其の肆拾参 助けてほしいと望むから
「あ、ぎぃ、ぐ……!? や、めて……! お願い、だから……!」
「嗚呼……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……! 我があるじ。可愛いあるじ。苦悶の声もまた美麗で、わたしの心を踊らせる。更に、更に聴かせて欲しい。あるじの稚拙な啼き声を」
姫華は、全身を襲う痛みと圧迫感に耐え切れず、悲痛な声を漏らした。
彼女の四肢は依然として蜘蛛の巣に絡め取られて拘束されたままで、追い打ちをかけるように起きたのがテカガミ・ジョロウグモの暴走だ。
フデ・ショウジョウの書き出した悪意の紋様は、ジョロウグモの精神に働きかけて彼女を更なる狂気の淵に落とした。
姫華に対する情愛を増幅され、掻き乱された女怪は、己が情を向ける少女を強く強く抱き締めた。
無論、それがただ親愛を込めたハグである筈も無し。
全身を──蜘蛛の胴体を余す事無く使い、8本の足と1対の腕、その全ての膂力を以て全力で抱擁しているのだ。
その有り様を極め技、或いは全身の骨という骨を砕く為の攻撃と受け取る者がいれば、その認識こそが正解だろう。
「死ん、じゃう……! 本当に、死んじゃう、から……っ! なん、で……こんな、事……っ! 離、して……お願い……!」
「否だ。否であるぞ、あるじ。わたしはあるじと共に在りたいのだ。あるじと共に生きたいのだ。あるじと共に死にたいのだ。あるじの命脈を断ち、その苦痛と断末魔を食む。その快楽は他の何者にも譲らぬ。わたしだけが、其れを食む権利を持つ」
ミシ、ミシ、と筋肉と筋肉の軋み合う嫌な音が聞こえる。
それでも姫華が苛まれているのは、あくまで痛みと苦しみのみ。骨が折れる事や、血が込み上げてくる事は無かった。
彼女の膂力であれば、抱擁した相手の骨を全て一瞬で砕き切る事など容易いだろう。
そればかりか、首に手をやれば綿菓子のように捻り千切る事すら現実的だ。
それは或いは、テカガミ・ジョロウグモが必死に守ろうとしている最後の一線なのだ。
自分が親愛と敬愛と情愛を向ける少女を殺したくないという、ほんの僅かな理性。
その心根が、姫華を死に至らしめていない。
(殺され……たくない……っ! 死にたくないのも、そうだけど……それより何より、この子に……! 私を殺すなんて事、やってほしくない……っ!)
真実、心の底から発せられた本音がそれだ。
自分が死ぬ事そのものよりも、大切に思ってくれている相手が、大切に思う自分をその手で殺すという業を為す事。
その苦しみを、姫華は何より厭い、防ぎたかった。
(だか、ら……だからっ!)
何度考えても、答えは出なかった。
ここから、自分1人だけの手で、彼女をどうにかできる手段など何も無い。
白衣 姫華は本当に無力な存在であり、妖怪という異常を前にしてできる事は限りなく少ない。
だから、頼るしかない。
何度も何度も助けを求めてしまって、その度に迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないと思う。
けれど、自分だけではどうにもできない事態だから。
手をかけさせてばかりの自分が情けなくて仕方が無いけれど、それでも力が欲しいから。
さっきの爆炎は、きっとそういう事だろう。
彼が近くにいる。あの時みたいに、闇を照らす炎で敵をやっつけてくれた筈だから。
姫華は叫ぶ。
全身を強く抱き締められて、体の至るところから悲鳴が上がってなお、腹の底から声を振り絞る。
そうすれば、きっと来てくれる筈だから。
「おね、がい……っ! 力を……貸し、てっ──九十九くん!」
「──大丈夫。その為に、僕がいる」
果たして、救いのカラスは現れる。
「何度だって、君に手を差し伸べる!」
窓ガラスを突き破り、窓枠ごと蹴り飛ばし、無数のガラス片を浴びてもなお怯む事は無く。
真っ黒マフラーを首に巻いた少年が、閉鎖された天文台の内部へと飛び込んできた。
その傍らには、イナリとお千代の姿もある。
そんな少年の体は、つい今の今まで繰り広げられていたフデ・ショウジョウとの戦いによってボロボロ同然だ。
黒焦げの装束を襤褸切れのように纏い、全身傷だらけのまま、ロクに治療もせずにこの場へ駆けつけた。
お千代の打ち込んだ毒だって、いつ効果が切れてもおかしくない。
お供の2匹も、妖術を使いに使いまくったせいで疲弊している。それは彼も同様だ。
それでも、助ける。
それが約束だったから。
「君が窮地の度に、僕は約束を必ず守る!」
視界に映り込んだ黒衣を認めて、姫華は苦しみながらも歓喜に口角を吊り上げる。
それに気付いたジョロウグモが、虚ろな目と表情のまま、首だけを動かして後ろを見やる。
彼女たちの視線が向かうところには、こちらへ向けて火縄銃を構える1人の少年がいた。
既に、弾丸は込められている。引き金を引く以外の工程は残されていない。
「それが、僕──妖怪リトル・ヤタガラスだっ!」
そうして、九十九は号砲を上げた。
放たれた弾丸は、平時のそれよりも威力の落とされたものだ。
可能な限り姫華を巻き込まないよう、込められた妖気も熱量も削られている。
その代わり、速度と打撃力が意識されている。着弾すれば、ごく小規模の爆発と共に敵の体を打ち据えるものだ。
それが、ジョロウグモに向けて射出された。
誤射などあり得ない。姫華を一切傷つけない軌道を描き、宙を灼きながら飛翔する。
「馬鹿の一つ覚えは、愚か……であるぞ」
白く細い指の切っ先が、弾丸を力なく指差す。
室内に張り巡らされた蜘蛛の巣が、術者の指令を待ち侘びるかのように震え始めた。
「妖術、《鏡の国の若菜姫》」
糸が、射出される。
蜘蛛の巣の端を構成していた1本の糸が、真っ直ぐに飛び出してジョロウグモの前に飛び出してくる。
炎の弾丸は糸に向かって飛来し、そのまま着弾──する事無く、糸の中に溶けるように消えていった。
その直後、まったく見当違いの方向にあった別の糸が震え、表面から炎の弾丸を吐き出した。
以前のように適当な座標へと放たれたのではなく、今度の弾丸は本来の使い手である九十九へと襲いかかる。
「また、あの術……!」
「お下がりくださいまし、坊ちゃま!」
お千代が、翼をはためかせる。
弾かれるようにして放たれた数本の羽根が、空中で弾丸と衝突して小さな爆発を起こさせる。
それによる損傷は一切無い。まずは一撃、互いに攻撃はいなされた形となる。
「く、あぅっ……!?」
「あるじ、今暫く待って欲しい。直に終わらせるぞ」
そこでようやく、強烈な抱擁は一旦終わりを告げた。
都合10本の手足でこれでもかと羽交い締めにされていた姫華は、解放されると共に激しい呼吸を繰り返す。
それを横目に見ながら、蜘蛛の女怪は自分が足場にしていた蜘蛛の巣へと、ゆっくりと足を下ろした。
──トプゥ……ン
蜘蛛の足は糸を踏み締める事なく、逆に糸の中へと沈み込む。
質量や体積の一切を無視して、テカガミ・ジョロウグモの肉体はワイヤーほどしか太さの無い糸の中に消えていく。
それはまるで、水中を潜航するかのよう。
「消えた……!? あの時と同じだ、一体どこに……」
「もしや、幽世の形成ですの? でも、それほどの妖気でしたら、わたくしたちが感知でき──」
「──ッ!? 違いやす、坊ちゃん! 後ろでさ!」
イナリが叫びを飛ばした先、それは彼の言う通りに九十九の背後だ。
いや、正確には──
「おそれよ。わたしの愛を。おそれよ。わたしの魔を」
先ほど九十九たちが突き破り、その場に散乱させた窓ガラスの破片。
その内の1つが鏡のように煌めいて、ジョロウグモの巨体を顕現させたのだ。
今しがたの潜航と同様、体積など元から存在しなかったかのように、彼女の白い肢体はガラス片からヌルリと現れた。
驚く一同に対して、指を向ける。
1本ではなく、手の指全ての切っ先に妖気を込めて。
「おそれよ。わたしをおそれる汝等の心魂が、わたしとあるじの世界に静謐の夜闇を齎すのであるぞ」
10の指先から、白く太い蜘蛛糸が幾多も放たれた。
靭やかな質感を持つそれら1本1本が、路地裏で見せたように鋭い貫通力と破壊力を秘めている事は明らかだ。
「イナリ! お千代! いい感じに避けられるよね!?」
「勿論! キツネのすばしっこさを舐めるんじゃありやせんぜ!」
「わたくしたちには構わず、坊ちゃまは坊ちゃまのやるべき事を!」
閉鎖された天文台。その壁を、床を、天井を、窓を貫き砕く、無数の蜘蛛糸。
靭やかで柔らかい性質を持ちながら、コンクリートをも穿つ頑丈さと硬度を併せ持つそれらは、瞬く間に窓の周辺を支配下に置いた。
そうして形成されゆく第2の蜘蛛の巣の狭間を、九十九は駆ける。
追撃を仕掛けてくる蜘蛛糸を躱し、避け、時には手から迸らせた炎で迎撃する。
溶けた糸の隙間に滑り込むようにして、彼は天文台の内部を跳ね回った。
視界の隅では、イナリとお千代もそれぞれの手段で蜘蛛糸を回避している。
イナリは跳躍を交えて走り回り、時には蜘蛛糸に乗っかってやり過ごし。
お千代は焦げた翼を押して宙を駆け、障害物レースのように飛び回っている。
宣言通りに彼らは問題無い事を認めて、少年は火縄銃を背中に担いだ。
再び蜘蛛糸の下に滑り込んだ彼は、脚部に纏った炎を後方に噴射させ、床が焼け付く速度でスライディングを決行する。
「白衣さん! 助けに来たよ!」
「九十九くん……っ! 善かった、無事だったんだね!」
ハリウッド顔負けのアクションの末に辿り着いたのは、姫華の元だ。
ジョロウグモの抱擁から解放されたばかりで立つ事のできない彼女を、躊躇う事なく抱き上げた。
「ひゃ、ひゃぁああぁああ!?」
「ごめん! じっとしてて!」
途端に顔を真っ赤にする少女。
対する九十九はと言えば、妖気を両腕に巡らせて膂力を向上させ、彼女を軽々とお姫様抱っこしてみせる。
突然の事に慌てふためきながらも、姫華は彼の言葉に従ってじっとしている他無かった。
あと、自分の事を平然とお姫様抱っこしてくれた胆力と力持ちさ、ついでに至近距離から見える「男の顔」に色んな感情がごちゃ混ぜになった。
(な、ななな、何これ!? 九十九くんってこんなに格好良かったっけ!? えっ、何!? 私ってチョロインでしたっけ!? こんな簡単にドキドキする女だったような覚えは無いんだけど!? これが吊り橋効果ってヤツですか!? お願いだから正気に戻って!)
普段の寝ぼけた顔から一転、少年の目はキリリと鋭く、敵の妖怪がどう動くかを見定めている。
そこにドキマギを感じるのは当然の事であるし、男の側はそんな女子の情動を察せられる訳も無く、ただ目の前の事に集中──
(うわぁぁぁあああ!?!?!? なんで!? なんでこんないい匂いするの!? 女の子っていい匂いがするって本当だったんだ!? しかも柔らかいし、至近距離から顔を見られて可愛……って! これじゃあ僕が変態みたいじゃんか!? 正気に戻れ!)
できていなかった。
感情が顔に出ていないのは、ひとえにそれを表に出さないよう踏ん張っているからに過ぎない。
内心はバックバクである。如何に妖怪の力を得たとして、所詮は思春期の男子高校生15歳なのである。
お供コンビが攻撃を避ける方に集中していて、こちらの様子に気付いていないのは幸運だろう。
もし気付かれていれば「アオハルしてる場合でやすか!?」などと怒られていただろうから。
「……あるじを、返せ。あるじは、汝の様な者が触れて善い存在では無いのであるぞ」
スルリと、悲喜こもごもいっぱいの男女2人の背後からジョロウグモが現れる。
いつの間にか、窓際に蜘蛛の巣を形成していた筈の彼女は、元々いた蜘蛛の巣からその巨体を現出させていた。
細く、それでいて力強い腕を伸ばし、不心得者を絞め殺そうと襲いかかる。
そこで我に返った九十九は、姫華を強く抱き上げたままに足に妖気を込める。
「気をしっかり持ってて!」
「う、うん! 分かった!」
振り返ると同時に点火する足裏。
それは跳躍の為でなく、足を蹴り上げて攻撃する為に用いられた。
カチ上げられた足に炎が宿り、灼けつく軌跡を残しながら女怪の腕に蹴撃を叩き込む。
熱された爪先が両腕を打ち据え、その白く艶やかな肌に火傷を刻みつけた。
「憂憂……っ!?」
「飛ぶよ!」
「へっ? 飛ぶって──きゃあっ!?」
ジョロウグモが怯んだ隙に、地面を踏み締めると共に再び点火。
今度は勢いよく後ろへ飛び退き、蜘蛛糸を避けながら距離を取る事に成功した。
ズザザ、と足裏を床に擦り付けてブレーキをかける。
焼け焦げた黒いラインが残り、薄く煙すら立っているのが見えるだろう。
態勢を整える事ができ、一先ず軽い呼吸を繰り返す。
「す、ごい……これが、妖怪って事なんだね」
「うん。……あいつの術の仕掛けは、大体分かった」
「えっ、ホント!?」
「推測だけどね。でも、それが正しければ……ここから形勢逆転できる」
「……なら、お願いがあるの」
抱き上げられたまま、真っ正面から目を合わせる。
顔が近いとか、ドキドキするとか、そんな事を思う暇は互いに無い。
「私、あの子を助けたい。……どうすればいいかとか、全然分かんないけど」
「……本気で言ってる?」
「かなり馬鹿馬鹿しい事を言ってる自覚はあるわ。助けてもらった分際で何を、とは自分でも思ってる。ホント、なんでこんな事言ってんだろ、私。……でも」
改めて、姫華は前を見た。
「ある、じ……。あるじ。あるじ。今、助けるぞ。其の様な痴れ者から、今に解放するぞ。あるじ。わたしのあるじ。わたしには、あるじしか居ないのだ」
虚ろな目はそのまま、ゆるりとした動きで立ち直る。
うわ言のように自分への愛慕と忠心を語るテカガミ・ジョロウグモの姿に、少女はやはり哀しさを見出した。
ただ、虚無なばかりの目ではない。ただ、感情を宿さないだけの表情ではない。
悪意で塗り潰されようとも、そこには重く強い想いがあった。
「私……信じたい。今度こそ、妖怪を……いいえ、友達を信じたいの!」
「……苦労する人だね、君も」
「それ、前に九十九くんがイナリさんに言われた事でしょ?」
「うん、言われた」
顔を見合わせ、共に笑い合う。
そうして九十九は、姫華を下ろしてやった。彼女もそれに応え、震えを抑え込んで床に立つ。
「あの子、ショウジョウの妖術で頭を狂わされちゃったの。それを何とかできれば……」
「ショウジョウはさっき倒した。核になってた筆も破壊したし、術そのものは解ける筈。後は、どうにかして強いショックを与えれば或いは……」
「できる?」
「要になるのは多分、君だ。協力してもらうよ。僕の指示に従って、僕と一緒に行動して」
「勿論」
共に、並んで立つ。
九十九は背中に担いでいた火縄銃を構え、姫華は服の袖やスカートを破いて短くして。
狂った声ばかりを漏らす蜘蛛の女怪に、正面から相対する。
「行こう、九十九くん!」
「ああ……行こう! 白衣さん!」
恐るべき『現代堂』が打ち立てた第2の『げえむ』も、最後の局面を迎えようとしていた。




