其の参拾弐 プチ作戦会議
姫華が泣き出してより、少しの時間が経過したのち。
「……落ち着いた?」
「グスッ……うん、たぶん……」
目が真っ赤になるほど擦って涙を拭い、九十九から貸してもらったポケットティッシュで鼻をかみ。
それでも滲み出てくる涙と鼻水をこれでもかと拭い切って、漸く姫華は落ち着きを取り戻した。
チーンッとティッシュで鼻をかむ彼女を横目に、イナリはピョコンと跳躍して九十九の頭の上に乗っかった。
黒い髪の毛をクッション代わりに、ちっちゃな後ろ足で自分の顔を軽く掻いたのち、2人の注目を集める形で咳払い。
「……さて、嬢ちゃんの話を聞く限り、本格的に妖怪の香りがプンプンとしてきやした」
「幸運を呼ぶおまじないの書紋と、それを書く占い師……。どっちも、裏で『現代堂』が関わってるっぽい……んだよね?」
「恐らくは、という話でやすがね。それで今日、坊ちゃんと別行動を取る事になったわては、その足であのスズメ……お千代と一緒に、街の調査に繰り出したんでさ」
「あ、お千代も外に出る事になったんだ?」
「へぇ。何分、人手がいる事態でありやすから。それにご当主様直々に『今は儂より九十九の手伝いを優先しなさい』とお達しが出やしてね。……それで、結果で御座いやすが」
イナリは大きく、それはもう大きく溜め息をついた。
その吐息に込められているのは、途方も無い疲労感だろうか。
「何も無し。この街のどこにも、おかしな点はありやせんでした」
「そんな……!? でも私は……」
「……いや、待って。それって……言葉通りの意味?」
「いいえ。おかしくなさ過ぎるのがおかしい。そう言うべきでしょうや」
ちっちゃな前足を舐め、手早く毛づくろいをしながら。
人間臭い動きで頬杖をついたイナリの表情は、困った風に歪んだ険しいものだった。
「いいでやすか? そもそも妖気ってのは、地中から吹き出すものなんでさ。この国の土地には『地脈』という気の流れがあって、その流れと巡りを調整する事で、人間も妖怪も自分たちの住処を整えてるんでありやす」
「それは、前に爺ちゃんからも聞いたけど……今回の場合、どう関わってくるの?」
「要するに、地脈の流れが綺麗過ぎるんでさ。本来あって然るべき淀みも、さっき言ったガキツキの発生源になるような吹き溜まりも、何もかも綺麗サーッパリ。明らかに、人為的なものとしか考えられやせん」
「でも……じゃあさっき、白衣さんたちを襲ったガキツキは……」
それは何ともおかしいなと、首を傾げる九十九。
その横で、彼に寄り添われる形で座る姫華がふと声を上げた。
「……ねぇ、イナリさん。その気の流れ、って……そう簡単に変えられるようなものなの?」
「言うなれば、部屋の模様替えの規模を遥かに大きくしたようなものでありやすからねぇ……。1回や2回の妖術で、そう簡単に変えられるなら苦労はしやせん」
「なら……たくさんの人が、ちょっとずつ協力したら?」
「それこそ、時の権力者が散々試そうとしたもんでさ。そりゃあ、この街だけに限定すれば可能で御座いやしょうけど……問題は数でありやすね。奴ばらの『げえむ』とやらは、1回につき1体の妖怪のみが参加できると聞きやす。それをどうやって……」
「……書紋」
九十九とイナリは、まったく同時に姫華を見やった。
姫華も同様に、2人をじっと見つめ返す。
3人の視線が中空で交差して、それぞれの認識が合致した事を言外に示していた。
「あの書紋が、こないだ私たちを襲ったネコの妖怪みたいな悪い妖怪の仕業だとして……アレの1つ1つが、その地脈? っていうのに干渉している……みたいな?」
「それは……いえ、あり得なくもないでやすね。その印1つだけなら、この街に流れる妖気に大した干渉はできやせん。……でも今、この街には」
「たくさんの女の人が、幸運のおまじないを書いてもらってる……よね。白衣さんの友達も、書いてもらったって言ってた。もしも……あの書紋の全てに、地脈の流れを変える妖術が仕込まれていたとしたら……」
誰もが、黙りこくった。
偶然で終わらせるには、あまりにも推測が立てやすく。
必然と結論づけるには、あまりにも状況証拠ばかりで。
それでも、仮に。
この仮説が、本当だったとするならば。
「……何が、起きると思う?」
「まぁ……何をどう解釈しても、奴ばらにとって都合の良い事でしょうや」
やおらに、イナリが九十九の頭上から飛び降りる。
しゃなりと着地した彼の臀部では、モコモコフワフワの尻尾がピンと立っていた。
「お千代はどこ? 街に出てるんだよね?」
「街中を探ってやす。合流は容易いでやしょうが……」
「これ、僕らも動いた方が……いい、よね。多分、放置し過ぎると不味いって言うか……むしろ既に、僕らは後手に回ってる感じがする」
目に見えない、しかし確実に迫る深刻な事態を予感して、少年の喉が鳴る。
思考の海に沈もうとする彼を見て、姫華は不安げに身を震わせ……そこで、気付いた。
「ねぇ……私は、どうしたらいいの?」
「……え?」
「今の流れで言うのもなんだけど……。やっぱり、イナリさんに記憶を消してもらって、それで……何事もなく家に帰った方が、いいの……かな?」
少女の透き通った目が、困惑で淡く揺れる。
その眼差しを正面からぶつけられて、九十九は微かに迷った。
普通に考えれば、彼女の言う通りの事をすればいいだろう。
けれども、姫華は既に2度も妖怪関連の騒ぎに巻き込まれ、2度も命の危機に直面していた。
勿論、九十九は何度だって彼女の助けを呼ぶ声に応え、その度に助ける所存だ。
しかしそれは、助ける度に彼女から助けられた記憶を……妖怪を目の当たりにした記憶を消すという事を意味している。
正直なところ……姫華の身の上話を聞いた今、その決断をするのはどうにも難しいというのが本音だった。
「……どうしよ、イナリ。どうしたらいい?」
「と言われやしてもねぇ……。正直、妖怪とかいうバケモンに襲われた記憶なんて、あっても得するような事は……?」
ピクリ。
震えたのはイナリの耳でも尻尾でもなく、鼻先だった。
何かを感じ取った彼は怪訝な表情を浮かべて、てこてこと姫華に近付いた。
一体何がと訝しむ彼女を他所に、イナリの鼻先が上下に震え出す。
その行為が……姫華の匂いを嗅いでいるのだと少年少女が認識するまでに、十数秒ほどを要した。
九十九は見るからに当惑を隠せず、姫華も顔を薄く赤らめる。
「イ……イナリ、さん? な、なんで、私の匂いを……」
「ちょっと、イナリ……? そういうのは、流石にデリカシーとか……」
「別にやましい意図は何もありやせんよ。ただ……あー……こいつぁ、成る程……」
一通り匂いを嗅ぎ終えたのか、イナリの口から溜め息が漏れ出した。
溜め息をつきたいのはこっちだ。そんな意図の込められた視線を2人の若者たちからぶつけられて、ちっちゃなキツネは「ヘッ」と鼻で笑う。
「まったく、犬猫が匂いを嗅ぐのと何が違うんだか……というのは、一旦置いておきやしょう。しかしこりゃまた、難儀な生まれだ事……。流石のわても予想外でさ」
「だから……何が? 白衣さんの……その、匂いを嗅いで……何が分かったの?」
「へぇ。嬢ちゃんの体から、ほんの微かですが妖気の香りがしやした。妖怪に襲われた時にこびり付いたでもなく、嬢ちゃん自身が発したものでさ」
「……へっ?」
姫華の目が丸まる。九十九も、その言葉の意味を理解できずにいるようだ。
そのリアクションは予想していたようで、イナリは今1度、ハッキリと口にした。
「白衣の嬢ちゃん。お前さんには、呪い師の素質がありやす。それはわてら妖怪と同様、妖気を操り力とする才能で御座いやす」
今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。




