鬼節神明流
意識はない。あるのはただ怒りのみ。発熱を伴う程の激しい怒りの中であっても〝それ〟が何かは体が……否、肺が覚えている。
デュランは力を込めていた五指を緩めると、震える手を氷室が差し出した箱から一本だけ飛び出た煙草へとゆっくり伸ばす。銘柄はこの際どうでもいい。悪魔的な怒りさえも払拭させてしまうほどのニコチンへの欲求。まさにベビースモーカーの鑑である。
そっと箱から引き抜いた一本の煙草を咥えようとしたその直後、デュランと氷室の間に百鬼薙が回転しながら降ってきた。先程デュランがふっ飛ばした男が投げ放ったらしい。おかげで刀を取りに行く手間が省けたと安堵したのも束の間。氷室は刀を地面から引き抜き鞘に納めると、距離を取るため急いでその場から離脱。デュランが摘んでいた煙草は今やフィルターの根本のみ。大部分が降ってきた百鬼薙によって斬り落とされてしまっていた。
「不意打ちとはいえ俺様に一撃喰らわせるとはやるじゃねーか。おもしれーよお前! さぁ、ドンドン来やが——」
殴られた衝撃で多少乱れたオールバックを手櫛で整えた男が拳を構えようとした直後に見たもの。それは鼻先数センチに迫るデュランの拳であった。念願の煙草を駄目にされて怒りは再燃。例え我を忘れていたとしても〝真っ先にブチ殺すべき相手〟として本能で認識しているようであった。
「慌てんじゃねーよせっかち野郎が!」
男の顔面に届くよりも早くデュランの顎を打ち抜いたアッパーカット。見事な角度で入ったカウンター攻撃によってデュランは宙に打ち上げられ、地面に体を強打。しかし、すぐさまネックスプリングで飛び起きると虎形拳の構えを再び取る。今度は迂闊に飛び込む真似はせず、じっと相手の様子を伺っているようだ。
「どうした。反撃されてブルっちまったか? なら今度はこっちから行くぞ」
嬉々として突っ込んで来る男に対し、喉元へ向けて虎爪を突き立てようと右手を繰り出すデュラン。だが、それが届くよりも早く空いた右脇腹に目掛けて鋭いボディブローが抉る。吐血するデュランへの追撃は更に続く。ブローを叩き込んだ左拳はフックへと変わりデュランのこめかみに打ち込まれ、右ストレートへと繋げる。パァンと銃声に似た、とても人を殴った音とは思えないほど乾いた音が響く。それと同時にデュランの顔面から夥しい量の流血が始まり、崩れるように片膝を突く。しかし直ぐに立ち上がると、腕を交差し十指を折り曲げ構え直す。
「ほー、まだ立てるか。メタクソにボコったのに闘志が折れるどころかまだ噛みつこうとしてきやがる。いいねェ、その調子でもう少し遊ばせてくれよ」
あのデュランが格闘戦で押されている。その事実だけで相手の脅威を推し量るには充分。氷室は瞬時に間合いを詰め、抜刀と同時に三度刀を振るう。男はそれに反応し、ガードを上げて斬撃を両腕で止めた。普通であれば両腕のぶつ切りは必定。しかし、あろうことか男は氷室が納刀するタイミングに合わせて一歩前へと踏み込むと左ジャブ、右ストレートと絶妙なタイミングで強烈なワンツーパンチを返礼代わりに打ち込んできたのだ。斬り込んだ際に刀から伝わった手応えと顔面に打ち込まれた打撃の感覚は冷たく硬い鋼鉄のそれであった。
「悪く思うなよ。魔剣の類を使うなら俺様も能力を使わせてもらうぜ。但し腕のみだから安心しな。それ以上はフェアじゃねぇ。遠慮せず二人がかりでかかってこいよ」
男は氷室によって斬り裂かれてボロボロになったジャケットの袖を両手で引きちぎる。顕になった両腕は黒く鈍い輝きを放つ鱗でびっしりと覆われていたのだ。
「人の形をしているが人外の類か。やれやれ、面倒だが仕方ない」
心底だるそうに溜息を吐いた氷室は口元の血を拭うと納刀してた百鬼薙の鍔を左手の親指でやや押し上げ、腰を落とす。右手は柄に触れるか触れないかの位置に添え、すぐにも抜刀出来る構えを取る。鞘と鍔の間から僅かに覗く百鬼薙の刃は蒼白く光っており、辺り一面に妖しげな冷気を放出していた。
「おいおいおい、そんな隠し球を持ってたのかよ。そこのカンフー野郎といい、お前ら面白すぎるだろ。その刀に染みついてるのは呪いか? 霊力か? いずれにせよ、この鱗の前じゃそのどれもが無力だ。魔術、加護、異能による攻撃を通さねェ邪竜の装甲だ。斬れるモンなら斬ってみやがれ!」
男は両の拳を顔の前で構えながら、ボクサー特有の軽快なフットワークを駆使しながら接近してくる。
「鬼節神明流、霜枝垂」
今まさに刀を抜かんとする氷室よりも速く男は自身の拳が届く間合いに入ると、左足を一歩前に踏み出す。右のストレートを氷室の顔面目掛けて叩き込まんとしたその時、右から鋭い煌めきと悍ましい冷気の両方が首筋に襲い掛からんとしていることを察知。男は咄嗟に拳を引き、先程と同じように黒い鱗で覆われた腕で百鬼薙の刃を止めて見せた。
「後から動いたのに俺様の拳より速く仕掛けるてくるとは思わなかったぜ。だが惜しかったな。この鱗がある限り俺様のガードは崩せねぇぞ」
氷室の放った一閃はあと僅かのところで防がれてしまった。妖刀による渾身の一撃を以てしても斬れぬ硬度。異能の力では破れぬという敵の言葉に偽り無し。刀を止められた氷室に対して男はまだ左手を残したまま。すぐに次の一撃を繰り出せる状態にある。
「勝負ありだ、サムライ野郎」
この状況を側から見れば誰もがそう思うだろう。但し、男と氷室の認識は全く異なる。
「それはこっちの台詞だトカゲ野郎。その鱗の防御力は認めてやるが、腕だけじゃなく足も守っとくべきだったな」
「なっ……マジかよ」
氷室の言葉に視線を落とした男は驚愕した。両足の膝から下が凍りついていたのだ。刀から放たれていた冷気を纏う霊気はかつて百鬼薙によって封じられた冬を司る鬼の力。その片鱗を一時的に引き出したものである。
本来であれば相手の身体を瞬間凍結させ、死に至らしめる技であるが今はこれで充分。ボクサーの命でもあるフットワークを封じてしまえば、あとは相手のリーチの外から攻撃を加えればいい。こうなると氷室にしてみればもはや試し斬りの巻藁のようなものである。
「これで俺様に勝ったつもりか? フザケんじゃねぇぞ。こっちはまだ左腕が残ってんだよ! その涼しいツラを歪ませてやるぜ!」
傲慢さが仇となったにも拘らず、氷室に対し激しい憎悪を燃やして逆上した男は振りかぶった左拳を氷室へと向けて放つ。しかし、その左拳はあっさりと受け止められてしまった。止めたのは氷室ではなく、氷室の肩越しから伸びる左手。刀を鞘へ納めると、氷室は男にこう告げた。
「二人がかりでこいと言ったのはお前だ。自分のバカさ加減を一生後悔してろ」
氷室の背後から男を睨むデュランは、左手で掴んでいる男の拳を全力で握る。腕を覆っている鱗にひびが広がっていく。骨や肉を潰す音とはまた違った、大型の甲殻類の殻を砕くような音。異能でもなんでもない、単純な握力による加圧により男の拳は握り潰され大量の血が噴き出す。
「ぐおおおっ!!」
拳を潰されて悶絶する男。膝から崩れ落ちたいほどの痛みだろうが、膝から下は氷漬けにされているためそれさえ許されない。上半身を捻り苦痛に喘ぐも眼前の虎は尚も容赦なく襲い掛かる。五指による引き裂きの連撃。男は腕を盾にしガードを固めて反撃のスキを伺うも、息もつかせぬ猛攻に腕を鎧う堅牢な鱗が少しずつ。だが確実に剥がれ落ちていく。
「そっ、そんなバカな! 俺様の鱗が剥がされていくだと!?」
刀でさえ斬れなかったほどの強度を持つ鱗である。当然、デュラン本人の手からも大量の出血が伴っている。しかし、それでも決して攻撃は止まらない。
「グルァァァアアア!!!!」
獣の如き咆哮を上げながら怒りに任せて眼前の敵を削りに削るデュラン。自由を奪われ、成す術なく攻撃に耐え続ける男。しかし、それももう限界を迎えようとしていた。
「痛え、痛え、痛え、痛えよチクショウ。なんの冗談だこりゃあよォ。なんで俺様がこんな奴らにいいようにやられなきゃならねぇんだよ。ズタズタじゃねぇか……俺様のプライドがズタズタじゃねェーかよォォォ!!!!」
デュランに劣らぬほどの激しい怒りを潰れた左拳に込め、在らん限りの一撃を眼前の獣へと打ち込んだ。爆発かと錯覚するほどの凄まじい破裂音を伴う一撃を喰らったデュランは既に見えなくなるほど遠くへ吹き飛ばされてしまった。
「ちぃっ、まだそんな力が残っていやがったか!」
再度刀を抜いた氷室は男に向かって斬りかかる。これほどの実力を隠していたと分かった以上、生かしておくには危険過ぎる。男の両腕はだらりと下がっており、ガードはまず間に合わない。今なら確実に首を落とせる。百鬼薙の刃が男の首筋に触れた瞬間、真っ赤な鮮血が氷室の眼前で飛び散った。
「なん……だと……」
百鬼薙を地面に突き刺さし、崩れ落ちるのをなんとか踏ん張った氷室。鋭い痛みを感じた腹部を見ると、黒く硬い鱗に覆われた鋭い棘状の物が突き刺さっていたのだ。
その棘が生物の尾であり目の前の男から生えているものだと気づいたのは、氷室の腹から引き抜かれたそれを鞭のように振るい、凍りついた両足の膝から下を切断するのを見た時。両足を失った傷口から勢いよく流れていた血は徐々に止まっていき、赤い蒸気が立ち昇っている。見ると、鱗に覆われた新たな足がゆっくりと生え始めている。
それはさながら自切したトカゲの尻尾のよう。足の再生を待つ男は地面にうつ伏せになりながら、憎しみに満ちた目で氷室を睨み上げていた。
「なんて無様だ! この俺様がこんな奴らに力を半分以上解放しなければならねェとは! 足までこんな……再生にどんだけ時間がかかると思ってやがんだ馬鹿野郎が! おい、サムライ野郎! なに見下ろしてやがンだ! クソが! 冥界神なんざもうどうでもいい! 神父が来る前にテメーらごとこの街を吹き飛ばしてなにかも無かったコトにしてやらァ!」
男の両目が真っ赤に染まる。
不穏で不気味で強大なオーラが男の体から放たれ周囲に満ち溢れていく。今すぐこいつを殺さねばならないと本能が叫んでいる。しかし刺された腹部の出血がひどく、体に力が入らなかった。無理もない。ミケーネから既に三発の銃弾を受けており、しかもその内の一発は横腹ときている。内臓をぎりぎりで避けているとはいえ既に二つも腹に風穴が出来ているのだ。気力で動けるのもここらが限界だろう。
「くそっ、早いとこコイツを殺してあのブス女神も殺さねぇと」
焦る氷室に追い討ちをかけるような事態が重なる。体から蒸気を放ち、欠損した両足と拳を再生させている男の後ろから何者かが近づいて来るのが見えたのだ。
泥だらけの黒い祭服に身を包み、逆十字のロザリオを首から下げたもう一人の男。手には一本のスコップが握られていた。
氷室は確信した。
あれこそ、この男が口にしていた〝神父〟だということを。




