其の伍拾 八咫村邸の一幕
「もう少し……もう少し、肩の力を抜いてくださいまし」
「え、と……こう、かな?」
「ええ、その調子でしてよ。そのまま吸って……吐いて……血の巡りを強く意識するのですわ」
「お……おお、おっ!? なんか、こう……心なしか体がポカポカしてきたような……? 血行がよくなってきた他にも、なんだろう……冷たいような温かいような、本当に『流れ』としか言いようの無い“何か”が、血管とか神経の中を通ってるような……」
とある休日の八咫村邸。
居間にて、姫華は座布団の上で座禅のようなものを組み、目を閉じて何かを探るように瞑想していた。
彼女の頭上にはお千代がチョコンと座っていて、時折、目下に助言を飛ばしている。
瞼の裏で、少女が視ているモノ。それは、自らの体を流れる妖気の感覚だ。
サラサラと淀みなく、それでいて砂漠に吹く風のように熱く、同時に極寒の大地を思わせる冷たさも孕んでいる。
そんな矛盾した感覚が秒単位で切り替わる違和感に眉を顰めながらも、落ち着いて深呼吸を繰り返し、息を整えていく。
「そう。今、白衣様が感じたものこそが妖気ですわ。人は誰もが空気中の妖気を吸い、それを知らず知らずの内に体の中で循環させていますの。その流れに気付けるだけでも、十二分な才ですわね。ほとんどの場合、妖気を知覚すらできずに一生を終えますから」
「このカンジが、妖気……。今まで感じた事の無い心地だから違和感が強いけど……でも、不思議と不快じゃないや。えと、次はどうすればいいかな?」
「妖気の流れさえ分かれば、後は終わったも同然でさ。これまでの人生で一番深く、と言っていいほど深く息を吸ってくださいやし。空気に混ざる妖気を選り分けて、その全てを余すこと無く肺の中に溜め込む“いめえじ”でやす」
「うん、分かった」
目の前にチョコンと座るイナリの指示に従って、お腹にグッと力を込める。
少しずつ、少しずつ世界を取り込むように、口を窄めて深く小さく息を吸う。
妖気の知覚によって、今の彼女は空気中に交じる妖気の存在も微かながら理解する事ができるようになった。
呼吸するに伴って喉を通る空気の中から、妖気だけを取り分けて肺の中に留める。
口で言う分には簡単だが、実践してみると難しい……事もなく、むしろもっと容易に実行できる事に、姫華は驚きを隠せない。
吸って、吸って、吸って。溜め込んで、溜め込んで、溜め込んで。
そうして熱を帯びていく肺は、ある1点を境に、押し留めた妖気を一気に全ての血管へと放出し──
──ドクン……!
「……っ!? なに……今の、熱……」
「妖気の循環が完全に定着し、言わば“第2の血流”と成ったのですわ。おめでとうございます、白衣様。これであなたも呪い師の卵ですわよ♪」
「暫くは体の具合や五感に違和感があるでやしょうが、すぐに慣れやす。その内、凝り固まった瓶の蓋を開けるよりよっぽど容易く、内外の妖気に干渉する事ができやしょう」
全身を駆け巡る熱と、確かな自覚を伴う体の変質。
その異様さに戸惑う少女へと、お千代とイナリは労いの声を飛ばす。
恐る恐る自分の胸に手を当ててみれば、心臓の鼓動がいつもと違うリズムを奏でているような気になってくる。
それは、どこか人間らしからぬ……それでいて、ホッとする。何故かは分からないが、安心するような音色だった。
これから善き存在になるにせよ、悪しき存在になるにせよ。弱くとも強くとも、どのような道を選ぶとしても。
今この時を以て、白衣 姫華は『夜』の側に足を踏み入れた。
「おめでとう……って、言ってもいいのかな。これで姫華さんは、望む望まないに拘らず、半分くらいは人外みたいなものになった訳だし……」
「あはは、魔法使いを人外にカテゴライズする作品もあるもんね。……でも、私はこれでいい、これがいいんだ。全部、自分で選んだ事だから」
心配そうに顔を覗き込んでくる九十九に対して、小さく笑いながらそう返す。
一緒に強くなろう。そう約束した関係性ではあるが、やっぱり自分のような「人外」と同じ領域に来てしまう事を、素直には歓迎できないのだろう。
そんな彼の心遣いと優しさが少しばかり嬉しくて、それでも首を横に振って否定する。
「確かに、3度も妖怪に殺されかけた恐怖は身に沁みてる。これがただのヒーローごっこじゃなくて、本気の殺し合いだって事も。全部、目の前で見たから。それでも私は、あの場所に立ちたい。九十九くんや……ジョロウグモちゃんと、同じ場所に」
「……うん。それが姫華さんのやりたい事なら、僕は手伝うよ。それに、姫華さんの事も絶対に死なせない」
「ふふっ。その言葉、忘れないでね? あなたの事、信頼してるんだから♪」
共に笑い合う少年少女2人の微笑ましいやり取りに、イナリは「へへっ」と笑いながら尻尾の毛づくろいを始め、お千代も少女の頭上で「あらあら~、絵になりますわねぇ」と嘴を歪めている。
とはいえ、いつまでもその調子では話が進まない。九十九の隣で姫華を見守っていた四十万が、気持ち大きめの咳払いで一同の注目を集めた。
「とはいえ、当面は戦力に数えられんじゃろう。呪いについては、儂がある程度の知識を持っておる。みっちり教授する故、暫くはウチに通いなさい。妖気の掴み方、手繰り方、操り方であれば儂にも教えられるからな」
「はいっ、よろしくお願いします」
祖父と、祖父に頭を下げるクラスメイトの姿を、いつもの眠たそうな目つきでぼんやりと眺める九十九。
やがてその視線は、ちっちゃな前足をペロペロと舐めているバケギツネへと向けられた。
「……僕、そういうの爺ちゃんやイナリたちから教えてもらったっけ? 認識阻害の術くらいしか教わってないような……」
「そりゃあ、坊ちゃんは半分妖怪で御座いやすし。妖気の操り方とかその辺り全部、本能とか無意識でやってるでしょうや。事実、妖気の知覚方法をざっと教えただけで、あっという間に会得したでやしょう?」
くぁ、と小さな欠伸が漏れる。
尻尾を短冊か何かのように左右へ揺らめかせつつ、イナリは九十九の視線を見上げ返した。
「坊ちゃんは既に妖術使いという、呪い師よりも更に上の位階に達してやすからね。妖気を手繰る段階の先、手繰った妖気を練り上げて、己だけの異能を成す業でさ。例えるなら嬢ちゃんが昭和の黒電話で、坊ちゃんやわてらは“すまあとふぉん”のようなものでやす」
「電話としての機能だけじゃなくて、アプリケーションやブラウザ機能まで自在に拡張できる……と。じゃあこないだ、姫華さんがジョロウグモの体からショウジョウの妖気を引き剥がしたのは?」
「黒電話の受話器でぶん殴ったようなもんでさ」
「思ってた数倍は力技だぁ……」
「あの時の私、そんな無茶苦茶な事やってたの!?」
2人の少年少女が、ほぼ同時に驚愕や困惑を露わとする。
確かにぶっつけ本番の極まった強引なやり方だったのは認識しているが、そんなにもゴリ押しかつ雑過ぎる手法であの場を切り抜けていたとは。
あの時、姫華が決死の想いで成したのが「電話の受話器で相手を殴る」ようなものであれば、成る程。呪いについてきちんと学ぶべきという言葉にも納得がいく。
これから現れるだろう敵は、そのような乱暴なやり方を通用させてくれる筈も無いのだから。
「はぁー……それならより一層、真面目に学ばないといけないわね。ああいうやり方しかできないままで九十九くんたちの戦いに参入しても、あっさり死んじゃうかもしれないから」
「そうでやすねぇ……。よしんばガキツキや一般妖怪どもがそれでどうにかなったとしても、『現代堂』の幹部連中はそう甘くありやせん。奴ばらは皆、世がまだ江戸幕府の天下だった頃からの古強者どもでさ」
「……その事で、前からちょっと気になってたんだけどさ」
ふと九十九が上げた声に、周囲の視線が集中した。
注目を集めた当人はと言えば、大して身じろぎもせず、いつも通りのダウナーなペースのままで疑問を口にする。
「『現代堂』の幹部、って……具体的に、どんな奴らなの? 今更な話だけど……僕、奴らについてあんまり知らないんだよね」
「……そういえば、私も知っておくべき、よね。いつかは戦わなくちゃいけない相手な訳だし……80年前の決戦に参加していたって事は、イナリさんもお千代さんも、彼らについて色々と知っているのよね?」
少年のふとした疑問に、姫華も同意を示す。
八咫村の家に協力する事を決めた時、彼女も妖怪やこの家、そして『現代堂』についての一通りの知識は教えてもらっていた。
それ故のクエスチョンに、イナリはふわふわの耳をアンテナのようにピンと伸ばす。
「あー……そういえば、そうでやしたね。基本は妖術についてなどを教えておりやしたから。もう少し早い目に教えておくべきでやしたか」
「では、丁度いい機会ですわね。わたくしたちが知る範囲での奴らについて、少しばかり語ると致しましょうか」
ひらひらと翼を振りつつ、お千代が姫華の頭上からそう提案する。
……在りし日の光景を思い起こし、ほんの少しだけ目を細めながら。
今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。




