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其の参拾 取り戻した記憶

「え……ぁ」

「エヒヒヒヒヒッ。ミィ、タァ、ナァァァァァア?」


 今しがた襲った女性からはもう興味が失せたのか、妖怪は出血を抑える事もできずに錯乱する彼女を乱雑に蹴飛ばした。

 その折に発せられた悲鳴すら無視して、1歩、また1歩と、枯れ木のように細く貧相な足が姫華に近付いてくる。


「い、や……嫌っ、来ないで……来ないでっ……!」

「エヒヒヒヒヒッ……オモシロイ」


 ゾクリと、身の毛がよだつ。


「オモシロイ! モット、モット、ヒメイ、キキタイ! モット、クルシミ、イタミ、キキタイ! オモシロイ! エヒヒヒヒヒヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」


 痩せ細った土気色の肌からは想像できないほどの脚力と瞬発力で、妖怪が姫華に飛びかかる。

 裂けた口が大きく開かれて、刃毀れだらけの牙にこびり付いた血と肉が、見る者の戦慄と恐れを駆り立てる。


「きゃあっ!?」

「エヒヒッ♪」


 ブチリ。

 咄嗟に身を屈めた姫華の動きについてこれず、頭上をはためいた白銀の長髪。

 その先端が、彼女の喉笛を食い千切ろうとして避けられた代わりと言わんばかりに引き裂かれた。


 勢いあまって転がった彼女が見たのは、自分の銀がかった白髪が、おぞましい怪物の口の中にある光景。

 例え噛み千切られたのが先端の少しだけだったとしても、チャグチャグと咀嚼されるそれが自分の末路のように見えて仕方が無い。


「オイシイ! オイシイ! コレ、()()()ノ、アジ! エヒャヒャッ! コレ、()()()()ノ、アジ! オイシイ! オレ、モット、クウ!」

「何を……言ってるの? わっ、私におまじない、って……」

()()()()()()()ノ、イキギモ、クウ! ヨウカイ、ツヨクナル! ダカラ、オレ、オマエ、クウ! エヒャヒャヒャヒャヒヒヒヒヒヒヒッ!」


 何を言っているのか、まったく意味が分からない。

 それでも、目の前の怪物が自分の事を狙っていて、その結果として自分が死ぬだろう事は理解できる。

 その事にハッキリと思い至ったからこそ、姫華は恐ろしさでガチガチと歯を鳴らす。


「来ないで……お願いだから、来ないで! あっち行ってっ!」

「エヒヒヒヒヒヒッ! タノシイ! オモシロイ! ニンゲンノ、ヒメイ、オモシロイ! ニンゲンノ、キョウフ、タノシイ!」

「なんで……なん、でなの……!? どうして、()()こんな目、に……!?」


 言葉が、喉で詰まる。


(“また”……?)


 まるで、以前にも同じような事態に遭遇したかのような。

 でも、そのような記憶は姫華の中に1つとして存在しない。

 こんな恐ろしい、現実的にあり得ないような出来事の当事者となった記憶など、自分はただの1度も──



『もし「助けて」って声が聞こえたら……できる範囲で、どうにかするから』


『もう『おにごっこ』はおしまいみたいだし、その使い物にならなくなった足からバリバリ貪ってやるんだよなァ』


『ひっ、姫華ぁっ! お前が、おっ、囮になれっ! 俺が逃げる時間を稼げっ!』


『助けて……■■■くんっ……!』


『──助けるよ、絶対』



 ……そんな記憶が、ただの1度も無いのならば。

 この、脳裏を(よぎ)る朧げで不明瞭な光景の数々は。


(なんの、記憶だっけ……?)


 突然湧き出した違和感に、思考が淀む。

 鈍った意識のせいで立ち上がるタイミングを失った姫華は、妖怪の下卑た声で漸く我に返った。


「エヒャヒャヒャヒャヒャッ! イタダキマァースッ!」

「あ、ひっ──!?」


 眼前に刻一刻と迫る死の牙。

 自分の喉を引き裂き殺さんとする妖怪への畏れが、姫華の声を上擦らせた。


 それでも、叫ばずにはいられない。

 例え無駄な足掻きだったとしても、その「叫び」を肯定してくれる誰かが確かにいた筈だから。

 だから、舌に纏わりつく恐怖を押し退けて、喉の底から力を振り絞って。


「誰か、助けて──っ!」











「何度でも……何度だって、助ける!」


 何かが燃えるような音の後、派手な衝突音が轟いた。


「エヒャアヒェッ!?」


 今まさに姫華を殺そうとしていた妖怪が、横合いから吹っ飛んできた何者かに蹴り飛ばされる。

 足の裏に炎を纏った蹴撃は、妖怪の顎を盛大に砕き、その傷を焼きながら更なる衝撃と痛打を与えた。


 爆発音にも似た衝突音と共に、レンガの壁に叩きつけられる謎の怪物。

 焼け焦げたフードの奥から苦悶の声を上げ、へし折れた牙の隙間から吐血しながらゆるりと立ち上がる。

 その振る舞いに、先ほどまでの愉悦と加虐性は一切見受けられない。何が起きたのか理解できない動揺のみが、そこにあった。


「ア゛、ガッ……!? ナ……ニ゛ガ……オ゛ギ、ダ……!?」

「あっ……しまった。今、銃持ってないんだった……!? アレが無いと、上手く攻撃のイメージが──」

「ゴォ、タエロ゛ォォォォォオッ!」


 砕けた顎をガクガクと揺らしながら、妖怪が攻撃を仕掛ける。

 グシャリと潰れた口内に血反吐を含んだまま、悲惨な有様の牙でなお敵を噛み砕こうと地面を蹴る。

 猟犬めいた動きで飛びかかってきた妖怪に対して、乱入者は──


「えっと、えーっと……ええい、こうだ!」


──ボォワッ!


 右手に妖気を込めて、思いっきり横に薙ぐ。

 腕から吹き出し、射出された真っ赤な炎は、自分から飛び込んできた哀れな獲物をそのまま丸ごと呑み込んだ。


「ギャアァアアァアァアアァァァアアアァァアァアァァアァアアア!?!?」


 乱入者と姫華の脇をすり抜けて、路面に転がり落ちる。

 身に纏っていた襤褸切れが発火するや否や、瞬きするよりも早く全身を炎上させた。

 放たれたのはただの炎ではない。妖気を帯びた炎は、妖怪に痛痒を──致命打を与え得る太陽の力を宿していた。


 全身火達磨になりながらもなお、妖怪は苦しみ悶えて起き上がる。

 炎の向こう側から見える鈍い眼光が、乱入者への怒りと憎悪を弱々しく発現させていた。

 口を開けば、入り込んだ炎が喉を焼く。そんな当たり前の痛みを押して、声を荒らげようとする。


「オ……オ゛ノレ゛ェェェ……! ヨグ、モ゛──」

「即席……妖術」


 ピッ、と。

 乱入者の右人差し指が、妖怪に向けられた。

 それもただ人差し指を伸ばすのではなく、中指から小指を折り畳み、親指は立てる──所謂「銃」のジェスチャーを取って。


 銃に見立てられた指先に、小さな炎が灯って球体を形作る。

 それが妖気を編み上げて形成された、妖術の炎である事など最早説明するまでもなく。


「《黒点》!」


 発声と共に撃ち放たれた小さな火球は、そのまま真っ直ぐ、そして銃弾にも等しい速度で宙を駆けた。

 体中が炎上する苦痛で動きが鈍っている妖怪に、その一撃を避ける術など無い。


「エ、ギュッ──!?」


 額に、小さく黒い穴が開く。

 脳をズタズタに焼き壊された妖怪は、その身を燃え上がらせたまま仰向けに事切れた。


 力尽きた名も無き異形の肉体を、炎が完全に包み込む。

 やがて炎が消失する頃には、焦げた路面の上にこれまた焦げ果てた口紅の残骸が残っているのみ。


 姫華は、肩で息をしながら一連の光景を見ていた。

 気を失ったらしい女性を何とかしないと、とか、そもそもあの妖怪は何故生まれたのか、とか、疑問も言いたい事も山のようにあった。


 でも……今はただ、目の前に立つ黒マフラーの少年しか視界に入らない。


「うん……ぶっつけだったけど上手くいってよかった。手を銃に見立てたのもそうだったけど……多分、技に名前をつける事でイメージが固まったのかな……?」

「あ……あのっ」

「……あ、ごめん。少し気が逸れてた。えっと、悪いんだけど暫くここにいてもらえないかな……? あの女の人も酷い怪我だから救急車を呼ばなくちゃだし、ちょっと知り合いに連絡も取らないと……」

「知り合い、って……あのキツネさん? また、私の記憶を消しちゃうの……?」


 少年の動きが完璧に固まった。

 表情も何もかも、凍った像のようにカッチリと。


 そのリアクションに、我ながらあんまりなぶっ込み方だったかも……と自戒する姫華。

 しかし、その上でも彼女は自分の舌を止める術を持たなかった。


 だって、キッチリハッキリ明確かつ明快に思い出してしまったから。


「いや、その……記憶を消した方がいいっていうのは、分かってるんだけどね? こないだもちゃんと説明してもらったし……けれど、その。道人の時を含めれば3回も助けてもらったのに、その記憶をまた忘れちゃうのは……」

「ちょ、ちょっと待って!? え、と……正直、また妖怪に襲われてたって事も結構驚いてるんだけど……そ、それよりも前に」


 ガシリと、少年が姫華の両肩を掴んだ。

 彼の顔はノイズが走っているかの如く鮮明には認識できないが……それでも、心の内から湧き出す確信が認識の齟齬を補填する。


 間違いない。彼だ。

 確かな結論を胸に抱く彼女へと、少年は問いを投げかける。


「あの時の事、覚えてるの? ……白衣さん」

「……やっぱり、八咫村くんなんだね。正確には、ついさっき思い出したんだけど……うん、全部覚えてるよ」


 もう、その問いが答えみたいなものでしょう。

 そう言いたい気持ちをグッと堪え、自分の肩を掴む黒マフラーの少年──八咫村 九十九に対して、儚げに笑いかける。


「ありがとう、何度も私を助けてくれて。そして……今回の事で、ハッキリ分かった」


 ふつふつと沸き立つ感情を抑え切る事ができず。

 姫華は、両の瞳から大粒を零しながら言い連ねた。


「妖怪って……本当に、いたんだね。私は……私はっ! 嘘つきじゃなかったんだ!」


 感情が、決壊する。

 少女の泣き声は、ただただ夕焼けの空に響き渡っていった。

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