家族写真
小さいスペースであったが、アイラはそこが大好きだった。
包丁の刃がまな板を小気味良く叩く音や食材が炒められる音、鉄製の鍋底が五徳に打つかる度に響く重厚な音。ネギや生姜、にんにくなどの香味野菜や胡麻油の香ばしい香り。コンロから噴き上がる炎とデュランの体から放たれる気迫と熱気。
幼い瞳にとってその光景は、さながらショーパフォーマンスやエンターテイメントのように見えた。料理が皿に盛られるまでの、ほんの僅かなハーフタイムはここで働くアイラにとって楽しみの一つでもあった。
「宮保鶏丁あがったぞ」
出来上がった料理を中華鍋からお玉杓子ですくい取ると、カウンターに乗せた皿の上へ盛り付けていく。鶏肉とカシューナッツ、香辛料の香ばしい匂いが何とも食欲を唆る。背の低いアイラは踏み台に乗ってその皿を受け取ると、屋外のテーブル席で待つ客へと持って行く。
「お待たせいたしました」
モヒカン頭とスパイク付きのトゲ肩パッドがトレードマークの世紀末な客の前へ料理を提供。注文の品に間違いがなければ、会計伝票も一緒に渡す。業務の一連の流れはすっかり板に付いていた。側で見守っていたウィリアムがアイラへと声を掛ける。
「すっかり一人前だね、アイラ。どこへ出しても恥ずかしくない立派なウェイトレスさんだ。もう僕のサポートは必要無いかな?」
「今はまだ平気。でも、注文が増えるとまだ不安」
「そうだね。ランチタイムはまだ始まったばかり。これから更に腹を空かせた猛獣たちが、この香りと音に誘われてわんさかやってくる。その時は僕もレジ兼任で一緒にウェイターとしてフロアーに入るから安心してよ。他に何かわからないことや困り事とかあるかな? 何でも遠慮なく言ってね」
「特にはない。たまに、わざとお箸やスプーン落としてスカートの中を覗こうとしてくる人がいるくらい」
「そういう時はすぐ厨房に言いな? うちのシェフは掃除の腕に関しても一級品だから」
「あ? 呼んだか、ウィル!」
「しかもめちゃくちゃ地獄耳」
厨房から外にまで聞こえるくらいの大声を張り上げて返事をするデュランに対して「何でもない」と同じく大声で返すウィリアム。二人を見ていると、不思議な感情が胸にふつふつと湧き上がるのをアイラは感じていた。
アイラは父親の顔を知らない。物心ついた頃から母親と二人きりの生活。娼婦だった母は毎日代わる代わる違う男を客として家に招き入れ日銭を稼いでいた。母と客の情事が終わるまで家の外で待つのが習慣になっていた。
別に母からそうするように言われたわけではない。母は例えアイラが同じ室内にいたとしても構わず仕事を始める。まるで誰もそこにいないかのように。客の大半はアイラがいた方が、母の仕事のサポートに〝精が出る〟という。アイラはそれが堪らなく嫌だったし、母のだらしない姿を見るのも嫌だった。だからアイラは、母の仕事中は家の外にいることを自主的に選んだのだ。
暑い夏も、凍える冬もいつも一人。何をするわけでもなく膝を抱えて家のドアに背を預ける。ただ道行く人々を眺めている毎日の繰り返し。そこから見える景色は、まるで別世界のように見えていた。
特にアイラの印象に残っていたのは、幸せそうな親子の姿だった。自分と同年代くらいの男の子とその手を引く母親。二人の様子が実に楽しそうで、あたたかくて、羨ましくて、そして眩しかった。
『きっと、あの子は愛されている』
そう思った瞬間にアイラは気づいてしまった。あれこそが本来あるべき親子の姿であり、自分の環境が普通ではないのだと。それと同時に痛感した。自分は母から愛されていないのだと。母の生活の中にただ紛れ込んでいるだけ。母は自分のことには一切興味が無いということを理解したのだ。
無視や無関心とは、時に最も残酷な仕打ちとなる。
精神に絆創膏を貼れる者はいない。だが、心に傷を負った者に寄り添ってやることは出来る。それは家族や恋人、親友といった存在が一般的であり、支えがあればこそ人はまた立ち上がり、歩き出せるというもの。しかしこの時のアイラは、唯一無二の繋がりである母親から関心を絶たれたのだ。それはつまり、自分を心から必要としてくれる人はこの世にはいないという事実を突き付けられたと同義である。
人は独りでは生きていけない。ましてや、これほど小さい年頃ならば尚の事。ただ生命活動を維持していくだけであれば、忍び込んだネズミのように家にあるパンを黙って食べていればいい。実際、母はアイラの行動自体を咎めたことはただの一度も無い。空気や酸素に話しかけないのと同じように、アイラのことを一切気に留める素振りは見せなかった。
今までそれが当たり前であり、普通だったから耐えられた。しかし、名も知らぬ親子の姿からこの世の真実を知った時に味わった衝撃は、幼いアイラにとってどれほど重く辛いことだったか。
ドア越しから僅かに漏れていた母親のだらしない喘ぎ声が止んだら、一仕事終わった合図。ドアから離れて客が帰るのを待ってから家に入る。そんな歪んだ日々の繰り返しと孤独という最大級の心的外傷が、アイラから感情というものを徐々に削ぎ落としていったのだ。
アイラが身を置いていた異常な日常は、母が病に倒れたことで唐突に終わりを告げた。
唯一の肉親を失い、身寄りの無くなったアイラはジェノヴァの小さな孤児院に引き取られた。そこで同じ境遇の子供たちと共に過ごしていたが、その生活も決して長くは続かなかった。
ある日孤児院に突然やってきた二人の男。
その一人が卑俗な笑みで札束が敷き詰められたアタッシュケースを院長の老婆に差し出した様子を、院長室のドアの隙間から見てしまった。その時、アイラは思った。
『神様は、きっと私のことが嫌いなんだ』
その日から数日後、里親が見つかったという建前で孤児院から追い出され、自分の他に大勢の子供たちが積まれたトラックの荷台に載せられてイタリアを離れた。
愛されず、必要とされず、ただ物の様に扱われてきた。大人はみんなそういうものだと思っていた。でも、この二人は違う。
『逃げるよ。立って!』
初めて差し伸べられた優しい手。
『アイラは俺が、何があっても絶対に守ってやるっつってんだよ!』
初めて言われた優しい言葉。
この街に来て初めて触れた二つの温もりに、凍てついていた感情は少しずつだか解け始めていた。真っ先にそれに気づいたのは、アイラ自身ではなくウィリアムだった。
「あれ? ひょっとしてアイラ今笑ってる? いいじゃんいいじゃん。やっぱり女の子は笑顔じゃないと。そうだ、そのままキープスマイル。ちょっと待っててね」
ウィリアムはそう言うと、急いで厨房へと向かっていく。そしてデュランを連れて再び戻ってきた。その手には、年代物と思しきカメラが一台。
「アイラの笑顔を記念して、せっかくだからみんなで一枚撮ろうよ」
ウィリアムはカメラを食事中のモヒカン男へ渡すと、アイラを自分とデュランの間に立たせた。
「さぁ、アイラ。もう一度笑って。デュラン、君もだよ。いつもの仏頂面はやめてよね」
「じゃあ撮りますよー。ハイ、チーズ!」
クソッタレの街中で、クソッタレな客が意外にもノリノリでカメラを構えて写真を撮ってくれる。そんな様子がおかしくて三人に自然と笑いが込み上げてきた。
この瞬間、最低最悪な街に暮らす三人の家族が笑顔で写る世界でたった一枚の写真が出来上がった。




