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其の肆拾漆 鏡の国より

 決着と、それに伴う戦意の喪失によって、天文台の中を満たしていた蜘蛛糸が次々と消失していく。

 何重にも、複雑に複雑に張り巡らされていた、太く長く鏡面を持つ蜘蛛の糸。

 それら全てが、妖術が解除される事で妖気へと還元され、空気中に溶け消える。


 そのようにして消失しゆく煌めいた蜘蛛の巣の最中で、九十九、姫華、テカガミ・ジョロウグモは一斉に崩れ落ちた。

 特に、九十九を掴んで滞空していたお千代は、彼の脱力によって突然増した重みに素っ頓狂な声を上げる。


「ぼぼぼぼぼっ、ぼぼ、坊ちゃま!? しっ、白衣様まで、大丈夫ですの!?」

「……無理もありやせん。坊ちゃんはスズメの毒“ぶうすと”を受けていただけでなく、妖気が底をついてなおも妖術を連発。嬢ちゃんも、()()()()の身で強引に妖気を操作しやしたからね。体が限界なんでさ」


 ぐい、と。

 倒れた姫華の服の襟を噛んだイナリが、彼女を強く引っ張る。

 ちっちゃなキツネの体躯からは想像できない筋力は、ジョロウグモの巨躯に押し潰されかけていた少女の体を見事に引き摺り出した。


 お千代もそれに倣い、翼を震わせながら自らの高度を緩やかに下げていく。

 もう立つ事もできないらしい九十九を、床に落とさないよう気を付けながらゆっくりと座らせた。


「お、千代……姫華、さんが、まだ……あそこに」

「もう妖気の『よ』の字すら捻り出せない状態なんですから、まず自分の心配をしてくださいまし? 相手方も敵意を喪失したようですし、もう襲いかかってくるって事は無いと思いますわよ」

「ぅ……イナ、リさん……。ジョロウ、グモ、ちゃんは……?」

「スズメの言う通り、暴走は止まったと言っていいでやしょう。嬢ちゃんがショウジョウの残留思念を引っ剥がし、坊ちゃんがそいつを仕留めたおかげでさ。ですが……」


 チラリと視線を飛ばす。

 疲れ果てた少女と、彼女を引っ張るキツネの目前、巨体を沈めるように座り込んだ純白の蜘蛛妖怪がそこにいた。

 下半身から生えた4対、都合8本の蜘蛛の足は、それぞれが力なく折り曲げられている。


 感情を思わせない虚ろな瞳は憔悴し切ってこそいるが、先ほどまでのような狂気に染まった振る舞いは鳴りを潜めている。

 姫華と九十九の活躍により、フデ・ショウジョウの妖術が完全に取り除かれた事で、彼女を突き動かす悪意もまた消え失せたのだ。


 けれども、その上で──


「……もう、限界のようでやす」


 その言葉の意味を示すように、ジョロウグモの右腕が肩から抜け落ちた。

 床に落ちてベシャリと潰れ、そのまま塵のように崩れながら消えゆく右腕だったモノ。


 気付けば、もげ落ちた右肩から徐々に肉体も崩壊していくのが見てとれた。

 速度こそ緩やかなものだったが、それが不可逆の事象である事は誰もが一目で理解する。できてしまう。


「其の様で、あるな。ショウジョウに植え付けられた悪意の妖気が、わたしの肉体を限界まで食い潰していた。その一方で、わたしの存在を維持し続けていたのもまた、ショウジョウの妖気。であれば、此の末路は必然であるぞ」

「そ、んな……っ!? なに、か……なにか、助けられる方法は無いの……!?」

「……妖怪は、妖気を持つモノでしか殺せやせん。しかし逆を返せば、妖怪とて決して不死身の神仏などでは無いので御座いやす。致命の傷を負えば、如何な妖怪とてその命を散らしやしょう。死した妖怪は肉の器を失い、物言わぬただの道具に還るのみでさ」

「……そんな事って、無いよ……。折角、正気に戻れたのに……ちゃんと、伝えたい事も伝えられて、これからっ……」


 イナリの補助がありつつも、ゆっくりと起き上がり、目の前の女怪を見やる。

 負荷をかけ過ぎた全身が激しく痛むが、そんな事すら気にならない。


「これから、友達になれると思ったのに……っ!」


 ただただ、目の前の非情な現実を受け入れられず、ボロボロと啜り泣く姫華。


 もう少しで届く筈だった手の先から、また零れ落ちようとしている純白の命。

 その残酷な事実に涙を溢れさせる彼女の頭へと、掠れ切った左腕がそっと伸ばされた。


「……其の様に哀しい顔をしないで欲しい、あるじ。わたしは、此れで善かったと思っている。わたしの様な妖怪が此の儘生き続けたとて、真っ当な生き方は出来るまい。寧ろ、あるじにより多くの迷惑を掛けるだろう」

「かけて、いいから……っ! 私っ、あなたに酷い事ばかり、してきたから……だからっ!」

「否、否であるぞ、あるじ。あるじはわたしに、何も酷い事など為してはいない。あるじは、澄み切った愛をわたしに注いでくれた。日々わたしを磨き、大切に扱い、肌身離さず共に在ってくれた大切なあるじ。何故、わたしがあるじを恨み、憎む事が有り得るだろうか」


 涙に滲んだ少女の目は、生気の尽くを失いながらもどこか穏やかに微笑む女郎の表情を見た。

 壊れた玩具のように、蜘蛛の足がボロリと1本抜け落ちる。彼女の纏う花柄の白い和服は、端の方から段々と煤けて存在を喪失しつつある。


 それでも、ジョロウグモは柔らかに微笑み続けていた。

 虚ろで感情の見えない瞳でありながら、それでも目の前の少女への愛おしさと慈しみを湛えているようで。


「済まなかったな、あるじ。あるじには、数え切れない程の面倒を掛けてしまった。酷く事と言うならば、わたしの方が多くの罪過を犯してしまっただろう。……其れに、汝等に対しても、な」

「……気にする必要は、無いよ」


 その言葉に姫華が振り返ると、そこには九十九の姿があった。

 疲労と痛みによって酷くふらついた足取りながらも、お千代にフォローしてもらいながら、何とかこちらまで来る事ができたらしい。

 連戦に続く連戦で、彼の衣服はボロボロと言う他無い。そんな有様でなお、彼は少女たちの元へと足を運ぼうとした。


「悪いのは全部、ショウジョウ……いや、『現代堂』の奴らだ。君も、姫華さんも……ただ、奴らの企みに巻き込まれただけ。……何も、罪悪感を覚える事は無いんだ」

「……否。わたしは『現代堂』の『ぷれいやあ』に因って命を与えられた身。であれば、わたしもまた『現代堂』の妖怪であるぞ。故に、わたしは此の様に為るべきなのだ。……此の様に、消えるべきなのだ」


 巨体が、大きく体勢を崩す。体勢の維持に必要な蜘蛛の足の内、5本が砕けて消えたからだ。

 そのように己の終わりを自覚しながらも、白く長い左手は少女の頬を優しく撫で続ける。

 腕の至るところがひび割れて、今にも折れて床に落ちてしまいそうなほどに劣化しつつある。そんな中でも、大切な「あるじ」を労る事をやめはしない。


「そんなっ……悲しい事、言わないでよ……! 私、諦めないもん……! あなたの、あなたの事を……ちゃんと、愛したいから……っ!」

「嗚呼……有難う、あるじ。其の言葉だけで善い。其の言葉だけで、わたしは此の上無く救われる。唯其れだけで、わたしはあるじからの愛を実感出来た」


 涙が伝う。

 姫華の頬をではなく、ジョロウグモの頬を。

 最早、無事な箇所などただの1つも見受けられない蜘蛛妖怪の顔に、透き通った涙が儚い色彩を添えた。


「去らば、であるぞ。あるじ、そして善き妖怪達。若しも……何時の日か、わたしが2度目の生を得られる時が来たならば……其の時はどうか、わたしの事、を……友、と……呼、んで、欲、し……──」


 やがて、致命的な限界が訪れる。

 涙ながらの笑みを浮かべたまま、妖怪テカガミ・ジョロウグモの全身にひびが走り、彼女の肉体を塵へと還す。


 陽炎のように、或いは泡沫(うたかた)のように。

 彼女の真っ白い肌も、髪も、着物も、儚げな微笑みも。その全てが、この世界から完全に消え去った。


「ぁ……待っ──」


 咄嗟に伸ばされた姫華の右手は、消えゆく彼女の残滓を何1つとして掴む事は叶わない。

 しかし、別の何かをがっしと掴み取った感覚だけは確かにあった。


 その硬く冷たい感触は生き物のそれではく、一方でよく掴み慣れた実感さえ覚える。

 一体、何が。思わずフリーズした姫華と、そんな彼女を訝しげに見る周囲の視線が集まる中、消失しゆく塵の狭間からその正体が露出する。


「……ぁ、え」


 それは、1枚の手鏡だった。

 レトロ調の装飾と持ち手は、セピア色の美しい色褪せ方を経ている。

 しかし、今までピカピカに磨かれてきたのだろう鏡面には、一筋の亀裂が刻まれていた。


 その手鏡の正体が、かつて姫華が祖母から受け継いだ遺品である事など、わざわざ説明する必要すら無い。

 フデ・ショウジョウに奪われ、テカガミ・ジョロウグモという妖怪を生み出す為の素体となったそれが、今再び持ち主の手に戻った。


 鏡面に走る割れ目は、今しがたまで言葉と想いを交わし合っていた女怪の命脈が消え失せた、何よりの証明だ。

 それを今一度、何よりも強く実感して、涙腺から更なる哀しみが氾濫を起こす。


「あ……ぁああぁあぁあああぁぁぁあ……わ、たし……っ」

「……姫華さん」


 割れた手鏡を抱き締めて泣きじゃくる少女の後ろに、九十九がそっと立つ。

 お千代に手助けされつつもしっかりと立った姿勢の彼は、悲哀に包まれた背中に言葉を投げかける。


「……ごめん。僕はまた、手が届かなかった。灰管たちにも……ジョロウグモにも」

「ううん……それは、違うよ。九十九くんがいなかったら、私はもっと酷い結末を辿ってただろうから。あの時も……今回も」


 ゆるゆると首を振る度に、涙が零れ落ちる。


「あなたがいたから……私もあの子も、これ以上悲しい事にならないで済んだんだよ。あの子が私を殺す事も、私があの子を殺す事も……何も、無かった」

「……でも」

「それに……九十九くんがショウジョウを倒してくれたから、あの子も穏やかに消える事ができたんだと思うわ。あなたは何も悪くない……ううん、あなたのおかげで、こういう風な終わり方を選ぶ事ができたの」


 亀のように鈍い動きで、背後の彼へと振り向く姫華。

 彼女の目からは、今この場で一生分の涙を流したのではないかと思えるほど、大量の涙が滲み出ている。


 それでも彼女の口角は不器用に吊り上がり、笑みを形作っていた。

 失った哀しみ、助けてもらった感謝、手が届かなかった哀しみ、せめての救いを与えてくれた感謝。

 それら全てが渾然一体の斑模様(マーブル)を構築し、泣きながら笑う少女の表情はどこか芸術的ですらあった。


「ありがとう……九十九くん。ありがとう、リトル・ヤタガラス。何度も私を、私たちを助けてくれた……私のヒーロー。私、は……私も、私は──っ!」


 力も抜け切って震える足を動かして、一瞬だけ立ち上がる。

 そんな状態で立ち上がっては、すぐにバランスを崩して倒れてしまうだろう。

 果たしてその通り、膝を伸ばし損なって姫華はあっという間に倒れ込んだ。


──九十九に向かって。


「うわっ!? ……っと、姫華、さん?」

「わ、私……強く、なりたいですっ! もっと……もっと! また、あの子が私のところに来てくれた時に……ちゃんと、手を伸ばせるくらい! ただ守られて、ただ助けを呼ぶだけじゃなくて……私も! 私も、あの子のヒーローでいたいよぉ……っ!」


 自分を助けてくれた九十九(ヒーロー)に抱きつく形で、少女は泣きじゃくる。

 いきなり寄りかかってきた事に驚きこそしたものの、彼もまた真剣に頷いて彼女を抱き留める。


「……僕も、もっと力を使いこなせるようになりたい。これからも、皆を助けられる人でいたいから。……一緒に、強くなろう」

「うん……うんっ!」


 強くならねばならない。

 今度こそは、手が届くように。今度も駄目ならば、更にその次へと繋げる為に。


 今はただ、悲哀を分かち合う2人の少年少女がいるのみだった。


「アオハル……と茶化すには、状況が無粋ですわね」

「ヘッ、そこで余計な茶々を入れないスズメで助かりやすぜ……っと、お?」


 不意に、目にちらつく何かの光。


 夜の帳に閉ざされた天文台の内部だろうに、何か光源があっただろうか?

 そう思ったイナリが目を向けると、それは姫華の手元から発せられていた。


 九十九と抱き締め合っている彼女の手に握られた、ひび割れた手鏡。

 すっぱりと入った亀裂程度では美を損なう事の無い鏡面から、チカリと何かの光が反射されている。


 そしてその光は、建物の外から差し込んだものらしい。

 その事に気付いた2体の召使い妖怪は互いに目を合わせ、一様に割れた窓を見た。


「夜明け……朝でさ。どうやら、戦ってる内に夜を越しちまったようでありやすね」

「まぁ、いつの間に。それに、なんと眩しい……」


 彼らが今いる天文台は、小高い山の上にある。

 そんな山に差し込む夜明けの光は、いつもよりも眩しく、強い輝きに満ちているように感じられた。


 そして妖怪たちは、それがただの錯覚ではない事を知っている。


「……坊ちゃんが、悪しき妖怪を……魔を祓ったおかげで御座いやす。(よこしま)な妖気が祓われ、一時(いっとき)なれども人々は恐れから脱却しやした。そうした(よう)の気が、()の光に表れているんでやしょう」


 麓に広がる街の方角から、サイレンの音が聞こえてくる。


 ガキツキたちを殲滅し、フデ・ショウジョウを撃破し、テカガミ・ジョロウグモを看取り。

 九十九たちが成した妖怪退治は、人々に一先ずの安寧をもたらした。それを証明するように、暖かな朝日の輝きが彼らを照らす。


 朝が来る。日が沈み、夜が訪れ、また日が昇って朝がやってくる。

 夜と対を為す昼こそが、人間たちの時間。朝の光の訪れこそが、人間たちの勝利を示していた。

クライマックス戦闘は終わったのでバックトラックのお時間です。

まずはEロイスの分から振りましょうか。

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