剣道指南③
「よく来たな。早速始めるぞ」
氷室はそう言うと、手に持っていた竹刀をアイラに手渡す。
「この近くに稽古場があるのですか?」
トルメンタの問いに対し氷室は道路のド真ん中に立ちながら、さも当然のようにとんでもないことを口にした。
「ここが稽古場だ」
事もあろうにそこはアパート前の道路。少ないとはいえ、車の往来が全く無いわけではない。そんな道路を使用許可証もなく一個人のその場の意思決定だけで占拠して良い訳はない。しかもそれを法に従事する警官がやると言うのだからいくらなんでも無茶が過ぎる。
案の定、やって来た一台のトラックが道の真ん中に立ち塞がっている男の背中に向けてクラクションと罵声を浴びせる。
「おいテメェ! そんなとこに突っ立ってんじゃねぇよ! 轢き殺されてぇのか!」
その言葉に対して振り返った人物がエデン署の氷室詠司と知った時、運転手は初めて自分が何をしでかしたのかを知り青ざめる。
ホルスターから銃を抜いた氷室は上空に向けて二回発砲。〝降りて来い〟の合図だ。シートベルトを引きちぎらん勢いで運転席から飛び出した運転手は両の掌と膝を地面につけ、必死に謝罪した。日本ではこれが誠心誠意を尽くした最大の謝罪の形だと映画か本で知っていたのだろう。
「ほう、土下座とは弁えてるじゃねぇか。だがな、まだ不完全だマヌケ野郎が」
氷室はそう言うと運転手の頭を踏みつけ額を地面に擦りつける。まさに煙草の火を消すかのように。およそカタギの所業とは到底思えない傍若無人ぶり。他所の人間がこの光景を見た時、氷室を警官だと信じるものは果たして何人いるだろうか。バディとなったマルグリットもその振る舞いに対しては流石に引いていた。
「この道は当面通行止めだ。今回だけは許してやるからサッサと通れ。三十秒以内にだ」
運転手の頭から足を退けた氷室はそう言うと、路肩に移動し道を開ける。狭い道の為、大型車では切り返してのUターンが不可能だからである。運転手は慌ててトラックに戻るとアクセルをベタ踏みして逃げるように去っていった。
「いちいち車の侵入で中断されては敵わん。おい、この通りの出入り口にコイツを貼って来い」
氷室はそう言うと、コートのポケットから侵入禁止用のバリケードテープを取り出しマルグリットに向かって投げ渡した。
「いや、いいんスか? 勝手に通行禁止にしちゃって……」
「通る車の残骸が山積みになるよりはマシだろう?」
「りょ、了解っス」
全く冗談を言っていない氷室の目に萎縮したマルグリットは言われた通りテープを貼りに走って行った。
「さて、まずは竹刀の握り方から教える。基本中の基本だからよく覚えておけ」
氷室はそう言うと地面に片膝を突いてアイラの目線に立ち、竹刀の握り方を懇切丁寧に教えた。言葉も荒げることなく、横柄な態度を取るわけでもなく至って真面目に。そして紳士的に。先程の悪漢ぶりを見た後だと多重人格かと思うほどだ。
竹刀の握り方、竹刀を持つ姿勢と中段構え、すり足を基本とする足捌き。そして素振りのやり方を教えた後、実際に打ち込みを教えるため刃引きの脇差を抜いた。
「今からこの刀を俺の頭、手元、横腹に当てがうから実際に竹刀をぶつけてみろ」
面打ち、小手打ち、胴打ち。突きを抜いた初心者が教わる基本の三つを教えていると、作業を終えたマルグリットがヘトヘトな様子で戻ってきた。
「氷室さ〜ん、封鎖してきました〜」
「ご苦労。よし、稽古も一旦休憩にするか」
アイラは頷き、トルメンタの元へ戻っていく。トルメンタはタオルと飲み物をアイラに手渡し、にこやかに会話をしていた。それを離れた場所で一服しながら眺める氷室に対し、マルグリットは話かける。
「氷室さん氷室さん、あのラテン系の色男は誰っスか? 若い頃のアントニオ・バンデラスそっくりじゃないっスか」
「あいつはかつてこの街を支配していたマフィアの元組員だ。相当腕が立つらしい」
「へぇー、なんだ。悪い人なんスね。ガッカリ」
トルメンタを見るマルグリットの目が若干の鋭さを帯びたのを氷室は見逃さなかった。
「悪人は嫌いか?」
その問いに対し、マルグリットはいつもの調子で答える。
「やだなぁ、氷室さん。そりゃ好きな人なんかいないっスよ〜。あ、でもアシュリーは違うかも。あの子、男嫌いって公言してますけど多分ワルイ男好きっスよ絶対。この前、人相の悪い幼馴染の写真と氷室さんの写真を嬉しそうに送ってきましたから……あっ、やばっ」
勢いで失言を口走ったマルグリットはおそるおそる顔を上げると、煙草を咥えた氷室が氷の矢のような冷たく鋭い視線で睨んでいる。
「あっ、そうだ。ドーナッツ屋行くんだった! それじゃあ氷室さん。また明日〜!」
身の危険を感じたマルグリットは逃げるように去って行った。




