花が咲けば君は
52作目です。冬なのに夏のお話第一弾です。
永遠なんてものがないことはずっと昔からわかっているんだけれど、どうしても信じてしまう。信じていれば可能性があって、信じることを止めた時に永遠の可能性は消える。それこそ永遠に。
花火が綺麗なのは儚いからだと、誰かが言った。
確かに花紺青に染められた朧気な夜に一瞬で咲いて、一瞬で散ってしまう花火ほどに儚いものはない。花火が永遠だったとしたら、それは果たして美しいのだろうか。
芸術は一瞬の輝き、その瞬間のひとつひとつこそが美しいとする人がいて、芸術は作り手が死んだ後も残るからこそ美しいとする人もいる。そんなことを美術の授業で言われたような気がする。
でも、そんな気がするだけで、もしかしたら、微睡みの忍び寄る五時限目に見た、少しばかり鮮明な夢だったのかもしれない。
どちらにせよ、瞬間こそが美しいと思う。
そんなことを考えながら坂道を自転車で下っている。丘の上の団地から下の学校まで行くのには、この坂道を通る必要がある。殆ど毎日通っている道だけれど、いつもいつも風の気持ちになってしまう。
とりわけ、今日の空はあまりにも遠く透いていて、浮かぶ雲さえも不思議なほどに高い。気温で言えば真夏日だけれど、風になっていれば苦ではないどころか、太陽の暑さと風の冷たさが絶妙に交ざり合って、何とも言い難い心地好さがあった。
この心地好い時間はあっという間に過ぎていく。何事も幸福は短いと遥か昔から決まっているのだと知っている。幸福の短さと価値を知っているから生きるのに精一杯になっている。
坂を下ってすぐの信号が赤だったので止まった。車の往来は少なく、信号を無視する人も多い。けれど、止まっておくに越したことはない。危険というのは明らかに油断している時ばかりを狙ってくるものであるからだ。ルールとかではなくて、あくまでも自己のためだ。
信号が青になる。
ゆっくりと自転車のペダルを踏む足に力を入れる。もう風の加護はないけれど、学校までは三分ほどなので気にはならない。
平地で自転車を漕ぐと世界が平面に見えるのはどうしてだろう。
そんなことを考えながら、屋根が崩れそうな駐輪場に自転車を停めた。閑散として隙間だらけの駐輪場で携帯電話を開き、メールを見た。
今夜の夏祭りについてのメールだった。
どうせ学校で会うのに、そう思いながら適当にメールを返信し、携帯電話を鞄に仕舞って昇降口へと歩いた。入口付近の花壇にはマリーゴールドがこれでもかと植えられていて、どれも見事に咲いていた。ちゃんと植えた誰かの期待に応えていることに感心した。
靴を脱いだけれど、面倒だったので下駄箱の上に置いた。本来なら注意されることなのだろうが、今は夏休みで、そんなことを注意する大人はいない。上履きの代わりに家から持ってきたスリッパを履いて、三階にある二年生の教室へと向かった。
校内は静寂に満たされていると思ったが、三階に近付くにつれて笑い声が聞こえてきた。その中のひとつはメールをくれた友人のものだとわかった。時間を見ると集合時刻から二分ほど過ぎていた。
滑りが悪い教室のドアを開けると、甲高い声で「遅刻だよ」と言われた。そして、こちらに寄ってきて、私は頬を摘ままれた。
彼女は校則違反のピアスを見せつけるかのように付けていた。髪も少し染めたのかもしれない。探せば色々と出てきそうだが、探すのは止めた。探したところで何をするわけでもないからだ。
「ごめんなさいは?」
彼女が言った。
「ごめんなさい」
そう答えた。すると、彼女は頬から手を離した。
「先生は?」
「まだ来てないよ。遅刻だ遅刻」
「ふぅん」
教室を見回すと男子が三人、女子がふたりいた。この学校では、夏休みの登校日はクラス毎に分担し、そこからまた数人ずつに分ける。全校人数がさほど多くないから、こういうシステムにしているのだろう。
「おーい、みんないるかぁ?」
急に先生が入ってきた。
「一応、出席を取るぞ。宇垣」
「はい」
背の高い男子が返事をする。
「篠内」
「はい」
眼鏡を掛けた男子が返事をする。
「真午」
「はい」
髪の少し長い男子が返事をする。
「次は女子な。相里」
「はい」
さっきのピアスの女子が返事をする。
「大弓」
「はい」
読書をしていた女子が返事をする。
「七水」
「……はい」
私が返事をする。
「よし全員いるな。それじゃあ、今日やることを伝えるからよく聞いとけよ。まず、ふたりずつ分かれて簡単な清掃作業をしてもらう。組み合わせは、男女出席番号順、宇垣と相里、篠内と大弓、真午と七水で組んでくれ。清掃場所は順に、中庭、下駄箱、教室だ。掃除が終わったらそのまま帰っていいからな」
先生はそう言うと教室から出て行った。あくまで登校するのが目的であり、清掃はついででしかない。まず、篠内と大弓が下駄箱に向かうために教室から消えた。
「ウチらも行ってくるね」
「うん」
「素っ気ない」
「え?」
相里はそう言うと、また私の頬を摘まんでから教室を出た。騒がしい音が遠退いて、教室の残ったのは非人工的なざわめきだけだった。
全開の窓から入ってくるざわめき。
風に木々が揺れる音。
蝉が命を燃やす音。
「教室の掃除って何すればいいの?」
私は訊ねた。
「取り敢えず、床を掃けばいいんじゃないかな」
真午はそう答えた。
「そうしようか」
私は教室の隅で静かに佇む掃除用具入れから手頃な長さの箒を二本取り出し、片方を真午に渡した。
教室を見回せば、ふたり以外には誰もいないし、ふたりの荷物以外には、空虚に同じ方向を向いた机が並ぶばかりだ。この空洞に響く音は、箒が床と接触する音だ。
私は真午の方を何度も見た。
彼は真面目に箒を掃いていた。
真午というクラスメートについて、私はよく知らない。そもそも、「知っている」とはどの辺りから言うのか曖昧だが、何しろ話したことすらろくにないようなレベルで知らない。
外見について言えば、さっきも言ったように髪が長めである。顔はどちらかと言えば女性的で、背も私より変わらない、つまり、推定でも百六十センチはないので、服装が服装なら、或いは彼を初めて見たのなら、女子だと勘違いしてしまうかもしれない。
声については今日初めて聞いたような気がするが、何とも柔らかな、季節で言えば初夏の新緑のような声だった。
私は箒を左右に揺らし、掃除をしている振りをするだけで、視線は繋がりの薄いクラスメートに向けていた。
「ねぇ」
私がそう声を出すと、真午は視線を床から私に変えた。
「君のこと教えてよ」
「え?」
「君のこと」
「いいけど……」
真午は唐突な展開に少し動揺していた。
「大学は行くつもりなの?」
「あまり考えてないんだ」
「そうなの?」
「お金だって掛かるだろうし、それに……」
「それに?」
「やりたいことが見つからないから……」
彼は何故か申し訳なさそうに答えた。
「私もやりたいことなんて見つからないよ」
真午が私を見た。
「でも、やりたいことなんて生きてれば勝手に出てくるものだと思ってるから、そんなに気にすることでもないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
真午は顔を縦に何度か動かした。彼の耳を隠す髪がふわりと揺れて、小さな耳が覗いた。外の世界を知らないみたいに小さかった。
彼はこちらをちらりと見た。あどけない幼子のように大きな眼は、窓から入る夏の光のため、水晶玉のように煌めいていた。風が止むと、そのふたつの水晶玉のひとつが髪で隠される。
「どうして髪を伸ばしてるの?」
「そんなに大した理由じゃないですよ」
彼は大きな眼を少しだけ細めて言った。
「どんな?」
「……こればっかりは秘密です」
「そっか。じゃあさ、好きな子はいたりする?」
「え?」
真午が明らかに、さっきよりも動揺した。
「だって、髪を伸ばしてることの理由だけは秘密だって言うなら、こっちは言えるよね?」
「……七水さんは狡いなぁ」
「ごめんね」
私は微笑んだ。初めて呼んでくれた気がする。
「いるにはいますよ」
彼は少し恥ずかしそうに、顔を私から逸らして言った。
「でも、いるだけです」
「告白したりしないの?」
「そんなこと、僕には……」
「真午くんなら大丈夫だよ」
「でも……」
真午のちらりと覗いた耳が赤くなっているのを見つけた時、窓の外から声が聞こえた。学校、特にこの校舎には私たちしかいない筈なので、声の主は粗方予想できた。
窓から下の中庭を覗き込むと、案の定、宇垣と相里だった。
「れーいーかー!」
私は声を出すのが面倒だったので黙っていた。
「掃除、サボってんなよー!」
私は「サボってないよ」と手を振ってみて何となく伝えた。相里と宇垣が顔を見合わせて笑っている。中庭は四方を校舎に囲まれて暑いのかと思えば、中央に聳える欅がたくさんの影を作り出しているし、四方のうちのふたつの一階部分は壁がないので、風通しも良さそうだった。
「えっと」
真午の声。
「ん?」
「掃除、もうそろそろいいかなって」
「え、そう?」
「もう、全体的に掃いたから……」
「じゃあ、真午くん、ちょっと待ってね。私はもう少し掃くよ。真午くんに任せっきりで申し訳ないからね」
「いや、そんなこと……」
「いいのいいの。私がやりたいんだから、やらせて」
私は今度は振りではなく、普通に掃除した。真午が掃いた後だからだろうけれど、目立ったゴミはなかった。
箒を片付けて、鞄を手に取った。
「真午くんはもう帰るの?」
彼も帰り支度をしているように見えた。
「帰ろうと思ってるよ」
「じゃあ、取り敢えず、駐輪場まで一緒に行こうよ」
私の提案に真午は頷いた。
誰の声もしない静かで、夏なのに冷たく感じる校舎をふたりは歩き、一階へ下りた。下駄箱に篠内と大弓はいないことから、ふたりも帰ったらしい。私は下駄箱の上に置いた靴を下ろして、何となく真午の方を見た。
「真午くんの下の名前って綺麗だね」
「そう……かな?」
「桔梗。私は好きだよ」
「ありがとう。えっと、七水さんの名前も花だよね」
「そうだね。読みは捩花だけど、訓読みすればネジバナだからね。でも、変でしょ? 捩って名前に使う字じゃないもの」
「そんなことないよ」
「……ありがとう」
私は相里の靴があるか確認したが、もう帰ったらしい。ついでに、自分のところを確認してみると紙が置いてあって、そこには「祭り来いよ」とだけ書いてあった。相里らしい茶目っ気のあるメッセージだ。
「真午くんはお祭りに行くの?」
私は靴を履きながら訊ねた。
「行かないと思う」
外に出ると、そこはやはり夏の世界で、教室にいた時とは比にならないほどに蝉がジィジィと鳴いていた。風に吹かれて、私の髪も真午の髪も揺れる。また彼の小さな耳がちらりと見えた。
「何か予定があったりするの?」
蝉に掻き消されないように、私は少し声を大きくして訊ねた。
「そういうわけじゃないけど、お祭りの雰囲気が僕には合わない気がするし、一緒に行く人もいないから……」
「じゃあ、一緒に行く?」
「え?」
「ひとりじゃないよ?」
「……ありがとう」
彼は髪を押さえながら言った。
「でも、大丈夫」
「そう?」
私たちは駐輪場に着いた。自転車は私と真午のものしかなかった。
「もし、気が変わって来ることがあったら、私は防波堤に座って花火を見てるだろうから、そこにおいで」
「うん。ありがとう。じゃあ、またね」
「またね」
真午がいなくなって、蝉の声が遠い筈なのに、嫌に大きく聞こえた。自転車を押して駐輪場から出て、何となく見上げた空には、傲慢なほどに膨らんだ白い白い積乱雲が青空に溶けることなく浮かんでいた。私は自転車に乗って、紫外線が波になって降り注ぐ街を抜けた。
早く夜にならないかと思いながら漕ぐペダルは軽かった。
太陽が海の彼方に顔を沈めると、急に熱は奪われ、何処からか涼しげな風が吹いてくる。絶えず聞こえていた蝉の声さえも今はない。
玄関の鍵を閉めた時、不思議な感覚が心の底から現れた。
果たして祭りへ行っていいのか。
その感覚の先にあるものを、私は知っているようで知らない。わかりそうでわからない。涼しげな風が、その持ち前の虚ろさを私にくっつけて行ったのだろうか。
自転車には乗らずに歩いて行くことにした。
夕闇に沈んだ坂道から見る街の灯がぼんやりとしていて、それがどうにも美しかった。時間は流れるものだという認識が街の灯を彩っているように思える。ひとつひとつの灯りは非常に儚いものだ。
夜祭りの会場は海の傍の公園である。私はぼんやりと歩いていたので、感覚的にはすぐ着いたように思えた。
携帯電話が絶えず振動していたのは相里からの着信のためだ。
「もしもし?」
「こら、捩花。何度電話したと思ってんの」
「わかんない」
「この子ったら……。まぁ、いいや、もう着いた?」
「着いたよ」
「じゃあ、合流しよう。私と宇垣はメアリーちゃんの前にいるから」
そう言って相里は電話を切った。彼女の言う「メアリーちゃん」というのは、公園のシンボル的なもので、百年ほど前に漂着した外国船の、唯一の生き残りである少女がモチーフらしい。
私は言われた通りにメアリーちゃんを目指した。ちらちらと出店の派手な照明が見え、それに集まる人々が作り出す喧騒が聞こえた。昼間の蝉の声よりも五月蝿く、また醜いものだと思う。
メアリーちゃんは出店の多い広場に程近い場所にあるため、私は喧騒を割って進まなければならなかった。耳に入る雑音で頭が締め付けられるようだったが、何とかメアリーちゃんの前に辿り着いた。すぐに相里が私に気付き、こちらへ来た。
「お疲れ様」と相里。
「相変わらず凄い人だね」
「これでも減ってるらしいぞ」と宇垣。
相里と宇垣は浴衣を着ていた。相里は朝顔のデザインがされた白っぽい浴衣、宇垣は全体的に藍色の浴衣だった。私はと言えば、完全に普段着である。浴衣なんて持っていないし、態々着るのも面倒だと思ったからだ。でも、今日は着てみても良かったかもしれないとも思う。
私たちは喧騒を敢えて進み、屋台を物色した。喧騒とは言っても、ゲームセンターを満たすような無機質なものではなく、人間同士による温度のあるものだ。人間とは大抵が孤独なもので、常々、こういった賑やかさに飢えている。だからこそ、お祭りに人々は来るのだろう。
相里と宇垣の後ろを歩きながら、そんなことを考えていた。時々、前のふたりが人の波によって隠されることがある。或いは黄色い照明によって色がなくなって、見失うことがある。私は何とか逸れないように、瞬きさえ躊躇いつつ後ろを歩いた。
ふたりが金魚掬いを楽しんでいる間、私はたこ焼きの屋台の列に並んだ。金魚なんて手に余るもので、いずれはなくなるにしても、感情もなく消費できる食べ物の方がずっといい。
相里が赤い金魚を見せてくれた。
今日が終わって明日が来た時、相里は金魚についてどう思うだろう。
でも、彼女は優しい人だ。
「綺麗だね」
私はそう言った。
相里は嬉しそうに頷いた。
私がたこ焼きを買って、宇垣が焼きそばを買っていた。私たちは人混みから外れたところで座った。
たこ焼きをひとつ食べた。
猫舌らしい私には熱かったが美味しかった。どうしてか屋台の食べ物は美味しく感じてしまう。それがどんなにチープだとしてもだ。
花火が始まる三十分前になった。
「ねぇ」
「どうしたの?」
「花火なんだけど、私、ひとりで見てくるよ」
「え、どうして?」と宇垣が訊ねる。
「ひとりで見る花火の綺麗さを知りたいから」
「そっか。捩花はそういうところあるもんね。いいよ、私は宇垣と一緒に見てるからさ」
相里が宇垣の腕を抱き締めながら言った。
「ありがとう」
私はふたりから離れて、公園を出て、防波堤に向かった。途中、カップルや家族連れがすでに待機していた。私はそれらを横目に防波堤の先端、灯りさえもないようなところに行って、そこに腰を下ろした。
果たして、彼は来るのだろうか。
私は彼と会えることを楽しみにしている。
真午桔梗の儚い色は私の心を締め付ける。
どうしてあんなに儚いのだろう。
それは夏の青々とした空に薄く広がって消えそうな白い雲のように、遠い海からやって来て波間に取り残されて居場所のない稚魚のように、命を燃やして鳴き続ける蝉のように、生まれ変わった空を映す鏡の如き水溜まりのように、私のような人間が何千年経っても造形できない儚さがそこにはあって、私を苦しめる。
今から夜の空に咲く花火もそうだ。
あまりにも儚い。
人生だって儚いらしい。
私は眼を閉じた。
灯りのない防波堤、頬を撫でる涼しげな風、漂う潮の匂い、少しだけの生臭さ、近い波の音、遠い浜辺の方から届く誰かの燥ぐ声。
これが永遠であるなら、と思う。
現実にあって現実でないような、ぼんやりとして明瞭な夢のような現実が、私の触覚、嗅覚、聴覚を通して押し寄せてくる。
ふいに誰かの気配がして、消えた。
「真午くん?」
私の問いに答えはなかった。
眼を開けたけれど、そこには誰もいなかった。ただただ暗いだけで、さっきの気配も過度な期待から来る勘違いだったらしい。
だけど、私はあるものを見つけた。
それは何処からか流れてきた小瓶のようだった。私は防波堤から手を伸ばして、何となくそれを拾い上げた。
小瓶の中には紙が三枚と花がひとつ入っていた。
私はそれを取り出して読むことにした。常備しているペンライトを使えば何とか読むことができそうだった。
「最初に言う言葉はごめんなさい。そして、次はさようなら。これは遺書だと思って欲しい。下らないものだけ残してごめんなさい。でも、ここにだけ僕がいる。僕が死のうと思ったのはいつからだろう。自分でもわからない。わかっていたら死ぬことなんてしないと思う。生きていることが嫌になったわけじゃない。過去も今も何もなかったけど僕は満足している。でも、未来はわからない。怖い。不安が募る。僕は未来を考える度に死ぬことが浮かぶ。未来なんて来なければ、僕は僕でいられると思っている。僕は縋れる場所が欲しいだけだった」
これが一枚目だった。
その筆跡はあまりにも整っていて、消えそうなものだった。
「これは僕の人生の縮図のようなもので、ここに書くことに嘘偽りは決してない。死ぬのに嘘を吐くなんて虚しいだけだ。僕にはずっと昔から好きな人がいる。でも、決して手の届くことのない、夏空に浮かぶ雲のような人だ。飄々としていて、儚げで、夢の世界から遊びに来たような人だ。彼女と最初に話したのは、もう七年も前の夏祭りの日。会ったのは防波堤で、友達のいなかった僕はひとりで花火を見るためにそこを訪れた。その灯りもなく、暗い防波堤で彼女は話し掛けてくれた。彼女の言葉を憶えている。『花火って儚いから綺麗なんだよ』という言葉を。その年の僕の記憶に花火は残らなかった。もっと鮮明な記憶があるからだ。彼女はどうして僕に話し掛けたのだろう。彼女はどうして防波堤にいたのだろう。今でもわからないことだ。次の年の夜祭りで、僕は防波堤を訪れたけれど、彼女には会えなかった。実は、彼女の名前は初めて会った年に聞いていた。可愛らしい名前で、読み方を変えれば、ある花になる名前だった。僕も名前を伝えたけれど、彼女は笑わずに、誉めてくれた。男の癖に花の名前を持つ僕のことを、彼女は『綺麗な名前』と誉めてくれた。それがどんなに嬉しくて、どんなに僕を励ましてくれたか、彼女は知らないだろう」
二枚目がここで終わった。
私は三枚目をそっと開いた。
眼に熱を感じ始めた。
「高校が偶然にも彼女と同じ学校だと知ったのは一年の春。名前ですぐにわかった。彼女が僕を憶えているかなんてわからない。二年生になって、偶然にも同じクラスになった。彼女は昔と変わらず、飄々としていて、儚げだった。まるでガラス細工みたいだと思った。僕は単純に嬉しかった。もう死ぬことは決めていた。でも、嬉しかった。死ぬ日もずっと前から決めていた。あの夜祭りの日だ。最後の花火が空に開いて、散ったら、その時に僕も死ぬ。せめて、僕の考える理想の終わり方で、未来への道を閉ざすことにする。だから、死ぬ前には一度だけ、あの防波堤へ行こうと思う。そこで最期に一度だけ彼女に会いたい。会ったところで死ぬことは変わらないけど、それでも会いたい。一緒に花火を見られたら、なんて思うけれど、きっと無理なんだろう。僕は夢を見ているらしい。もし、何かの運命の悪戯で彼女に会えたなら、きっと、何もいらない。思い残すことなんてない。この遺書は瓶に入れて、夜祭りの日に流そうと思う。何処に着くかなんて知らない。読まれなくたっていい」
三枚目にはそう書いてあった。少しだけ文字が歪んでいるようだ。
三枚目にはまだ続きがあり、今までの文字が鉛筆で書かれていたのに対し、続きはボールペンで書かれているようだった。
「今日、思い残すことは完全になくなった、と言ったら嘘になるかもしれない。彼女と話すことができた。彼女は彼女だった。僕のことは憶えていなかったみたいだけど、僕の名前を好きだと言ってくれた。そして、夜祭りに誘ってくれた。あの防波堤で待っているからと。僕はどうすればいいのだろう。運命の悪戯は本当に悪戯だった。僕は彼女と会って、あの時と同じように儚い花火を見たい。でも、僕は死ぬ。死ぬことにする。ごめんなさい。そっちには行けません。そして、さようなら。どうか、あなただけはこの遺書を読みませんように。どうか、遠く遠くへ、僕と一緒に流れてくれますように」
その文字は酷く歪み、紙には涙の零れた染みがいくつもあった。読み終わった時、私の眼から涙が零れた。
運命の悪戯。
ごめんなさい。私は読んでしまった。
そして、予定の時刻になり、最初の花火が打ち上がった。それが夜空で咲くと、遠くから弱々しくも歓声が聞こえてきた。
花火は七年前も、それからもずっと変わらず儚い。
私の身体は動かず、視点は深い夜の朗景に固定されていた。何も知らずに花火は淡々と、プログラム通りに打ち上がっていく。それはつまり、彼の死のカウントダウンだ。どうせなら、止まってくれればいいのに。
儚さも美しさだが、生きていることはもっと美しい筈だ。
段々と夜空に開く色とりどりの花が滲み始めた。私は遺書を握ったまま、涙を拭くことさえもできず、呆然と立ったままだった。
苦しい。
どうして、君はこうも私を苦しめるのだろう。
君は卑怯だ。
死んでしまうなんて。
もっと、儚くあって欲しい。
そろそろ、フィナーレだ。これが最後。私は何もできない。せめて、足を動かせたら。せめて、君を探してみせるのに。
私も卑怯だ。
のうのうと生きている癖に、過去も今も未来さえもぼんやりと直視を避けている癖に、最後の花火を、君の最期を、その言葉にできない一瞬を待ってしまっているのだから。
いくつもの光が一斉に夜空に昇って、花を開いた。それは色とりどりに黒い空に輝いた後、まるで雨のように地上へと降り注いだ。それが最期の花火であることは言うまでもなかった。
何もかもが失せて寂れた防波堤には私の啜り泣く声と遠くで聞こえる夜祭りの終了の放送があった。ただ、涙が止まらなかった。手に持った遺書がくしゃくしゃになるまで握り締めた。
儚い。
あまりにも。
私はこれからどうしようか。
小瓶の中に入っていた花を眺めた。滲んだ視界に映るその花の名前は知っていた。花言葉は「思慕」であることも知っている。
私はこれからも生きようと思った。彼の恐れていた未来までも生きて、その美しさをいつか教えてあげようと思った。彼にしかわからない世界と私にしかわからない世界の双方の儚さについて、その美しさについて話そうと思った。
その日、どうやって帰ったかなんてわからない。眠るまで何をしていたかもわからない。次の日の朝に学校から連絡があったことを知った。地域のニュースでも取り上げられていて、不幸な事故だったと説明された。
私だけが知っている。
それが不幸な事故ではなく、彼の思う最善の結果だと。
私はあの小瓶に水を注いで、そこに昨日の「思慕」と新しく「永遠の愛」の意味がある花を挿した。
また夏が来たら、また夜祭りがあるなら、私はあの暗い防波堤に行くことにしよう。そこで待つことにしよう。もう枷はないのだから。花が咲けば君は来てくれるだろう。花が咲く間だけは君を見ることができるだろう。そして、ふたりでいつかのような儚い話をしよう。