女帝の苦悩
夜のエデンの街を一台のベンツが駆ける。
ベンツの中でもハイクラスのマイバッハ。その中でも特に珍しい防弾仕様の通称〝ガード〟と呼ばれる高級車。日本円換算で実に二億円は下らない代物であり、これを所有しているのはエデンの中でも虎皇会のみである。
滅多に使用されることはなく、メイファンが最重要VIPと認めた人物の迎賓の際にのみ出庫されるためこの車がエデン市街を走る時は同時に街中にも緊張が走る。
高級車が停車した場所はホランドの店テオドール。後部座席から降りてきた二人のスーツ姿の男。襟には純金製のバッジに虎が象られており、その虎の瞳にはダイヤモンドが輝いている。
虎皇会の中でも本家——上海虎皇会の幹部クラスにのみ許される代物。つまりこの二人の男は一支部の長であるメイファンよりも立場が上の人物であることを示す。
いつもは金剛力士像のような佇まいで厳しいチェックを強いるテオドールの屈強なバウンサー二人も今日に限って。この二名に限っては最早ただのドアマン。普段は厳重な扉は宛ら自動ドアの様に開け開く。
運転手を含むメイファンの部下数名に警護される形で二名の男は店内の階段を上がっていく。向かう先はこの店のVIPルーム。本日そこを貸し切り本国からやってきた迎賓を接待する人物こそ、この街の支配者、楊 美鳳である。
「お待ちしておりましたわ。この様な僻地までようこそお越しくださいました」
いつもより露出が多めのチャイナドレスを身に纏い、化粧や装飾品でめかし込んだメイファンが満面の愛想笑いで要人を出迎える。その側にはジェイクが付き添い、凶星はといえば天井裏で〝様々な〟有事に備えて隠れ潜んでいる。
男二人が上座に座るとメイファン自ら二人の前にコースターと丸い氷が入ったロックグラスを置くと、そこにウイスキーを注いでいく。ライトの光に反射した琥珀色が美しいバルヴェニーの五十年。末端価格で数百万はする高級酒である。女帝と呼ばれ畏怖される彼女であっても、時と場合によってはこうして媚と色を売るホステスの真似事をしなければならない。組織の掟とはいえ、側近のジェイクにとっては非常に複雑な心境であった。
「兄貴と俺はこんな辺境まで酒盛りに来たわけじゃねーんだよ。早速だが本題に入らせてもらうぜ」
「此の所、東欧支部のアガりが減少傾向にある。それだけじゃない。組員もだ。今月に入って既に両手の指じゃ足りないくらい死んでいる。聞くところによると、イタ公共に好き勝手やられた上に最近じゃ謎の組織に薬のシノギまで侵されてるらしいじゃないか。いくら帮主の孫娘とはいえ、これ以上本家に面倒をかけるようじゃ進退を考えなきゃならんぞ」
本家の頭目、楊 王虎は御歳八十を越える老獪。裏社会に今尚現役で君臨していることから性格は冷酷非道で実利主義。例え血縁であっても使えないと分かれば何の躊躇いもなく切り捨てる。依然とにこやかな笑顔を貼り付けてはいるが、メイファンは内心焦っていた。何故なら男の内の一人は、本来ならリウロンの後任でこの東欧支部を任される予定だった人物。かなりのやり手で祖父さえも一目置く人材であり亡き父、リウロンの弟分だった男。今のポジションを最も脅かす人物と言っても過言ではないからだ。
「要件はシンプルだ。今まで以上に本家に上納金を納め、虎皇会のシマで好き勝手やってる輩を迅速に消せ。一ヶ月以内にそれが出来なければ東欧支部は俺の傘下に入れる。お前はどこぞの嫁にでも行って楊家の名を捨てろ。その方が冥土の大兄もお喜びになるだろう」
男はそう言うとウイスキーを飲み干し立ち上がり、メイファンに背を向け去ろうとする。
「お待ちください!」
立ち上がり手を伸ばしたメイファンの頭から琥珀色の液体が注がれる。もう一人の男がウイスキーのボトルを逆さにし、メイファンにぶっかけたのだ。
「兄貴に気安く話しかけてんじゃねぇぞ売女。テメーなんざ楊家の人間じゃなきゃ今頃暗殺されててもおかしくねーんだ。女の分際で何の苦労も無く好き勝手やれてたのも偉大な祖父と親父の威光だと弁えろや」
幹部の一人の無礼極まる振る舞いにジェイクは一歩前に出る。同時に天井裏に潜む凶星も暗器を取り出して今にも飛びかかる寸前。一触即発の空気を察したメイファンはすぐさま右手を挙げる。二人に対して静止を促す合図だ。
「本家の幹部自らのお酌、恐悦至極に存じますわ。また、ご忠告頂き重ねて感謝を申し上げます。虎皇会の威信と威厳に懸けて今回の一件は迅速に解決致します」
「へっ、腰抜けが。暴龍の娘がどんなもんかと期待してみれば所詮は女だな。それよりもデカブツ。お前今俺に手ェ出そうとしたろ? ナメてんのかコラ!」
男はそう言うと、空になったボトルで力一杯ジェイクの頭を殴る。割れて飛び散るガラス片。ジェイクは頭部から顔にかけて流血しているが、表情を変えることなく真っ直ぐ男を見下ろす。その鋭い眼光に肝を冷やした男は「部下の教育もちゃんとしとけ!」と情けない捨て台詞を吐いて先に退室した兄貴分に続いてVIPルームを出て行った。
「大丈夫ですか? ボス」
「私なんかよりもあなたの方が酷い有様じゃない」
「問題ありません。擦り傷です」
「姉御、アイツ等殺スカ? 今ナラマダ追エルヨ」
天井裏から降りて来た凶星がメイファンに問う。しかし、メイファンは首を縦には振らなかった。
「よしなさい凶星。それよりも優先すべき事があるでしょう。引き続きうちのシマを荒らしている連中を探してちょうだい。少々荒事になっても構わないわ。猶予は一ヶ月。迅速さを優先してちょうだい」
「明白了。例ノ邪教ノ輩モ捕エルカ? デュランノ旦那ヲ追ッテコッチニ来テルヤツガ一人イルヨ」
「そっちは私に考えがあるわ。久々にあなたにも活躍してもらうことになるけど、いいかしら。ジェイク」
「ボス、まさかアレを開催するんですか?」
「地下闘技場で連戦連勝。〝スレッジハンマー〟と渾名される殺人パンチを久々に見てみたいわ。早速明日にもデュランをスカウトに行きましょう。そうすれば邪教徒も芋ヅル式に釣れるハズよ」
「ですが、ヤツが参加する可能性は低いかと……」
「うふふっ、その点は大丈夫。私には秘策があるから。とりあえず、まずはシャワー浴びてくるわ。あなたは着替えを用意しておいて。あぁ、その前にきちんと傷の治療はしておくのよ」
メイファンはそう言うとジェイクに背を向け、服を脱ぎ捨て、VIPルームに併設されているバスルームへ向かって行った。




