さよならの代わりに
名だたる高級酒のボトルに紛れて保管されていた古ぼけた小さな酒壺。
希少価値もない。ましてや、ブランドもない。中身は三十年以上熟成させただけの単なる紹興酒。しかしメイファンにとっては何よりも大事な酒。
部下を足蹴にし、踏み台にしてまで守ったそれを、まるで幼子を慈しむように抱きかかえているメイファンの行動を見れば、それが如何に大切な物かなど誰の目から見ても明らかであった。
「ご婦人、もしやその壺の中身は〝女児紅〟では?」
僅かな沈黙を破るようにメイファンに声をかけたのはガルーダマスク。よもや日本人である彼からその名が出たことにメイファンはやや驚きの表情を見せた。
「女児紅? なんだそれは」
山崎五十年のボトルを手にした氷室はガルーダマスクに問う。
「娘が産まれた時、別れた妻から聞いたことがある。中国の浙江省を中心とした文化で女の子が産まれた時に紹興酒を仕込み、その子が嫁ぐ際に祝い酒として呑む。或いは、嫁入り道具の一つとして嫁ぎ先へ持たせる風習があると。我が家では仕込まなかったので実物を見た事は無いが、もしやその酒がそれなのではないかと思いましてな」
その話が確かならば、先程のメイファンの言動にも頷ける。愛好家への価値は皆無。だが、メイファンにとってはとても大事な酒。そんな物を放り投げてしまった凶星は流石に事の重大性を察したようで、意気消沈気味になってしまっていた。
「……姐御、ソノ……知ラナカッタトハ言エソンナ大切ナ物ヲ投ゲテシマッテ済マナカッタヨ」
あの無神経な凶星さえ謝罪するほど重苦しい雰囲気。宴席というよりまるで葬式である。そんな空気を払拭するようにメイファンは酒壺の蓋を勢い良く開け、それに直接口をつけて中身をグビグビと呑み始めたのだ。
「プハー! ちょっとちょっと。せっかくの祝いの席なのにお通夜みたいな空気になっちゃってるじゃない。女児紅? なにそれ? これは単なる古酒よ。ほら、みんなもジャンジャン呑み食いして騒ぎなさいな。せっかくの料理が冷めるわよ」
メイファンの態度に安堵した招待客たちは再び目の前の皿に箸を伸ばし、各々のグラスを傾ける。祝宴は無事に仕切り直しされたが、一部の人間はメイファンを気遣うような視線を向けていた。側近であるジェイクはそんな雰囲気を察し、彼女へそっと話しかける。
「ボス、良かったのですか? その酒はアスガルド聖教から送られてきた私物の一つ。リウロン様のレシピにも記載されていた正真正銘の——」
「ジェイク」
メイファンはジェイクの言葉を遮った。
「私は一人で呑むのが好きなのよ。今日は本気で酔いたい気分だから、あなたも向こうで楽しんで来なさい」
メイファンはそう言うと、一瞥もくれずに酒壺を持ったまま少し離れた場所へ向かうと廃墟の壁に背中をつけて天を仰いだ。
(はぁ……なにやってんだか。柄にもなくセンチメンタルに浸るなんてね)
「壁の花でも気取ってやがんのか? お前らしくもねぇ」
一人反省していたメイファンに対して次に声をかけてきた男が一人。
「よう、せっかくの祝宴なんだぜ? そんなとこにいねーでお前もこっちに来たらどうだ」
「デュラン……」
メイファンはデュランの顔を見て、すぐさま目を逸らす。
特に今は。今日この瞬間に限ってはこの男の顔がまともに見れない。そんな思いから上手く言葉が出てこない。そんな自分が惨めで、恥ずかしくて、更に萎縮してしまう自分が情けない。
メイファンが抱いている複雑な胸中を察したかどうかは定かでは無いが、デュランの方から沈黙を破るように右手のグラスをメイファンに向かって差し出した。
「美味そうな酒呑んでやがるな。独り占めはずりーだろ。俺にも一献よこせ」
その一言はメイファンにとって、まるで魔法のようだった。
やさしく、だけど力強く。
まるで、伏せていた顔を自らの意に反して上げさせられたような感覚。
目の前の男と視線が合った瞬間、メイファンは確信した。しかし、それは敢えて口にはしない。そしてきっとこの先も口にすることはないだろう。
だけど——だからこそ、代わりに一言だけ。
この一言だけ告げて己の気持ちにケリを着けると誓いつつ、酒壺に入っていた濃い琥珀色の酒をグラスへと注いだ。
「この一杯は高いわよ? デュラン」