006話 一山越えて邪馬台国へ
永禄十三年(1570年)四月 【上野から越後】にて
沼田城にて上杉輝虎(謙信)との対面を果たした数日後、越後に向かう事になった。
それで三国街道を北上しているのだが、緩やかな上り坂といった感じの道筋で下りはたまにあるぐらいだ。勾配も段々ときつくなっていく。あぁカッタルイ。
そしていよいよ難所の三国峠だ。
越後と上野の境になる標高1244メートルの峠。
難所と言われるだけあって道は狭いは勾配はキツイはで難儀した。
ここを通過するのを「越山」と言うらしいが納得だ。
その「三国峠」のど真ん中に来た時、俺は越後の方向やや右斜めの方を見て心の中で誰にも聞かれないように叫んだ。
「再び邪馬台国の理想を掲げる為に越後よ、私は還って来たぁ!!」
シーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン。
うん。すべってるね読者も含めて。
いやぁほら、越後(新潟県)には邪馬台国があったっていう説があるからさぁ。
ついね。ほんの出来心で心の中で叫んでしまった。
人生にはユーモアが必要でしょ。
邪馬台国が新潟にあったというのは1980年代に提唱された説でね。現代で言うところの新潟県長岡市の辺りにあったと。
もっと正確に言うと長岡市の栃尾ですよ。
元は栃尾市だったけど今は長岡市に編入されて市としては消滅していますな。
火焔土器の出土が日本全国でも長岡市周辺にとりわけ多く、更に邪馬台国が魏王に送ったと言われる「青大勾玉」(翡翠の極上品)は新潟からしか出ないという事から邪馬台国があったと主張する人もいるんですな、これが。
まぁ俺は信じちゃいないけどね。
ところで栃尾と言えば軍神、上杉謙信が青年時代を過ごし初陣を飾った地。
異論は認める。
でも現地ではそれをウリにして「とち◯謙信公祭り」が毎年9月に開かれているからね。もう50年の歴史がある祭りだからね。大事な地域振興策だから批判はほどほどにね。地方の観光客集めは本当に大変なんだからさ。
そんなわけで栃尾は二重の意味で大事な地なのですよ。
もしかしたら現代で何時の日か栃尾が邪馬台国だったと判明する日が来るかもしれないし。
99.99999999999999999999999999999999999%無いと思っているけど。
でもいつだって奇蹟はあるんだよ。
諦めたらそこで終わりなんだよ。
まぁそんな無駄で役に立たない話はともかく、
上杉家の本拠地「春日山城」と関東を結ぶ峠は三国峠以外にもある。
清水峠だ。
距離的には三国峠より清水峠の方が道程は短い。
上杉輝虎(謙信)が関東に出陣し始めた初期の頃は清水峠を使っていたらしい。
しかし、清水峠は三国峠より更に勾配がきつく標高も高い。標高1448メートルだ。三国峠以上に難所な為に、後に上杉軍が関東に出陣する時は遠回りになるが三国峠を使うようになったらしい。
三国峠でこんなにキツイなら清水峠は遠慮したいね。
ともかく「越山」した後、今度は下り坂の道を行く事になる。
そして沼田城を出てから十日後、いよいよ春日山城が見えて来た。
春日山城までの道筋、どうやら畑はよく手入れされているようだ。垣間見える民の表情も明るいように見える。
当然かな。春日山城周辺では、ずっーと戦が起きていないから。
まぁ男衆は戦に駆り出される事はあっても生まれ住む地が頻繁に戦場になるのと、そうでないのとでは大きく違って来るだろうしね。
まぁ民が明るい事は良い事だよ。うん。
【つづく】




