貌
出発するときには鈍重で頼もしい音を響かせていた履帯は、いつの間にか悲鳴のような高音をあげるようになっていた。岩を転がすような威風堂々とした、雷神トールの裁きのように厳めしい行進曲は、すでにヒステリックな悲鳴に変貌した。車外ではおそらく、ドップラー氏の理に従ったでたらめな音階が、木霊し、共鳴し、幾重にも連なった壮大な不協和音を演出していることだろう。コンダクターは私だ。箱庭のフルオーケストラの誰もが言うことを聞かない、あわれな指揮者だった。
私は走路をただ一直線に駆け上るのみにすべてを費やしはじめてから、どれだけの時を経たかすでに覚えていない。私の目的は丘の頂きを極めるだけ。そこに至るまでの手段は問われない。作戦報告書にも、到達地点の座標だけがぽつねんと肩身狭そうにその場にたたずんでいるだけである。なんのためにそこへ行かねばならないのか、目的もわからない。いや、目的とは前述したとおりその丘を極めることただそれだけなのかも知れない。そこに雑念はいらない。与えられた職務を忠実に全うするのみ。
坂を五つと谷を三つ、すでに越えてきた。尾根は道が舗装されておらず走行には適さないため控えたが、おかげでナビゲイションシステムは時間の短縮を告げている。補給ポイントもないため燃料には限りがある。この選択は正解だったようだ。とはいえ、燃料の節約のために無休で走り続けていたとはいえ、そろそろ残量の心許がなくなってきた。現時点で目標までの到達度は目算で三分の二といったところか。ずいぶん進んできたものである。
目的地に到着するまで、燃料がもってくれるか怪しいが、そもそもこの広大な作戦区域には補給ポイントというものがない。なんのためにこの悪条件でわざわざこんな運転しづらい車を転がしながら任務を遂行せねばならないか、それこそ何度も訝しがったが、作戦内容の是非を哲学してみたところでタンクの燃料が増えるわけではない。ここに至るまで敵影をとらえることがついぞなかった索敵装置は、定期的に、無機質な電子音で鳴き声をあげている。
車外の様子は、まさに静謐を紊乱された自然、と呼ぶにふさわしかった。現地民が形成したのか、道らしい道こそあったが、車両一両がやっと通行するに足るという以外は、なんら人間の手が加わっていない印象をもたらす。澄み切った、不純な成分など検出されそうにない大空に、私は硫黄酸化物をまき散らしていく。均されているだけで、道という区別もつきづらいその道に、驕傲な轍を刻んでいく。風や陽の匂いには排気による異臭、鳥のさえずりには前述したでたらめな交響曲、付近に巣くう動物たちを、私は気付かぬ間に、何匹轢き殺したかも知れない。そんなことを思っても胸が痛まないのは、もう、心のすべてが、藍につけた着物みたいにまんべんなく麻痺しているせいなのだろうか。
だが、これは任務だった。私がこれからの人生で食べていくためにこなさねばならぬ職務だった。私がちっぽけな良心でもってその任務が阻害されるようななんらかを行えば、その先の自分の人生が脅かされる可能性が伴ってくる。それは私の望むところではなかった。自分個人というものがどれほど尊大なものかはわからないが、私は私個人の存するために他を蹂躙することをよしとしているのだった。
履帯がきりきりという音から、もう少し軽快な音になりかわる。下り坂に差し掛かったようだ。ということは、この道程ももうすぐもはや終わりに近づくまでに至ったということ。私は息をつくような気持ちで、出発時からの自分の心境をなぞっていた。
しかしそれはかなわなかった。私にとって任務中に費やした時間というのは一瞬であった。すべて、この道を進むという単純な作業にのみ彩られたそれは、どの時間を切り取ってみても、まったく同じ瞬間しか、私の記憶の識閾には訪れなかった。そう言えば出発したのも、もう途方もない時間遡るのかと思う一方、たった今、作戦地点から出発したような印象も受ける。時計は膨大な時間の経過を私に教えていたが、私にはいまいちそれが信のおけるものなのかどうか、判別しかねるものであった。
私の精神はむしばまれていた。単調な道程にかも知れない。この目的のわからない任務にかも知れない。さきほどから調律を怠った弦楽器のような音を奏でる履帯の音色にかも知れない。だがその理由などは瑣末なことだった。問題なのは、作戦を遂行したところで私の精神が回復するものとは、到底思えないということであった。
私の心中にあるのはすでに一個の狂気であった。自ずから知覚できるほどの狂孕。なんと自由な話だろう。私の人格が狂っていくのを、その後ろに控えたもう一人の私が背中越しに観察している。よく、自分の精神の異常を認識する者ほどまともであるという弁を聞くが、あんなものは嘘っぱちである。主観とは別の自分を認識しているような者が、まともな精神を保てるはずがない。それは私自身が立証済みである。
私はここに至るまでに、四足獣を何匹か轢殺した。出撃前のブリーフィングでは、進行の障害となるものはいかなる手段をもってしても排除してよいとのことだったが、排除の手段となる砲の弾薬には限りがある。早急に排除しなくてはならぬほどの障害もなかったから、私はそれまで一発の弾薬も消費することなくこの任務にあたっていた。動物などはすでにどのほど轢殺してきたかわからない。鹿、兎などは目視できたが、それいがいにも小動物をこの履帯の屑にしてきたかもしれない。そこまでならこれまでの任務でも多々あったことであった。私はこれまで、その度に心を痛めていた。それは気持に余裕があったからだろう。だが今はどうだ。獣ごときを排除するのに、砲や機銃で一瞬の苦しみを与えてやる慈悲すらなく、死の確認もとれぬ、もしかすればうちどころの塩梅がよろしくなく重傷を負ったまま動けず、餓死するような者すらあったかも知れぬ、そのようなことに私はまったく頓着できないでいた。いやむしろ、一刻もはやくこの異常な任務の完了を遂げたい私を邪魔する者が苦しむことに、喜びこそしないまでも、内心で溜飲の下がる思いすらしていた。私自身はそのことになにも感じない。ただ、そんな私を後ろで見つめるもう一人の私が、憐憫を向けることが、私には何より耐え難かった。
その途上のことである。突如、あの不快な和音がオーケストラのクライマックスを告げるように、ひときわ高い音を響かせた。それを合図にするように車体の姿勢が左方に崩れ、そのまま進行をやめた。履帯の断絶が、そのまま任務続行の不可能を告げたのである。
私は焦った。このままでは任務遂行が大幅に遅れてしまう。ブリーフィングでは戦車の燃料が尽きればその場の判断で置いてきてもいいということだったが、まだどれだけ進んだかもわからないのに、徒歩でこれ以上どう進めばいいのかも知れない。とりあえず車外に出て見てみたが、輪を描いていた履帯は完全に千切れている。修そうにも、工具もなければそもそもの知識がない。これまで連れ添ってきたこの相棒は、ここに置き去りにするしか私にできることはなさそうだった。
張りつめていた緊張の糸が急に切れた気がして、おれは車体に座り込み、煙草に火をつけた。車内にいては感じなかったが、風は思ったより冷たく、熱のこもった車内から解放された当初は涼やかさが快適だったが、少しすると汗が冷えて肌寒くなってくる。なにか体温を上げる方法はないものかと雑嚢をひっかきまわしていたら、糧食が入っていた。そう言えば出撃から何も口にしていないが、私はそれを食べるか少し考えやめた。
いくら腹を満たしたところで、空腹により惹起された虚無感までは満たされはしないだろう。これならなにも食わぬほうがましだ。私は水筒に口をつけて、残りわずかな水を一気に飲み干してしまうと、装備を整え、相棒を捨て置いて歩き出すことにした。
荷物が重い。それは荷物の重さ以上に、何か別の、超知覚の因子が雑嚢に充満しているせいのような気がした。
私はまず、コースからそれて近くの沢を目指した。地図上では数百メートル下った所にあるはずだ。万が一のときは水が一番の頼りになるため、絶やしたくはなかった。
地図と地形の傾斜、方角などを照らし合わせつつ歩くうちに、沢に到着した。若干ポイントから外れた気がしたが、許容範囲だろう。徒歩ならばどうせここから尾根を探して登って行った方が近いのだから結果に委細ない。
沢は想像していた規模よりもずっと小さいものだった。伏流水の地上に露出し、そのままたまっただけのようなもの。しかしながらいくら小さいとはいえ組むことに支障をきたすほどではないし、わき出る水に混じった砂の少ないことには助かった。私はまずそこに口をつけ喉をうるおしてから、水筒にたんまりと水を蓄えた。これだけ入れれば大丈夫だろう。
雑嚢に機械的に水筒を突っ込むと、私は立ち上がった。不意に目眩に襲われたのはそのときだった。
よろよろとよろめきながら、倒れそうになるのをなんとかこらえ、右半身をそばの木に打ち付ける形でなんとか体制を保つ。
血圧が上昇している。体温も若干、常温より高い。呼吸は安定している。幻影も幻聴も現れない。意識には至って不自由な点はない。あるとしたら前述の通り、精神の異常くらいだろうか。
極限の空腹とも症状が違うし、寝不足というほどでもない。体調が気まぐれを起こした原因を、私は把握できずにいる。私はとりあえず、目眩を押えこむつもりで、眼を固く閉ざし大きく息をつく。
やがて目眩に伴う妙な倦怠感も去り、私は閉ざした目を開いた。……そして、一瞬経つか経たぬかのうちに再び目を閉ざした。私の視界を支配した像を疑ったからであった。
私は今しがた私をして旋律せしめた恐怖が白昼夢であることを祈りながら、もう一度目をあけた。だが残念ながら、私の頭のどこか大切な部分は、たった今本当に狂ってしまったらしい。
目を開けた私に無言の訴えをかけてきたのは、無数の貌であった。否、貌の形質をした何者かであった。私の目に飛び込む景色のいちいち一つ一つの、無造作に組み合わさったパーツが、目鼻口と認識するに足る形質を獲得し、そのおびただしい貌すべてが、私の方を向いている……
たとえば木々の枝ぶりのいくつかが奇妙に織り交ざったもの。その木々の皮質に浮かぶ木目。木漏れ日とともに差し込む天の隙間から見えるオゾンの模様。そこに浮か雲の段。むき出しになった土くれの規則性など持たぬ粗雑な配列。まだ花を持たぬ草の、風に揺れるたたずまい。果ては自分の服や、手にした雑嚢にまで、貌が浮き出しているような気がした。
「ハハッ、アハハハハハハ、アハ、ハハハッ。」
私はたまらなくなって、中天に響く勢いで高らかに笑いだした。私の喉はこれまで発したことがないくらい清らかに、私の心中を表現してくれていた。私は自分のことを、いつ狂うのかと期待してやまなかったが、なんだ、大したきっかけもなく人間なんてものは狂うことができたじゃないか。
視界の中に、貌など存在しないことはすぐわかった。簡単なことである。よく一人歩きの暇つぶしに、風景の中に人の貌に見える箇所を探すことがある。あの遊びに対して私の脳が、途端に、極端に覚醒したというだけの話であろう。しかしその仕組みが理解できたところで、私の異常を否定する材料にはなりはしない。
私は思った。人はなんと脆いものだろうか。そしてまた、なんと壊れにくいものだろうか。
私が望んでやまなかったのはもっと純粋で、芸術的な狂悖である。美意識に満ち満ちた、他の追随を許さぬほど突出した異常である。なにを思考することもあたわない、原初の混沌のような精神。そこに至らぬような発狂など、書物の帯が傷ついた程度の問題で、私の本質までを犯しはしない。その半端な塩梅がたまらなかった。
「なぜおれは狂ってしまった、そして狂ってしまわなかった。」
戯れに、私はその地面に浮き出た貌の一つに声をかけてみた。当然答えなど帰ってくるはずもなく、そいつは悲しそうな表情をたたえるだけだった。それは私が想定していた反応であったが、彼の淡白な態度に、予想異常にショックを受けている自分もいた。ショックを受ける自分のほうが予想外だった。
はたして私は本当に狂っているのだろうか。答えのない問いが頭をよぎる。
少なくとも、私が私の精神に関して、なんらかの障害を負っていることは確実だった。この未だ私を注視し続ける貌の数々を見ても、それを疑うことはかなわない。しかし理性のほうはというと冷静に事態を分析する余裕があるし、なにより発狂と呼べないほど私の意識ははっきりとしている。重力加速度の公式が簡単にでるくらいには、精神だけでなく記憶もはっきりしていた。また、同時に、突如現れた貌に返答を求める、尋常ならない私も同時に存在した。
では狂気の主体とは一体どこに属するのだろうか。私にははかりかねた。
苦悩していても仕方ない。私はそのまま任務に戻ることにした。任務の内容が単調だったから、こういう特異な状況も悪くはないかも知れない。少なくともこれ以上退屈することはなさそうだ。
私はまた目的地へ向かって歩き出した。水を飲んだせいで身体の疲れが増したが、歩く分には差し支えなかった。いったん休憩をとったからか、私の心持はいたく晴れ渡って、行楽のような気分であたりを歩くことはできた。
しばらく歩くにつけ、わかったことがある。貌たちは、一つ一つ個性的な表情をしており、それらを注視していると、だんだんと私の知人のように思えてくることである。それは私の心を幾分慰めた。死んだ両親や、昔付き合っていた女の貌などは、いささか当惑もしたが、相手になんの害意もなく、ただ私の行く末を見守ってくれるとなると、逆にそれが心強い。
私は彼らにあいさつ程度に声を交わしながら進んでいった。私の記憶の片隅にしかいなかったような、たとえば小学校のクラスメイトの貌などを思い出していくのも面白く、それらが、過去私が体験したさまざまなエピソードを、厭でも思い出させてくれる。
まるで、走馬灯のように――
そんな連想が頭をかすめたところだった。ひょっとしたら、私は作戦中になんらかの事故に見舞われ、今死のまぎわなのかも知れない。そしてその死にかけの脳髄が、このような幻影を見せているのではないか。不吉な想像だった。しかし私にはそれを打ち消す術もなかった。……考えようによっては、今の精神状態のまま死ぬのならば、別段悪いことではないのかも知れないな、などと思ってしまったからである。ここがたとえあの世だったとしても、ならばなおさら都合のいいことであろう。なにせ死の恐怖なんてものを、私は味合わないままである。ならば現世への未練など、もはやどうでもいいことだった。
もしかしたらかの「神曲」をあらわしたダンテも、このような気分だったのかも知れない――
そんな連想が私をなお以て楽しくさせた。
だがその楽しみも長くは続かなかった。
私が方向の確認にと地図と方位磁針を参照しているときのことだった。地図の図形が、例にもれずまた何らかの貌として、私の視覚に訴えてきたのである。
それだけならもう慣れてしまった私には、さした障害にはならなかっただろう。しかし、その貌は人間のものとは思えない、片輪の、落ちこぼれた形をとっているのである。……私はすぐにピンときた。これはこの作戦が始まった後にひき殺した、鹿の貌であろう。
さしもの私も尻ごみを厭う暇はなく、手にした地図をとりこぼしてしまった。すると今度はその落ちた地図の奇妙な折れ具合が、耳の長い動物の形になる。これも、先の鹿と同じように私が履帯にかけた兎の貌だ……私は恐ろしくなってきた。何が彼らを呼び起こしたのか、まったく理解ができなかった。あたりを見回してみても、それまでそこにいた私の馴染みの貌はもはやどこにもなく、私がこの手にかけたのであろう動物たちの貌に混じって、知りもしない人間の――まるで銃弾でも受けたかのように欠落した貌で、すべてが支配されていた。
いや、私は彼らを知っている……彼らは私が殺した者たちだ……
こいつは東欧で白兵戦をしたときに、銃剣で心臓を貫いた男……こちらは南アで戦車ごと対戦車ロケットで吹き飛ばした男たち……あれは祖国でテロリズムを働き、私の狙撃で銃弾が頭部に命中したやつではないか……
彼らの貌は、すべてではなかったが、どこかしらが欠損していた。眼窩を抉られた者、頭がい骨がいびつな形で損壊している者、顎のはずれきって、頬の肉のみで支えている者……一見五体満足のようだが、耳が奇麗に切断されている者もいた。
私は思わず瞼をおろした。だが、今度は瞼に流れる血流が、異様な具合に混ざり合ってまた何らかの貌を形成する。もうそれが誰なのか思い出すのすら嫌になって、それを認識しないように、無様なうめき声をあげながら錯乱したように頭を振り、四肢を引き乱し、草の上でもだえ狂った。
やがて恐怖のたがが臨界に到達したとき、私の神経は一種の冷静な部分に到達することを得た。いや、それはまるで私の冷静さを保っていた部分が今まで隠れていたが、私の惨状が見かねるものになったので、ひょっこり顔を出したようだった。彼は私を怜悧な口調で詰った。
――私はなぜ、戦車の中にまでいたような敵の貌を覚えていたのだ? 私にそんなやつらの貌をいちいち確認する暇などなかったはずである。
――それ以前に孤児の私には両親などいなかった。十六まで孤児院で生活して、それから軍部に志願したのだ。……それがなぜ、自分の両親の貌など覚えていられるだろう。
――私は本当に狂ってしまったのか? なぜ?
彼の登場は私をなお混乱させただけだった。彼の言う私の遍歴が正しいのかという判断でさせ、私の管理の外に出ていた。
――私は完全に狂っている。私の主体などどこにもない。狂人にまっとうな主体など存在しない。
その心理が頭をかすめるにつけ、私はようやく気付くことができた。狂気の主体は、それに染まりきってしまう前の人間には知覚することなどできず、這い寄る混沌のようにいくつもの貌を持って忍び寄り、次第に獲物をむしばんでいくことを。最初から――おそらくは出発した時から、私はずっと混沌の毒気に当てられていたのだろう。
だがそんなことに気づいたところでもう遅い。一縷の糸のように私の精神の均衡を保っていた最後の理性はぷつりと音をたて、底なしの奈落へ一直線に降下し、それを合図に私の正気は完全に喪失した。