003話 分かたれた者達
永禄十三年(1570年)四月 【相模国 小田原城】にて
城から相模の海を眺めていた氏康に背後から声を掛ける者がいた。
「大殿、何かご懸念がおありのようだが、三郎の事ですかな?」
「お見通しですか、大叔父。
上杉行きを言い渡した時のあ奴の様子が少し気になりましてな」
内心を言い当てられ苦笑しつつ振り返った氏康が応えを返した相手は北条一門の重鎮、幻庵だ。
後北条の初代たる北条早雲の四男であり既に隠居の身ではあるが、未だに北条家における影響力は大きい。その姿も老境にあるとは思えぬほど生気溢れている。
この幻庵も一時は娘の婿に三郎を迎えた義理の父であった。
幻庵も三郎の事を気にしていたようで、一つ頷くと氏康に同意する。
「某も気にはしており申した。
まるで北条から出される事を気にしておらぬような。
既に知っていたかのような落ち着きぶり。
あの若さで、今回のあ奴の態度は解せませぬ」
実の父である者と義理の父であった者が、息子であった若者を気にしている。
「そうなのです、大叔父。
武家の子ならばお家のために不遇に耐えるもつとめのうち。
とは言え若輩の者に、それが難しいのも道理。
だが、あ奴は怒るでもなく嘆くでもなく淡々と上杉行きを承知しました。
諦観とも違う、当てつけとも違うあの様子。反抗の素振りさえ見せませなんだ。
儂と氏政を見る目は、まるで路傍の石ころでも見るような……
あの目がどうにも頭から離れませぬ」
氏康は首をふりつつ理解者を得たとばかりに思うところを口にしたが、そこには嘆きの成分も幾分かは含まれていた。
「ふむ。某も上杉行きが告げられた後に、三郎と腹を割って話そうといたしましてな」
「どうでした」
「どうにもわかりませぬ。あ奴の腹の底を覗く事はできませなんだ」
「大叔父がですか」
幻庵の言葉に氏康は本気で驚いた。
今いる北条一門で、その誰よりも多くの戦を戦い生き延び、醜い戦乱の世を渡り歩いて来た幻庵の人を見る目、心の内を覗く目は確かだと信頼を寄せていた。
その幻庵がわからないと言う。
敵ではない。遠国での活躍が聞こえてくる武将の話でもない。
血の繋がった身内。それも短い期間とは言え同じ屋敷で寝食を共にした息子の事がわからないのだ。
氏康は自分が何か底知れぬ失敗をしたかのような、何か大きな間違いをしでかしたかのような気分になった。
「当家に婿に来た時には利発な若者としか見えませなんだが……
人が変わるという事はあり申すが、あ奴のあれは、どうにも……」
そう言って嘆息し戸惑う幻庵の姿は氏康も初めて見る姿だった。
「殿、氏政殿は三郎について、どのように」
その幻庵の問い掛けに今度は氏康が嘆息する番だった。
またしても氏康は首を振りつつ嘆くように言う。
「何も。国増丸を可愛がるだけの親馬鹿と化しております」
「それは何とも嘆かわしい」
幻庵も溜め息をつく。
上杉家との同盟の為に北条家から送られる人質は当初、氏政の次男、国増丸となっていた。しかし、氏政が情に溺れ可愛い息子を手放せなくなった為、その代わりに三郎が越後に行く事になったという経緯がある。
氏康も氏政を諫めはしたのだが、氏政は聞く耳を持たず、三郎を送る事になった。
「北条の行く末は……」
そう言って頭を振る氏康の顔には苦悩がありありと見て取れた。
「大殿、あまり気に病みますな。なるようにしかなりませぬ」
幻庵にはそう言うことしかできなかった……
【つづく】