其の参拾肆 猩々の一筆書き
「離……してっ……! 嫌っ、離してっ!」
「ヒッヒッヒ……動けば動くほど痛いですよ、お嬢さん。ワシとて妖怪。人間相手に情けをかける義理は無いのですから」
ガッチリと組み伏せられた痛みに喘ぎつつも、その拘束から逃れる事ができずにいる姫華。
そんな彼女をホールドしながら、肌も髪も白い老爺はサルのように気味悪く嘲笑った。
「おっとォ……お前さんたちも動かない事だ。あくまであたしは、『げえむ』の場を整えるお膳立てをしに来ただけ。あたしからは攻撃しないけど、そっちから攻撃してくるようなら……ヒヒヒッ、この場を派手に巻き込むくらいの抵抗はしたっていいよねェ?」
「くっ……!」
「……どうか堪えてくださいやし、坊ちゃん。ここまで奴の妖術が張り巡らされちまっては、わてらはもうまな板の上の鯉も同然……!」
腕から炎を放出しようとしていた九十九が、その言葉を受けて不承不承に妖術を解く。
その足元では、彼を諭したイナリもまた歯ぎしりをして山ン本を睨みつけている。
だが、彼らに睨まれた程度で怯むような妖怪である筈が無い。
むしろ、山ン本は自分に突き刺さる視線を味わって虚ろな嗤い声を漏らした。
「おォ、怖い怖い。最近の若者は短気でいけねェや。『待つ』って事を知らないからねェ……ヒヒヒヒッ! これから面白い催しが見られるっていうのにさァ」
「催し、だって……!? お前たちがやろうとしている……『げえむ』とかいう馬鹿げた無差別殺人の事か!」
「ヒヒヒヒ。馬鹿げた、なんて随分なご挨拶だねェ。とォっても面白くて刺激的な遊びじゃないかァ」
ヘラヘラとした薄っぺらい笑み。
虚ろな笑みを顔に貼り付けた山ン本は、煙管から青臭い煙を目一杯に吸い込んだ。
甘ったるい煙の味を口の中で緩く転がして、ゆっくりと吐き出していく。
彼がその行為を繰り返す度に、この場に立ち込める不愉快な煙はより一層、その濃度を増していた。
「人間を殺し、甚振り、辱め、怨嗟の叫びを高らかに響かせる。お前さんたち人間が苦しみ悶えるほどに、昼の光は陰り、夜の闇が濃くなっていく。こんなに楽しい遊びは、そうそう無いだろう? 人の不幸は蜜の味、人が死ぬ様は金塊にも勝るよォ……ヒヒヒッ」
「……ふざけてる!」
「そう思うのは勝手だけどねェ、もう『げえむ』は始まっているのさァ。伸るか反るか、中断も放棄も許されない。後はこちらが死ぬか、そちらが死ぬかだけの話だよォ。……さて、お題目はここらでいいだろうさァ」
煙管を指先だけで器用に回し、クルクルと巡る先端から立ち昇る煙の螺旋を弄びながら。
山ン本の意識が向かう先は、九十九でもイナリでもなく、姫華を組み伏せている老爺にあった。
「フデ。いつまで遊んでいるんだい? あたしにお膳立てを頼んだのはお前さんなんだ、早く始めちまえよォ」
「……まったく、信ン太といい事を急く方ばかりだ。いいでしょう。事ここに至っては、この姿にも意味はありませんから」
減らず口も程々に老爺が取り出したのは──1本の筆。
穂先から黒い墨汁の滴るそれを握り締めた瞬間、老爺の肉体が大きく変成を始めた。
色素の抜け落ちた白い髪と髭が膨れ上がり、身に纏う外套が筋肉の隆起によって内側から弾け飛ぶ。
ミチミチと音を立ててはち切れんばかりの筋肉と、頭頂部から爪先までを覆い尽くす真っ白い体毛が絡み合い、1つのシルエットを形成した。
「こいつ……デカいゴリラ!? 毛が白いけど……」
「いや、アレは猩々! 清より伝来したサルの妖怪でさ!」
「ヒッヒッヒッヒッヒ……! 如何にもその通りで御座います」
占い師を騙る老爺の正体。それは、巨体のサルだった。
成人男性よりも一回り大きいほどの体躯と、その全てを覆う白の体毛を持つ異形の類人猿。
太い指先で筆を摘み上げ、その穂先をゆるりと振りながら、老爺だった妖怪はおぞましく歯を剥いた。
「ワシは妖怪フデ・ショウジョウ。今回の『げえむ』を担当する『ぷれいやあ』です。ワシの得意とする妖術は……これ、この通り」
「ひ、ひゃあぁあ……っ!?」
ゾルッ、ゾルリ。
フデ・ショウジョウの操る筆の穂先が、姫華の手首を厭らしく撫でた。
器用な指捌きで筆先を滑らせるほど、組み敷かれた少女の手足に黒いラインが塗り込まれていく。
そのくすぐったく気色の悪い感覚を味わった姫華は思わず、何とも言えない声を上げる。
しかし、それも束の間の話。九十九たちが動き出すよりも早く、それこそ10秒も経たない内にショウジョウは工程を終わらせた。
同時に、姫華の手足を伝うこそばゆい穂先の感触は、ほんの一瞬で冷たく重い異物感へとすり替わる。
「あぎっ……!? こ、れっ……手と足が、締め付けられて……! 鋼鉄の、手錠……!?」
「ヒッヒッヒ。いえいえ、ただの墨ですよ。ただ少し、鉄と同じ強度と質量を得ただけのね……」
ショウジョウが姫華の拘束を解くと、代わりに彼女の四肢は黒い幾何学模様で縛り付けられていた。
手足に書かれただけの黒いラインが、しかし彼女の力ではどうにもならないほど手足を固定してしまっている。
姫華が藻掻いて四肢をアスファルトにぶつかる度、幾何学模様から金属音が鳴り渡った。
「白衣さんっ! ……~~~ッ! イナリ、戦おう!」
「坊ちゃん!? 危険でさ、今動くのは──」
「ヒヒヒヒッ。小姓のバケギツネは、あたしと少し遊んでいきなよォ」
辛抱堪らず駆け出した九十九を追おうとした矢先、イナリの体を煙が絡め取った。
気体であるにも拘わらず質量と粘性を得た煙は、ちっちゃなキツネの動きを封じ、少年への追随を牽制する。
つぶらな瞳で煙の主を睨むが、対する山ン本はヘラヘラと嗤って見下すのみ。
煙管を小刀のように軽く持ち直し、なお煙の吹き出す先端の金具をキラリと光らせた。
「ま、あたしが『ぷれいやあ』になる『げえむ』は当分後の話だからねェ。今回は軽く揉むだけだけど……死なないでおくれよォ?」
「……すみやせん、坊ちゃん! ですが……」
「分かってる……白衣さんを救出したらすぐに退く!」
イナリを置いて先を征く。
その目指す先には、術で拘束された姫華と、彼女を踏みつけ抑え込むフデ・ショウジョウの姿があった。
今、手元に火縄銃は無い。先ほどガキツキに対して使った術では、異形の大猿を倒し切れはしないだろう。
かと言って、コントロールの不確かな大きな術を使えば、姫華にも被害が及ぶ。
(限界まで出力を絞って……後は、腕の勢いっ!)
弓のように引き絞った右手に妖気の炎を生み出して、勢いよく前に振り抜いた。
迸る真っ赤な火炎が、尋常の物理法則を無視して前方に向かって突き進む
奇怪な煙の群れを吹き飛ばし、灼熱のストレートは真っ直ぐにショウジョウを目指し──
「では、お見せしましょう。……妖術《万象一筆書き》!」
筆が、宙を踊る。
穂先は何も無い空中にへばり付き、空中に黒い墨で図形を塗りたくった。
ショウジョウの目前に描かれた黒塗りの楕円は、ドロリとした墨汁の質感から一転する。
──ジュゥウウ……!
「炎が、消えた……!?」
「ヒッヒッヒッヒ……超低温の発泡剤ならば、如何に妖気の炎と言えど消し去るのは容易い事です」
宙に塗られた漆黒の図形の表面が、ブクブクと音の立つきめ細かい泡へと変化する。
九十九が放った炎は無数の泡に受け止められて、泡を激しく蒸発させつつも消失した。
姫華はおろか、ショウジョウにすら火傷の1つも負わせていない。
「無論、本来それだけでは火を消す事はできないでしょうが……これが妖術である以上、ワシが『できる』と思えば『できる』のですよ。そして……!」
「な──がっ!?」
真正面から放たれたナニカに額を打ち据えられて、九十九の体は大きく後方に仰け反った。
仰け反った拍子に地面を転がりながらも、上手く受け身を取って態勢を整える。
彼の眉間から血を吹き出させたモノの正体は、鉛玉のように固形化した墨汁の雫。
フデ・ショウジョウが筆を振って弾き飛ばした水滴が、金属に匹敵する強度と硬度を獲得して飛来したのだ。
射出されたそれが1滴だけである筈も無く、いくつもの硬化水滴が散弾となって九十九の全身に痛打を与えていた。
「ただの墨汁が……塗るだけで鋼鉄の枷になったり、消火剤になったり……水滴でさえ弾丸になる……。筆で書いたり放った墨の性質を、変化させる妖術……!?」
「如何にもその通りですよ、“八咫派”の小僧。ワシの妖術《万象一筆書き》は、筆より滴る墨をあらゆる材質に変化させる事ができる。鉄にも、弾性にも、硝子にも。そして……」
ガッシと、太く短い指で姫華の頭部を鷲掴みにする。
妖術によって拘束されたまま踏みつけられていた彼女は、頭を締め付ける強い握力に強い痛みを覚えた。
「ぁ、ぐぅぃあ……っ!?」
「妖気を引き寄せ吸収する特性とて、実現させる事が可能なのですよ」
少女の頭部を掴んだまま、ショウジョウは自身の握力のみで彼女を宙に浮かばせる。
四肢を拘束され、それでも痛みから脱却しようと藻掻くその姿に、サルの妖怪が目を細めて愉悦した。
「ワシが街にばら撒いた書紋こそ、まさにその実例。人間たちが街中を歩くだけで、道具に書かれた印は妖気を吸い込み蓄え、地下を流れる妖気の指向性すら掻き乱す! この街の地脈は最早、ワシにとって都合のいい流れに調整されているのですよ」
「人間たちを利用して、儀式に必要な過程を短縮化したのでありやすか!? 一体、何の儀式を仕出かすつもりで……」
「それは、これから分かる事ですよ。ですが折角ですので、“でもんすとれえしょん”をお見せしましょう。この──」
ショウジョウの太い指が、年若い少女の服の下に差し込まれた。
ゴソゴソと自分の体を無遠慮に弄られる不快さで、反射的に嫌悪の感情を露わにする姫華。
しかし、その行為に拒絶の声を上げようとした瞬間……彼女は、気付いてしまった。
制服の内ポケットから、重みが消えている。それが意味する事実を悟り、顔色が一瞬の内に青褪める。
そして、制服から抜き取られた白いサルの指先には──
「1度は仕込みを拒絶された、彼女の一番大切なものを用いてね」
古びたレトロ調の装飾が美しい、1枚の手鏡が摘み上げられていた。




