他ならない。
彼が1歩歩く度に、木の床は悲鳴に似た音を立て、その巨体が持つ重量を告げる。
どこからか漂ってくる甘ったるい煙草の煙を、ただ歩くだけで悠然と切り裂いていく。
切り分けられた煙は、そのまま廊下の中を満たすようにして湧き続けていた。
【──ギャハハハハッ! 神ン野の旦那にしては珍しいじゃねェか、敵を見逃すなんてよォ!】
虚空から轟く声が、ただでさえ軋んでいる木の床を更に圧迫する。
ミシミシと叫ぶ足元は、微かなヒビこそ残すものの、致命的に砕け散る様子を見せはしなかった。
そして神ン野には、声の主の正体が分かっている。
足を止めた後、ゆるりともたげた兜が、青臭い煙の這いずり回る天井を認めた。
「……呑ン舟か。先の戦いを見ていたのだな」
【ギャハハ、当然だろ! オイラはよォ、こうしてる以外にやる事なんざ無ェからな。『げえむ』観戦くらいでしか暇を潰せねェのさ!】
「それもそうか。悪かったな、貴様の『暇潰し』を中断させてしまって」
【別にィ? ありゃァ、ヒョウタンの奴がバカだったせいだろ。審判役の『ぺなるてぃ』から尻尾巻いて逃げるなんざ、「『現代堂』を抜けます」って言ってるようなモンだってーのにな! 軽い『ぺなるてぃ』で終わらせずに消しといた方がよかったんじゃねーの?】
「……本気で『逃げ』を選択した妖怪は、この世で最も仕留め難いものだ。次は逃がす事無く、確実に滅殺する」
【ま、旦那が言うならそれでいーか。でよォ、さっきの質問なんだが──】
ギョロリ。
どこにも存在しない筈の視線が、どこからか放たれた。
探せども探せども見つからない視線の主が、甲冑の巨怪をじぃと見やる。そんな気配を、全身で感じ取る。
【リトル・ヤタガラスの方は、どうなんだ? 逃がすまでもなく潰せただろ、アレ】
「……」
暫し、押し黙る。その静寂を、呑ン舟が妨害する事は無かった。
面頬の奥で何かを考え込んだのち、神ン野はやおらに小さく息を吐く。
「……あの場だけでは、見定め切れないと判断した。それだけだ」
そのように返答して、再び歩き出す。
新たに踏み出された1歩が、床をミシリとたわませた。
「遅くとも、ヒバチの『げえむ』に決着がつくまでには結論を出す。それでいいだろう」
【ほォ~ん? そういう言い回しをするってェ事は、旦那はヒバチが八咫村のガキに負けるって思ってんのかい?】
「何れが勝つか負けるかなぞ、毘沙門天とて完璧な予知はできぬ。仮にヒバチがリトル・ヤタガラスを下したならば、それはそれで『げえむくりあ』に王手をかけるだけの話だ」
そこで虚空から返ってくる筈の言葉を、「だが」の一言が打ち消す。
「少なくとも奴は……リトル・ヤタガラスは、そう簡単に後れを取ってくれるような存在では無いだろう」
【……へぇーえ?】
その相槌には、いくらかの驚きと好奇心、少しばかりの揶揄が含まれていた。
あの神ン野が敵対者に興味を持ち、あまつさえ「もう少し様子を見よう」と言い出すなど、これまでの彼からは考えられない事だった。
山ン本や『現代堂』への忠誠を誓い、命令を淡々とこなすだけだった、あの堅物が!
呑ン舟の楽しげな、そしてからかうような抑揚を感じ取ったのだろう。
大男はまたもや立ち止まると、中空を苛立ち半分呆れ半分に睨みつけた。
「何か、異論でも?」
【いーやァ? 旦那がそう判断したんなら、山ン本の大将だって何も言わねーだろ。信ン太の姐さんは小言の1つ2つでも言いそうだがな! ギャハハハハハハハハ!】
「否定はしない。が、恐らくは俺の意見を呑むだろう。奴は賢く、損得勘定のできる女だ。だから山ン本は、信ン太を『げえむますたあ』に据えたのだから」
目線を中空から引き戻し、真っ黒い深淵のみが待ち受ける廊下の先へと意識を向かわせる。
もうもうと妖気の煙を吐き出す暗闇は、常人であれば永遠にどこまでも続いているものと錯覚し、やがて理性を失ってしまうだろう。
だが、彼らはそうではない。
深淵の向こうにある「これから向かうべき場所」をしかと認識して、その重たい足をゆっくりと動かした。
「山ン本は、強い『敵きゃら』を求めている。敵が強ければ強いほど、『げえむ』はより盛り上がる。“悪役”の脅威が、“主役”をより引き立たせるのだ。……果たして、奴がそこまで到達するかどうかは──」
そこで、言葉を切り。
神ン野は今度こそ、幽々たる廊下に消えていった。
重みのある歩行音が幾度も幾度も廊下に鳴り響く中、どこかの誰かが吹かす煙草の煙だけがふわふわと佇んでいる。
もう暗闇の向こうに見えなくなった甲冑姿へ投げかけるように、呑ン舟の声だけがその場に残された。
【ま、大将たちの思惑がどうなるにせよ、オイラは『げえむ』を楽しむだけさ。なんせオイラ、暫くはここから動けねぇんだからな。ギャハッ──ギャハハハハハハッ!!】
誰も聞き届ける事の無いどら声が、甘ったるい煙を悪戯に揺らめかせた。
◆
午前0時。
真夜中の八咫村邸は、静けさが邸内を支配しながらも、日常ならざる緊張と重々しさの張り巡らされた奇妙な状況下にあった。
「……その、お爺さん。九十九くんの様子は……?」
「うむ……。儂も医者では無い故、知った風な事を言えはせぬが……一先ずは大丈夫じゃろう。容態も安定した様子で、今はぐっすり眠っておるよ」
「そう、ですか……良かった……」
階段を降りてきた四十万の答えに、姫華はホッと息を吐く。
ヒバチ・ヒトウバンとヒョウタン・アブラスマシとの三つ巴、そして神ン野の乱入によって、九十九とイナリは全身に大きなダメージを負った。
妖怪たちの退却後、お千代と姫華は倒れ伏した2人を八咫村邸へと運び、四十万と協力して彼らに手当てを施した。
九十九たちを病院などの医療機関に運ばなかったのには、いくつか理由がある。
1つは、ヒトウバンの『げえむ』に巻き込まれて怪我を負った、或いは命が危ぶまれる状態にある人々が病院に多数搬送されているだろう為。
そしてもう1つは、病院で治療を受ける際に体を調べられた結果、彼の肉体が“人ならざる者”のそれであると発覚しかねないからだ。
それにお千代が言うには、妖怪は妖気を体に巡らせる事で傷の治りを早める力があるらしい。
よほどの場合でも無ければ、適切な手当てと十分な休息によって治癒が可能である為、彼女たちは彼らが妖怪である事の隠蔽を優先した。
「後は、経過観察しか無かろう。如何に妖怪の力を得たとはいえ、半分は人間。果たして、傷が癒え切るまでどれほど要するか……」
2階の自室に寝かせた九十九の下を離れ、居間にゆっくりと腰を下ろす四十万。
その傍のちゃぶ台には、全身を包帯で覆われた状態のイナリが寝そべっていた。
「すいやせん、ご当主様……わては結局、坊ちゃんを守れやせんでやした……」
「いや、よい。生きて帰ってきてくれただけでも上々よ。イナリ、お前もじゃ。儂はもう、親しい者が2度と帰ってこない経験なぞごめんじゃ」
「ご当主……」
「……すまんなぁ、イナリ、お千代。それに姫華君も。本当ならば儂も、ただ家でお前たちの帰りを待つでなく、共に戦場で戦うべきなのじゃろう。じゃが、90になってもなお我が身の半分は人のまま。この老体と己の無能さが恨めしい……」
「……いえ、そんな。謝らないでください」
深々と頭を下げる老人に対して、姫華は申し訳無さそうに首を振る。
彼女から見た彼は、まるで今にも命脈が尽きて死んでしまうのではないかというほど、気力を衰えさせた背中を見せていた。
「九十九くんも、お爺さんも……八咫村家の人たちは皆、妖怪と人間の狭間の存在。人間の片親から生まれて、人間として生きてきたんでしょう? ……なら、その血は誇るべきものです。決して、無力さの責を向けるべきものじゃない筈です」
「……そう、か。そうじゃなぁ……」
「……それに、何もできなかったのは私も同じですから。呪い師としての才能を開花させて、ようやくスタート地点に立てたばかり……なんてのは、言い訳になりません。……こんな時に限って何もできないなんて、薄っぺらいなぁ……私」
力無く、虚しい風に笑う少女。
妖怪たちは、俯いた彼女に対して何も言葉を返せなかった。
結局、彼ら彼女らが救えた人間など数えるほどしかいない。
駆けつけた時には既に、ヒトウバンの妖術が繁華街を炎上させていた。
アブラスマシや神ン野の乱入なんて、敵を倒せなかった言い訳になりやしない。むしろ、街を新たに害し得る乱入者すら満足に退けられなかった。
逃げ遅れた人々を助けようとした事だって、生き残っていた人はそれほど多くなかったし、今頃はどこの病院もパンクしているだろう。
助けられた彼らはこの先、治るかどうか分からない酷い火傷と怪我を負って生きていくのだ。
つまるところ──今回の『げえむ』において、八咫村陣営は敗北した。
ただ、参戦の権利を失う事無く生き残っているだけだ。
「……自嘲や反省会は、全てが終わった後にいくらでもできますことよ。それよりも今は、この先をどう切り抜けるかを考えるのが肝要かと。神ン野の乱入で撤退したとはいえ、去り際のやり取りからして、またヒトウバンの奴は街に戻ってきますわ」
「そればかりじゃ、ねぇ……。アブラスマシの野郎も、多分……近く街を襲うつもり、でさ……。奴ァ、ヒトウバンの邪魔をするか、或いは……ヒトウバンよりも先んじて、街と人を襲うでやしょう……」
「……でも、どうすれば。九十九くんは右腕がぐしゃぐしゃに骨折してて、体もボロボロでまだ目を覚まさない。イナリさんもズタボロで……そうなるともう、私が今から呪いを覚えるくらいしか……」
それがどれほど無茶なアイデアであるかを、誰よりも本人がよく理解していた。
どん詰まりの状況を再認識して、少女の声が段々と力無く萎んでいき──
「アホやな~、ホンマにアホ。友情・努力・勝利は漫画の中だけの話、なんて野暮な事は言わへんけどな。言う状況はちゃんと考えな、ただの無駄な努力にしかならへんで」
この場の誰のものでも無い、そして聞き覚えの無い、軽薄で軟派な男の声。
その一声に意識を引き戻された一同は、思わず顔を上げて声のする方に視線を向けた。
居間の入口、玄関から繋がる廊下との境界線に立ち、薄っぺらい笑みをサングラスで彩った男。
彼はそれとない威圧感をギュッと詰め込んだ黒のビジネススーツを着こなし、そのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「重要なんは、“その場で適切な手段が何か”や。当然、状況によって正答は違うてくる。その場でそうすんのが正解やったら、友情・努力・勝利も、その他諸々の綺麗事も“適切な手段”に数えてええ。せやけど、この場では正答やないな」
「は……え? いきなり何を言って……あなたは、一体……? っていうか、なんで家に上がり込んで──」
「な──なんであなたが、ここにいるんですの!?」
姫華の疑問を上塗りするように、お千代が驚愕の叫びを上げた。
横では、ちゃぶ台の上に寝そべったままのイナリも同様に、べしゃりと潰れていた耳をピンと立てている。
「お、おめぇ……何故、戻ってきやした、んでさ……!? いま、さら……この屋敷に、何を……っ」
「えー……っと、イナリさんたちのお知り合いの人? もしかして、妖怪の事も知ってる……っていうか、妖怪関係の人なの?」
「……ええ、そうなりますわね。それどころか、こいつは──」
「初めまして。こうして会うんは初めてやな、八咫村の皆さん。話には聞いとったけど、こうして実物を見ると、えろうけったいな集まりやなぁ。まさか、喋るキツネとスズメがおるとは思わんかったわ」
自分とあなたたちは初対面である。
そんなニュアンスをこの上なく強調しながらの語り口に、召使い妖怪たちは思わず口を閉ざした。
この場で、互いの関係を詳らかに語ってみせるのは容易い。
けれど、彼は自分から去っていったのだ。それを踏まえての発言であるならば、こちらも舌の根をグッと抑え込むしか無い。
如何に馴れ馴れしくとも、その一線だけは弁える。
それが、彼にとっての誠意なのだろう。
「……申し訳ありません、姫華様。どうやら、わたくしたちの勘違いだったようですわ」
「そうで……やすな。わてらとあいつは初対面。……そういう事に、しておいてくださいやし」
「……うん、分かった」
事情は分からない。しかし、複雑な事情がある事は分かる。
だから、姫華もそれ以上は聞かなかった。きっと、容易く聞いてはいけないものだから。
「……若いなぁ。せやけど、道理を分かっとる若さや。そういう、向こう見ずさと堅実さの歪な両立、ボクは好きやで。ま、ボクがいっちゃん好きなんはキャバクラのおねーちゃんなんやけどな! はははははっ!」
「これ、セクハラ?」
「何卒落ち着いてくださいまし、ねっ?」
スンッ……と味わい深い表情になった少女を、黒スズメが優しく宥める。
「それ、で……一体、何用でさ」
「ああ、そんじゃあそろそろ本題に行こか。でもその前に、ボクらの立場を説明しとく必要があるねん」
「……ボク、ら?」
一人称が複数形である事に疑問を抱くと、男は肯定するように頷いてサングラスを光らせた。
それから、さりげない動きで入口の端に立ち位置をズラし、もう1人ほどが通れるだけのスペースを作ってみせる。
「ボクは瀬戸。環境省・自然環境局・霊的事象担当課っちゅうとこで、妖怪関連の調査や情報操作を担当しとる。そんで、そこに所属しとる構成員が──ああ、もう入ってきてええで」
「……なんというか、もう……疲れた、ってのが正直な本音ですよ、課長。私がどんだけこの場に飛び出したい衝動に駆られたと思ってるんですか。あと、妖怪云々についてもちゃんと説明もらえるんですよね? ここまで一切、何も教えてもらえなかったんですけど」
男──瀬戸に導かれるようにして、廊下に隠れていたもう1人が居間に入ってくる。
その顔に見覚えの無い姫華は「綺麗な人だなぁ」と思うだけだったが……八咫村家の関係者たち、特に四十万の反応は大きかった。
「五十鈴……!? 五十鈴なのか!? お前が何故、そこに立っておるのじゃ!?」
「うん、ごめんねお爺ちゃん。それ、めちゃくちゃこっちの台詞。なんで喋る動物がこの家にいるのかとか、なんでその子たちがお爺ちゃんと一緒にいるのかとか、というかその女の子って誰なのとか。色々聞きたい事が山のようにあるんだけど……何はともあれ」
呼吸を兼ねた深めの溜め息が、深夜の居間に吐き散らされる。
そうして困惑と、疲労感と、ほんの少しの諦めを顔の表層に溶かし込んで。
「とりあえず、九十九はどこ? 私の可愛い弟は、ちゃんと無事なんでしょうね?」
八咫村 五十鈴は、腕を組みながらそう告げた。




