其の肆拾肆 怖がりな絡新婦
「まずは暫く、僕に掴まっててほしい。振り落とされないよう強く。……ちょっと、恥ずかしいかもだけど」
「ううん。あの子を助ける為だから平気だよ。……平時だったら、まぁまぁ恥ずかしかっただろうけど」
九十九からの指示に従い、姫華はよいせと彼の背中にしがみつく。
女の子の柔らかい肢体が腰に絡みつき、脳内が爆発しそうになるのをグッと堪えながら、少年は歯を食い縛って火縄銃を持つ。
彼がじっと見定めてるのは、依然として敵意を露わにしたままでいるテカガミ・ジョロウグモの動き。
己の愛する主人を、横入りしてきた粗悪な人間に奪われた。そう解釈したのだろう。
白い長髪を掻き毟りながら、彼女の爛々とした虚無的な瞳が九十九を睨みつけている。
「あるじ、あるじ、あるじ。今、わたしがあるじを助けよう。無粋で悪辣な痴れ者共に、あるじの心根を侵す権利は無い。あるじの肌を食み潰す資格は無い。わたしだ。わたしだけだ。わたしだけが、あるじの愛を受けるべきであるぞ……!」
ざわり。そのような音を立てて、女怪の下半身から生える蜘蛛の足が浮き立ち始める。
蠢く8本もの異形脚は、一見するとグロテスクでありながら、どこか造形美すら感じさせる神秘性を纏っていた。
その内の1本が僅かながらに後退し、背後に張られた蜘蛛の巣を構成する糸に触れる。
ピィン……と微かな反響を残しながら震えた糸の音は、まるで弦楽器を奏でているかのようだと少年少女に思わせた。
「おそれよ、人間。此れが、わたしの歪み狂った愛であるぞ。……妖術、《鏡の国の若菜姫》……!」
詠唱にも似た宣言に呼応して、ジョロウグモの肉体は足をかけた蜘蛛糸の中へとするりと潜っていく。
それはこれまでにも見せた手法であり、これによって彼女は一行の不意をついたり、或いは攻撃を反射する事ができた。
(……来た!)
妖術の行使を確認した瞬間、全身の筋肉が強張る。
反射的に動ける程度の脱力を施しながら、背中にしがみつく姫華を意識する。いざという時に振り落とさないようにする為だ。
そうして九十九は、首と目だけを動かして素早く足元を見渡して──
「──あった。飛ぶよ、しっかり掴まってて!」
「んっ、いつでもいいよ!」
背中越しに聞くゴーサインに小さな頷きだけを返して、足元に転がっていたガラス片を勢いよく蹴り上げる。
彼が見た限り、自分たちの周囲に転がっていて条件を満たせるものはこの欠片1つだけ。
蹴り上げたそれが割れる事なく宙を舞った事を確認すると、先ほどのように後ろへと跳ね飛んだ。
今回は、背中に守るべき少女を背負っている。彼女が跳躍の勢いで潰れないよう、点火加速の勢いは調整。
そのようにして後退する過程で、火縄銃の先端をガラス片に向けて射撃の姿勢を取る。
何故、そんな小さなものを狙って攻撃したのか。
その理由は、彼がその場を飛び退いてすぐに判明した。
「何……だと……?」
空中をひらひらと舞うガラス片から、ぬるりとジョロウグモの巨体が現れる。
それはまさしく、九十九たちの足元から強襲をかける意図のものであり──しかし、事ここに至れば状況は異なる。
本来ならば、ガラス片の中から頭上の九十九たちを狙って不意打ちをかけたのだろう。
ところが、彼女が糸の中に消えた瞬間を狙って蹴り上げられたガラス片は、断面をくるくると回転させている。
その結果、断面から抜け出してきたジョロウグモの視界に、床一面が飛び込んでくる。
つまり彼女は今、下を向いたガラス片から床に向かって──上から下へ落ちてきている。
意表を突かれ、著しくバランスを崩した女怪は、体勢を整える暇も無く床に激突した。
「戯ッ……!?」
「そこっ!」
頭を打ち据え、蜘蛛の胴体ごと海老反りの状態で不時着したジョロウグモへと、九十九は迷う事無く火縄銃のトリガーを引いた。
無論、込められた弾丸は威力を加減されたもの。これまでの戦いのように、当たっても致命打にはならないものだ。
弾き出された火球は、おかしなオブジェと化した妖怪の脇腹に着弾し、極めて小さな爆発を起こす。
その衝撃で、蜘蛛の怪物は更に体勢を崩しながら吹っ飛んでいった。
ベシャリと床に這いつくばる姿を見て、九十九は再度の確信に至る。
「……思った通りだ。彼女の妖術は、幽世の……閉ざされた世界の生成じゃない。鏡から鏡への、転移だ」
「転移……って事は、あの子は鏡に入って、別の鏡から自由に出入りする事ができるって訳よね?」
「多分ね。僕たちが撒き散らしちゃったガラス片も、鏡面みたいに反射して見える事があるから。それを利用してるんだと思う」
「でも……それなら、九十九くんの攻撃を跳ね返したのはどうして? 糸で受け止めた攻撃を、別の糸から反射していたように見えたけど……」
「それは、多分──ッ!?」
「おのれ、下らぬ真似を……!」
怨嗟の声を連れて、ジョロウグモが起き上がる。
焦げた脇腹を抑えながらも、彼女の指先は九十九へと向けられた。
その直後には、やはり鋭く研ぎ澄まされた蜘蛛糸が、凄まじい速度で射出される。
「動くよ、気をしっかり持って!」
それだけを背中に飛ばして、靴の裏に灯した炎を起点に飛び上がる。
ふわりとした浮遊感と共に視線を下に逸らせば、今まで立っていた場所を蜘蛛糸が貫いていた。
あのままじっとしていれば、鋭利な糸が胴体に風穴を開けていただろう。
それを痛感しつつ、膝を折り曲げて空中で「ヤンキー座り」のような格好を取る。
そのまま両の膝に妖気を点火すれば、2人の高校生はフリーフォールもかくやというほどの勢いで真下に飛んだ。
「きっ──!?」
「舌噛まないようにね!」
垂直落下した九十九が足裏で狙うのは、ついさっき己の直下をぶち抜いていった蜘蛛の糸。
爆発的加速を伴いながら糸の中途に足を叩き込み、着地と同時に力の限り踏みつけた。
着地の衝撃で床が割り砕かれ、微小な瓦礫が舞い散る中でも、靴を糸から離す事は無い。
「稚ィ……其処に気付いたか」
「あれだけ派手にやって、気付かない訳無いでしょ。これが、君の仕掛けたトリック……!」
そう言って、踏みつけた糸をがっしと掴む。
勢いよく引き上げたそれは、本来ならば表面に纏わりつく妖気の刃が九十九の手を引き裂いただろう。
だが、今の彼は手に自ら生み出した炎の妖気を纏っていた。故に糸を掴んでも、妖気熱によって逆に糸が溶けてしまう。
そして、そんな糸の表面にじぃと目を凝らした。
通常の糸であれば、白い繊維質が見えるだろうところ──この蜘蛛糸は煌めきを放ち、覗き込んだ九十九の顔を僅かながらに写し取っている。
「やっぱり……! この糸そのものが鏡なんだ! 鏡面の性質を持った糸を展開して、それを起点に妖術転移ができる。それがあの反射攻撃のトリックだ!」
「そっか……鏡みたいになってる糸を通して、九十九くんの攻撃を別の糸に転移させてたんだ……!」
「……さっきまでは、白衣さんが拘束されていたから自重していたけれど。こうして救出に成功した、今なら──っ!」
チリッ。
靴の裏から火花が散り、熱を帯びた妖気をスパークさせる。
たったそれだけの工程を経る事で、彼が踏みつけている糸に容易く引火し、瞬く間に燃え広がる。
「此れ、は……!? 止めろ、止めろ……っ!」
如何に鏡の性質を持っていようとも、本質的には糸である。
況や蜘蛛が紡ぐ糸の延長線であるならば、例え妖気による生成物だったとして、発火しない道理などどこにも無い。
さながら爆弾に取り付けられた導火線のように、引火した糸を介して炎は次々に伝搬する。
糸から糸へ。糸から巣へ。巣から巣へ。
ヤタガラスの灯火は、建造物に一切の延焼を起こさず、しかし妖気が編み上げた蜘蛛の巣のみを焼き尽くした。
「……わたしの、巣が。わたしとあるじの、共に溶け合い交わる為の、永久の鏡の国が……」
ボトボトと床に落ちては燃え尽きてゆく糸の残滓を前に、ジョロウグモは呆然と震えるしかない。
それでも更に糸を生み出そうと、切っ先すら定まらない動きで指を動かすと──
──BANG!
即座に飛んできた炎の弾丸が、蜘蛛の妖怪の右手首を打ち据える。
軽い爆発と共に弾かれた手首は、吹き飛びこそしていないが強い熱と痺れをもたらした。
「愚っ……!? 憂……憂憂、嗚呼……」
「……投降して。君はまだ、何もしてないだろ?」
煙の立ち昇る火縄銃を構えながら、九十九はじっと彼女を見ていた。
「白衣さんほど事情は分かってないけど……君だって、『現代堂』の被害者なんだろう? 僕が駆けつけるまで、彼女は苦しんではいたけど死んではなかった。君が殺さなかった。それがその証拠だよ」
「……わたし、は……」
「僕は『現代堂』を狩り、奴らの『げえむ』を止める者で在りたいと思ってる。でも……妖怪にも良い奴がいるって事を、僕は知ってる。それに……」
そっと、背負っていた姫華を下ろす。
危なげなく着地した彼女の顔を見てみれば、歪み苦しむテカガミ・ジョロウグモを案じる情がこれでもかと現れていた。
それだけで、彼女が何を語らい、何を見たのかが分かるというものだ。
「白衣さんは、君の事を『友達』と言った! 信じたいとも言った! 助けたいって、そう僕に願ったんだ! なら……君は、僕たちと一緒にいれる存在なんじゃないの!?」
「……」
その場に座り込み、だらんと腕を垂らすジョロウグモ。8本の足も、力なく横たわっている。
そんな彼女の姿を見て、姫華は胸の前に手を抱き、1歩前に出た。
「……ねぇ、ジョロウグモちゃん。私ね──」
「──めだ」
「え……?」
「駄目だ。駄目だ。其れは、出来ない。わたしは、悪意に因って生み出された。あのショウジョウが、妖術を以てわたしに悪意を刻み込んだ」
幽霊のように、体の動きにすら虚ろな雰囲気を纏わせて。
全身を脱力させたままに、女怪は体を揺らしながら起き上がる。
「わたしから、あるじへの。わたしから、あるじの祖母への。感謝を、慕情を、忠義を、愛情を。其の全てを、悪意に因って塗り潰された。如何に善を渇望しようとも、わたしの根底に在る本質は人間への害意。其れを覆す事は出来ぬ」
「ジョロウグモちゃん、あなた……」
「わたしは最早、『現代堂』の妖怪である。わたしの心には、我らが長たる山ン本への敬意が在る。無理やりに宿されたが故に、其れに抗う事など出来ぬ。わたしは人間に恐怖と叫喚を齎し、其の死を以て夜を深める魔の尖兵であるぞ」
蜘蛛の足が一斉に振り上げられ、そして同時に床へと突き立てられた。
それが更なる妖術の行使であり、攻撃の前兆である事など、最早推測するまでもなく。
故に九十九は、僅かに下ろしていた火縄銃を急いで構え直す。
その事に気付いた姫華が彼を止めようと振り向くが、迎撃も制止も、2人が取ろうとした行動のどちらも間に合わない。
「おそれよ。今のわたしは、『げえむ』の『ぷれいやあ』であるぞ! どうか……どうか、おそれてくれ!」
──四方から、無数の糸が現出した。
それは床に突き立てられた蜘蛛の足を介して、床の下や壁の中を通りながら飛び出してきたものだ。
雨後の筍……と評するには、あまりにも鋭利で、あまりにも殺傷力を帯び過ぎた真っ白い槍衾。
それが、天文台のあらゆる場所から突き出してくる。
「ヤバい……! 白衣さん、一旦退こう!」
「……っ。でも、あの子が……!」
「今は駄目だ! 一旦形成を……──ッ!?」
ドクン……! という音を、確かに耳にした筈だ。
体中の血管が、悲鳴の大合唱を奏でる。
ともすれば全身が爆発したのではないかというほどの違和感と熱が九十九を襲い、辛坊たまらず膝をつく。
「こっ、れ……!? まさか、お千代の毒が……今、切れるのかよ……!?」
「っ! 九十九くん、前!」
姫華が指差した先では、今まさに1本の蜘蛛糸が2人へと迫っていた。
このままでは纏めて貫かれる。それが分かっているからこそ、九十九は手を前に出す。
膝をついた拍子に、火縄銃を杖代わりに使ってしまっている。だから今は、炎を手から射出する程度しかできない。
それでも、糸を燃やすには十分な筈だ。
事実、彼の手のひらから迸った妖気の炎は、迫り来る糸と真っ向から衝突──
「わたしの振るう《鏡の国の若菜姫》は……何人たりとも、逃す事は無いぞ!」
しない。
横合いから割り込んできた無数の糸が、幾重にも絡み合って1枚の壁を形成する。
そしてそれは、壁そのものがひとつの鏡として成立した事を意味していた。
鏡壁に吸い込まれた灼熱は、まだ無事だった窓ガラスを介して天文台の外へと放出される。
時を同じくして、鏡面の反対側に迫っていた糸もまた、鏡の向こうへと吸い込まれていった。
糸は糸の表面を覆う鏡面に吸い込まれ、別の糸から排出される。
排出された糸がまた別の糸に潜り込んだかと思えば、潜り込まれた側の糸も新たな糸を介して転移する。
鏡から鏡への転移。
それは、ジョロウグモが生成した鏡の糸すら例外ではない。むしろ、本来の用途がこれだ。
縦横無尽に鏡から鏡、糸から糸への転移を繰り返し、全方位が致命射程と化した魔の蜘蛛の巣がここに完成する。
「これ……もう、どの糸がどこから来るか、全然分からない……!?」
「妖術が、暴走しているのか……!? ショウジョウから押し付けられた悪意が、完全に独り歩きしている……!」
最早、回避どころの話ではない。
完全に取り囲まれた事を察して、九十九は酷い疲労感を堪えながら立ち上がろうとして──
「坊ちゃん、危ないっ!」
「白衣様はわたくしが!」
2人を四方から串刺しにしようと迫る糸の群れに割り込んで、2匹のお供妖怪たちが駆けつける。
イナリは九十九の服の襟を噛んで強引に引っ張り、お千代はちっちゃな足で姫華の服を掴んで飛び上がった。
「イナリ! ごめん、助かった!」
「いえいえ! わてらも中々助けに来れんで申し訳御座いやせん!」
どんなにちっちゃな体躯でも、れっきとした妖怪である。
襟を噛んだまま決して離す事なく、それでいてバランスを崩す素振りすら見せずに、イナリは九十九を引き摺って糸を避け回る。
蜘蛛糸の雨霰、弾幕を綺麗な動きで避けながら、なおかつ己の主人に被弾はさせていない。
そして一方、姫華を抱えて飛ぶお千代の側は。
「ふぅ……間一髪、ってところでしたわね。お怪我はありませんこと? 白衣様」
「……」
「……白衣様? どこか痛めまして?」
彼女もイナリと同じく、掴んで抱えた姫華を決して振り下ろさず、そして被弾もさせずに糸の弾幕を掻い潜っていた。
そんなお千代が、自分の抱えている少女の様子がおかしい事に気付いて訝しむような声をかける。
その呼びかけに答える事は無く、少女はただ荒れ狂う糸の中心部を見る。
そこには、その場から動かないままに暴れ悶え、苦しむ1体の妖怪がいた。
「嗚、嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……! 嗚呼、ある、じ……!」
最早、自分でもどういう感情の下に動いているかすら分かっていない。
頭を抱え、ただ周囲の一切を破壊せんと糸の生成と妖術の行使を繰り返す、妖怪テカガミ・ジョロウグモ。
その姿を、姫華はずっと見ていた。自分を連れて飛び回るお千代がどんな軌道を描こうとも、ずっと。
だから。
「……ごめんなさい、お千代さん。本っっっ当に、ごめん」
「は? え、っと……一体、それはどういう──って、ちょ!?」
その直後。
自分の服を掴んでいる、スズメ妖怪のちっちゃな足を強引に振り払って。
「友達はァ──度胸っ!」
姫華が、空中に躍り出た。




