其の参拾壱 姫華という少女
「……それで、白衣の嬢ちゃんの記憶がまた蘇ってしまったと」
「うん……ごめんね? 僕が2度も、似たシチュエーションで助けちゃったからかも……」
「いえ、そのような事は。普通に考えれば、わての術の効きが甘かったからで御座いやしょう。人を助けたいと思えた善性を、他ならぬ坊ちゃんが気に病む必要はありやせん」
遠くへ去っていく救急車のサイレンが響く中、九十九とイナリは近くの路地裏でそう言葉を交わした。
あの後、事態を察知したイナリが駆けつけた事で、妖怪に肩を噛まれた女性の認識を上手く“ごまかす”事に成功。
直後に通報を受けてやってきた警察には「発見した時には、肩から血を流して倒れていた」と説明し、簡単な事情聴取を受けたのちに解放された。
そうして女性が救急搬送されていった後、九十九とイナリ、そして姫華はひと気の無い適当な路地裏で話し合う事になった。
無論、互いに聞きたい事や確認したい事があり、何より姫華自身がこのまま記憶を消されて終わる事を嫌がったのも大きいだろう。
「ごめんなさい……何度も何度も、あなたたちに迷惑をかける事になっちゃって」
「……何も、迷惑とは思ってないよ。これから何回同じ事が起きたとしても……僕は、その度に君を助けると思うから」
「そうそう。女子を助けるは日本男児の誉れってもんでさ。むしろ、ドーンと胸を張って笑ってもらえた方が助けた甲斐もありやしょう」
「そう……かな。それなら、うん。本当にありがとうね」
あどけない、純白の花の如き無垢な笑顔。
その可憐さを真っ正面から向けられて、健全な男子高校生たる九十九の胸もドキリと高鳴ってしまう。
頬を少しばかり赤くして顔を逸らした彼を、イナリは「“うぶ”でありやすなぁ。もちっと抱き締めるとかすれば……」と揶揄してペチンと頭を叩かれた。
自分たちの軽いじゃれ合いを姫華が微笑みながら見ている事に気付き、九十九は小さく咳払い。
「……それで、あの妖怪はなんなの? 前に戦った2体と比べると……随分、弱かったけど」
「ふぅむ。その場を直接見た訳では無いので推測になりやすが……恐らく、坊ちゃんと嬢ちゃんが見た妖怪はガキツキで御座いやしょう」
「餓鬼憑き……? それって、どんな妖怪?」
「へぇ。厳密には、九十九神の成り損ないとでも言いやしょうか。妖気を溜め込み、妖怪に変化する機会がありながら、不完全な変化しか果たせなかった者どもの事でさ」
ちっちゃな前脚を組んで、イナリは眉間に皺を寄せながら解説し始める。
彼の説明が始まると同時に、九十九と姫華は示し合わせた訳でもなく寄り集まった。
「妖気をまともに練り上げる事もできず、妖術も発現しない。それどころか、核となった道具の存在を保証する事もできない。ただ『ガキツキ』の名を冠するだけの……ま、言うなれば『道具の幽霊』みたいなもんでありやしょう」
「元になった道具が完全に死ぬ……だから、あんなに弱かったんだ」
「わてら妖怪は、道具に命が宿って神と成りし九十九神。元の前世を疎かにしちゃあ、三下未満の形無しってもんでさ。おまけに、妖気が溜まりやすい場所ってのは大体、奴ばらの土壌となり得る道具が捨てられている事も多い。まったく、厄介な連中でありやすよ」
ケッ、と吐き捨てる。
彼の忌々し気な様子を見るに、イナリたちもガキツキの絡んだ事件や騒動に悩まされた過去があるのかもしれない。
見るからに理性の無いクリーチャーのような存在だった為、恐らく和解や鎮静化は不可能だったのだろう。
「ガキツキ……。それが、私とあの女の人を襲った……妖怪、なんだね」
「……白衣さんは、どうしてガキツキに襲われてたの?」
「えっと……その、私にもよく分かってないんだけど……私より前に襲われてた女の人の前で、口紅があの妖怪になったの。多分……あの女の人が持ってたものだと思う」
「それは……ちぃと、妙な話で御座いやすね。口紅などという消耗品に、妖怪に成れるだけの妖気が蓄積されるとはとても思えやせん」
「と、言われても……あの時、私が見たのは……」
口許を抑え、先ほどまでの光景を落ち着いて思い返す。
あの凄惨な一部始終を思い出すのはそれなりに苦しかったが、助けてくれた人が側にいるなら怖くない。
ゆっくり、ゆっくり思い出して……そして、ふと気付いた事がある。
口紅を包み込む紫色の光、その最中に……光そのものとは違う発光源があった筈だ。
そう、あれは確か……
「……書紋。あの口紅に、幸運の書紋が書いてあったわ」
「それ……本当? 書紋、って……あの、占い師に書いてもらうって噂のアレだよね」
「うん、それで合ってると思うわ。確証は無いけど……でも、口紅に書かれた図形みたいなのが紫色に発光して……それから、妖怪になったん、だと……思う、んだけど……」
己の記憶と推測に自信を持てず、姫華の口調が段々としどろもどろになっていく。
もしも見間違いだったら、勘違いだったらどうしよう。
点と点を結びつけたいという、自分の中の勝手な願望が反映されたまやかしの記憶かもしれない。
そもそも、こんなあやふや極まりない証言を、ちゃんと信じてくれるとも限らない。
姫華は、頬を伝う冷たい汗の感触を覚えた。
「ご、ごめん! もしかしたら見間違いかもしれないからっ、そんなに信用しないでもらえると──」
「信じるよ」
チャチな言い訳を断じるかの如く、九十九はキッパリと言い切った。
そのあまりに即断過ぎる一言に、姫華はおろかイナリでさえポカンと口を開く。
「え、っと……信じて、くれるの? こんな、何の証拠も無い……あやふやな話を」
「うん。勿論、結論を出すのはちゃんと調べてからになるだろうけど……でも」
知った風に諭すでも、格好つけた訳でも、したり顔で口説くでもなく。
いたって自然に、それが当たり前の事であるかのように。
「白衣さんは……こういう事で、嘘をつく人じゃない。付き合いは短いけど……それでも、僕はその事を知ってるから」
眠たそうで、ダウナー染みた雰囲気で、どことなく陰気な眼差し。
それでも、確かな真剣さを宿した九十九の視線は、ブレる事なく真っ直ぐに姫華を見ていた。
「……っ!!」
その真っ黒い目が、姫華の心に深々と突き刺さった。
思わず口を両手で抑え、今どんな表情をしているのかを必死になって彼らからひた隠す。
そんな感情の暴走を察し取ってか、彼女の心を揺り動かした当の本人は、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「だ……だいじょう、ぶ? えっと、しんどいなら今は何も……」
「ううん……大丈夫。きっと、大丈夫だから……大丈夫……」
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
何度も何度も、しつこいくらいに深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着きを取り戻した姫華。
九十九とイナリの不安げな視線が集中する中で、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……ねぇ、八咫村くん、イナリさん」
「うん?」
「……今の話とはまったく関係が無くて……ただ、私が私の身の上話を聞いてもらいたいだけなんだけど……。それでも、聞いてくれる?」
「うん。それが、白衣さんの望む事なら。ね? イナリ」
「へぇ。そこで口を挟むような野暮は、粋な江戸っ子のする事じゃねぇでさ」
「……ありがとう」
すぅ……と、小さく息を吸う。
そうやって気を整えている内に、路地裏を静けさが支配する。
だから、どんなにか細く弱々しい声色だったとしても、2人は彼女の言葉を確かに聞き取る事ができた。
「……私、ね。昔……妖怪に、命を救われた事があったんだ」
「それ、って……いつの事?」
「小学1年生の夏休み。今でも思い出せるわ。遊びに出かけた先の海で、溺れて死にそうになった時……腰から下が魚になった女の人に、助けてもらったの」
その話を聞いて、九十九はイナリを見やる。
視線を受けた彼は、ちっちゃな前足を組んだままに小さく唸った。
「今の話が本当なら、恐らくどこぞの人魚か磯撫か……いずれにしても魚の妖怪で御座いやしょう。とはいえ正直、わてらも『現代堂』の者どもも、戦いの場は陸地がほとんどでやしてな。海の妖怪については……申し訳ありやせんが、あまり詳しくないんでさ」
「ううん、いいの。そういう妖怪が実際にいるって事も知れたし。……それで、溺れてた私を助けてくれたその人は、自分が妖怪という存在だって教えてくれて……大人たちに見つけてもらうまで、ずっと私の側にいてくれたの」
胸の前で手を組み、祈るようにしてその時の情景を思い出す。
当時の幼い姫華にとって、それは夢のような……目の眩むほど綺麗なひと時だったのだろう。
「……でも、その事を周りに話したら、皆から嫌になるほど笑われたの」
……故に、その顔は自然と陰る。
その時の光景が夢のように綺麗だったからこそ、その後に来る景色が暗く鬱々としたものに見えるのだ。
「誰も信じてくれなかった。混濁する意識の中で見た幻だって、そう言ってくれる人はまだ善かった。でも、私の事を嘘つきだって……デタラメだらけの大法螺吹きだって、同級生たちはそう言って笑って私を馬鹿にした。イジメられた事もあったっけ」
彼女の語りに、九十九も無意識に顔を曇らせた。
あまり、聞いていて居心地の良い話ではないのもそうだが……何より、そういった他者からの悪意は、彼もまた好きではないのだ。
「……辛いなら、その先は……」
「ううん……平気。あいつらの言う事だって、ある意味当たり前の事だもの。……妖怪なんて、常識的に考えている筈が無い。科学的にあり得ない。私に、それを覆せるだけの証拠を出す事ができない以上……間違ってるのは、私の方だったから」
そうして、姫華は制服の内側に手を差し込んだ。
ゴソゴソと内ポケットの中を探り……1枚の手鏡を取り出す。
その手鏡を目の当たりにして、イナリが目を丸くした。
「ほう……手鏡で御座いやすか。随分と、大切に使われているようでありやすね」
「……そういうの、分かるの?」
「へぇ。生まれも作りも用途も違えど、同じ人に使われる道具で御座いやすからね。……とても長い間、決して粗末にされる事なく、大事に大事に使われている。それが、見ただけでありありと分かりやす」
「……そっか」
そこで漸く、どこか儚げだった姫華の口許が柔らかく綻んだ。
手鏡の事を褒められて、心の底から嬉しさを覚えているのが、傍目から見てもよく分かるのだ。
故に九十九も、心地良さそうな表情を浮かべて鏡を見た。
持ち手に彫り込まれた造形や、裏面の装飾に施されたデザインは、随分と古い……それこそ昭和初期を思わせるレトロ調のもの。
当時は色鮮やかだったろうが、今はそれなりに色褪せている。尤も、それで手鏡の魅力が欠ける事はなく、むしろより美しく映えていた。
そして何よりも、鏡面。
ピカピカに磨き上げられたそれには、ほんの少しも曇りが見えない。
よほど大切に扱われ、大事に手入れを繰り返されてきただろう事が伺える。
「……とても、いい鏡だね。素人の僕でも、よく分かる」
「ふふ、ありがと。これはね、亡くなったお婆ちゃんの形見なんだ。私が人魚に……妖怪に助けてもらったって話を、唯一信じてくれた人。私が中学校に上がる前に天寿を全うしたんだけど……その直前に、私にプレゼントしてくれたの」
鏡面にじっと目を凝らす。
曇り1つ無いほどに磨かれた鏡には、持ち主である姫華の表情がクッキリと映し出されていた。
それが嬉しくて、姫華はこの手鏡をもらった時からずっと手入れを欠かした事は無い。
「お婆ちゃん、言ってた。道具を大切に、大切に使い続けると、いつか道具に神様が宿るって。もしもぞんざいに扱うと、悪い神様が宿って、持ち主にイタズラをしちゃう。だから道具は大切に扱って、良い神様を宿らせなさい……って」
「……ほう? 嬢ちゃんの御祖母様は、妖怪について知っていたのでありやしょうか。それは実際、理に適っている言葉でさ」
イナリが漏らした感嘆に、九十九は緩く首を傾げた。
「そうなの? ……そういえば、イナリたちみたいな良い妖怪と、『現代堂』の悪い妖怪の違いって何なの?」
「へぇ。と言っても、妖怪に善悪はありやせん。あるとするならば、元になった道具の使い手の良し悪しでさ。大切に使われた道具が成る九十九神は、穏やかな妖怪に。乱雑に扱われた道具が成る九十九神は、イタズラ好きの……場合によっては、人を害する妖怪に」
ピコピコと、ちっちゃなキツネの耳が揺れる。
今の彼の言葉に当て嵌めるならば、イナリの元になった急須やお千代の元になった巾着は、とても大事に使われた道具なのだろう。
反対に、『現代堂』の道具たちは非っぽく扱われたり、或いは捨てられたりした結果……人間を直接的に害するような存在になった。
無論、これは九十九の推測に過ぎないのだろうが……それでも、そう的外れな考察では無い筈だ。
使い手が善であれば、善良に。使い手が悪であれば、悪逆に。
さながら、今まさに姫華が手にしている鏡のような存在。それが、妖怪なのだろう。
「妖気が映し出すのは、人の想い。道具に宿る妖気は、人の感情を色濃く反映しやす。もしも嬢ちゃんの手鏡が妖怪に成るとすれば……それはきっと、嬢ちゃんに似て優しい妖怪になるでしょうや」
「そう、なんだ。……私がちゃんと、大切に使い続ければ、この子もいつか……いつか……」
ポタリ、ポタリ、と。
綺麗な手鏡に、数滴の水滴が落ちる。傾けられた鏡面から、水滴がすぅ……と流れ落ちていく。
例え空を見上げたとしても、現在の天気は晴れ。雲も少なく、雨が降る兆しは無い。
ならば何故? そんな事、姫華自身が一番よく分かっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私、妖怪がちゃんといたって事……最後まで信じ切れなかった……! 皆に笑われて、皆から馬鹿にされてイジメられて……いつの間にか私も、妖怪を否定する側に回っちゃってた……!」
九十九に助けられた時、あれほど流した筈の涙が、またも止めどなく溢れ出している。
それでも、この涙の奔流を止める事はできない。止められる気も、止める気もしなかった。
「お婆ちゃんだけは、お婆ちゃんだけは信じてくれたのに……! だから、この手鏡をくれたのに……! 私っ、私……なんで、妖怪なんていない、って……妖怪にいてほしくない、って……思っちゃったんだろう……!?」
「……白衣、さん……」
「ごめんなさい……! ごめんなさい、お婆ちゃん……! ごめんなさい……あの時、私の命を救ってくれた妖怪さん……!」
甲高い慟哭が、3人だけの路地裏に木霊する。
自分が見た光景を信じ切れず、いつしか否定するようになった後悔と懺悔。
その哀しみが、姫華に涙を枯らす事を許さなかった。
今の姫華にできるのは、ただ泣き喚きながら涙を流す事のみ。
今の九十九にできるのは……そんな彼女の背中を、優しくさすってやる事のみ。
「……大丈夫、大丈夫だから」
それが気休めにしかならないとしても、九十九は手を止める事だけはしなかった。




