閑話 警視と元警官
人に酒を奢られる時は、相手の財布より先に意図を疑え。
ましてや相手が警察官、それも警視ともなればなおさらである。
「それで、警視庁警備部特別警固課課長殿が、場末の賞金稼ぎに何の御用で?」
江戸川河口近くの岸壁。
係留された船を改装した酒場『アヴァンティー』のカウンターで、上総君茂はグラスを揺らしながら隣の男に尋ねた。
「人聞きの悪い言い方をしないでいただきたいですね。文京区では色々と世話になりましたから、今日はそのお礼ですよ」
冴島仁警視はそう言って、琥珀色の酒を口に運ぶ。
相変わらず、顔だけを見れば警視庁の幹部というより広域指定暴力団の若頭と言った方がよほど説得力がある。
それでいて口調だけは妙に丁寧なのだから始末が悪い。
「お礼ねぇ」
「疑っていますね?」
「職業病だ」
「元警察官でしょうに」
「元だからこそだよ」
上総が煙草を咥える。
火をつける前に、カウンターの向こうでグラスを磨いていた矢坂考太郎が無言で灰皿を置いた。
「うちは禁煙じゃありませんが、船を燃やさない程度にお願いします」
「聞いたか、警視。民間ってのは融通が利くだろ?」
「公務員を何だと思っているんです?」
「融通が利かない連中」
冴島が苦笑する。
この店を指定したのは上総だった。
冴島の方から酒に誘ったのだから、場所はこちらで決めさせろと言った結果。
警視庁の人間が普段使うような店ではない。
ましてや、この辺りは不法移民や賞金稼ぎ、日雇い労働者の多い区域だ。
それでも冴島は文句一つ言わずやって来た。
店に入った瞬間、出入口と客の数と監視カメラの位置を一度だけ確認してから席についたのを、上総は見逃していない。
そして、警視庁の警視がこんな所を一人で来る訳もなく、上総は冴島が降りた車に二人の男が乗っているを確認していた。
現場上がり。
それも、かなり長く現場を経験した人間の癖だった。
「で、本当に文京区の礼だけか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「仕事の話です」
「ほらみろ」
上総は煙草に火をつけ、冴島は気にする様子もなくグラスを傾ける。
酒の種類を気にする歳でもないが、出された酒がここの住人には高すぎる酒ぐらいは二人とも分かっていた。
「文京区の件、こちらとしても色々考えさせられましてね」
「湾警との縄張り争いか?」
「縄張り争いと言われると否定したくなりますが、まあ外から見ればそう見えるのでしょう」
冴島は否定しなかった。
だからこそ、亀裂が深いと上総は己の経験からため息をつく。
「昔は簡単だったんですよ。湾岸警察は箱舟特区の自治警察。警視庁は東京都。県警はそれぞれの県。その境界を越えれば引き継ぐ。それで済んでいた」
「昔はな」
東京湾に浮かぶ人工島『箱舟』。
国家特区として建設され、急増する人口と移民問題、企業アーコロジー化への実験都市として発展した巨大人工島。
湾岸警察も元々は、その中だけを守る自治警察に過ぎなかった。
「それが、いつからか場所ではなく人を守るようになった」
冴島が続け上総がぼやく。
話は酒もあってか愚痴から危ない話に移りつつあった。
「企業警察が始めたんだろ」
「ええ。企業アーコロジーの中だけ守っていればよかった連中が、役員や研究者が外に出ても警護するようになった。組織人警護優先なんて便利な理屈まで作って」
「企業からしたら当たり前だ。社長がアーコロジーから一歩外に出たから、ここから先は警視庁さんお願いしますなんてできる訳がない」
「理屈は分かりますよ」
冴島の声が少しだけ低くなる。
酔ったふりをしているが、目は酔っていない。
それは上総も同じだった。
「その理屈を湾岸警察まで使い始めたのが問題なんです」
「箱舟の住人が都内に出たら見捨てろって?」
「そうは言ってません。ただ、湾岸警察が警護を理由に都内へ一個中隊、二個中隊と持ち込んでくる。その横で企業警察が武装している。こちらとしては笑って見ている訳にはいかないでしょう」
「で、文京区みたいになる」
「そういうことです」
文京区の大学では、湾岸警察が護衛対象を守り、警視庁がテロリストの捜査と逮捕を担当した。
更にその裏では企業警察の天衛警備保障が蠢いていた。
言葉にすれば簡単だが、実際の現場では、誰がどこまで指揮権を持つのかで過去何度も揉めた。
「でも、一番厄介なのは湾警じゃないでしょう?」
カウンターの向こうから矢坂が口を挟む。
元ジャーナリストの現酒場のマスターは酒の肴に情報を差し出すからこの店は上総たちにとって居心地の良い店なのだから。
冴島が視線を矢坂に向ける。
「と言いますと?」
「企業警察ですよ」
元ハッカーにして元ネットメディア記者。
今では酒場のマスターに収まっている矢坂は、グラスを磨きながら平然と続け情報という肴を差し出す。
「企業警察は企業警察である限り、会社を優先する。会社の利益と公共の治安が一致している間は優秀でしょうけど、会社同士がぶつかったらどうするんです?」
「給料を出している方につく」
「身も蓋もありませんね」
「事実だろ」
上総が即答し、矢板がつっこみ、冴島は否定しなかった。
矢板の肴は美味すぎた。だからこそ矢板の話を止められない。
「だから湾岸警察に調停役をやらせている訳です」
「箱舟の警察だった連中が、今じゃメガコーポ同士の喧嘩の仲裁人か」
「笑えませんよね。上総さん。
企業警察同士が本気で衝突すれば、そこらの暴力団抗争とは比較にならない。
武装移民犯罪の激化に伴う湾警の権限拡大という現状を苦々しく思う連中が、国家公安委員会直下に警察軍を作るって話の大元はこれですよ。釈迦に説法でしょうが」
今の巨大企業は一つの都市を丸ごと所有するだけでなく、軌道上居住施設まで支配していた。
自前の発電所を持ち、通信網を持ち、病院を持ち、交通網を持つ。
そして、その全てを守る武装警察まで持っている。
「高天原クラスなら、一企業で国家並みだ」
「上総さん。だから困るんですよ」
「警視庁が取り締まればいい」
「できると思います?」
「無理だな」
「でしょう?」
矢板の話を引き継いで二人して酒を飲む。
それが冗談にならない程度には、この国の社会は変わっていた。
企業同士の問題に自治体警察が強引に介入すれば、それ自体が政治問題になる。
企業警察同士で解決させれば武力衝突になる。
湾岸警察はその間に挟まり、企業同士の利害を調整する。
そして、湾岸警察自身が直接動けない時。
「そこで俺たちか」
「ええ」
冴島が上総を見る。
「賞金稼ぎ。探偵。警備会社。情報屋。外部契約者」
「便利なゴミ箱だな」
「便利な緩衝材と言ってください」
「呼び方を変えても中身は同じだ」
上総は煙を吐いた。
その煙が天井で消える程度の沈黙の後に上総は口を開く。
「警視庁が直接調べれば高天原が文句を言う。湾警が動けば警視庁が文句を言う。高天原の企業警察が動けばライバル企業が文句を言う」
「そこで賞金をかける」
「犬を放すって訳だ」
「その犬が優秀なら言うことはありません」
そこで上総は煙草を持った手を止める。
冴島の視線がさっきまでと少しだけ違っていた。
空気が変わる。
「……それが本題か」
「何がです?」
「俺に酒を奢ってまで、警察制度の講義をしに来た訳じゃないだろ」
「察しがよくて助かります」
「だったら最初から言え」
「言ったら話が終わるじゃないですか」
「そりゃそうだ」
互いに軽口は崩さないが、視線は互いを容疑者みたいに疑って睨んでいる。
冴島はグラスに残っていた酒を飲み干して告げる。
「上総さん。警察に戻る気はありませんか?」
「……この前、生田にも同じことを言われたよ」
「彼は湾岸警察に、でしょう?」
「ああ」
上総は数秒黙り、返事をする。
冴島はその数秒の躊躇いを見逃さなかった。
「私は警視庁に来ませんかと言っているんです」
上総が思わず笑った。
声を上げるほどではないが、本当に面白かったから笑顔になる。
「湾警を辞めた男を警視庁が拾うのか?」
「元湾警だから欲しいんですよ」
冴島の答えは早かった。
「湾岸警察の考え方を知っている。企業警察のやり口も知っている。賞金稼ぎの世界にも顔が利く。神霊室にも、あの天衛警備保障にも繋がりができた」
「疫病神に好かれているだけだ」
「その疫病神と話ができる人間を、人材と呼ぶんですよ」
「それで何をやらせる?」
もう二人ともグラスに手をつけない。
会話の端々に手と策が織り込まれる。
まるで、刑事が犯人に自白を迫るように。
「私の課でもいい。もっと外部調整寄りの部署でもいい。今の警視庁には、警察の理屈だけ知っている人間では処理できない案件が増えすぎています」
「買いかぶりだ」
「そうですかね?」
冴島がわずかに笑う。
上総は冴島の情報を修正する。
現場上がりだろうが、警視まで上がった人間が官僚思考をマスターしていない訳がないのだ。
「文京区では、あなたがいなければ湾岸警察とこちらはもっと激しく揉めていましたよ」
「勝手知ったる後輩だっただけだ」
「生田上級警部をあそこまで扱える人間が何人いると思っているんです?」
「昔は素直な奴だったんだ」
「あなたが育てた結果では?」
上総は答えず、酒を飲んだ。
冴島もそれ以上追及しない。
しばらく二人の間に沈黙が落ちる。
船体の外から、水が岸壁に当たる音が聞こえていた。
「……あなたが湾岸警察を辞めた事情について、私は詳しく知りません」
「だったら聞くな」
「聞きませんよ」
「ならいい」
「ただ」
そこで冴島が言葉を切った。
「普通の辞め方ではなかった事くらいは知っています」
上総の持っていた煙草の灰がテーブルに落ちる。
それをごまかすように上総は煙草を灰皿に押し付けた。
音が出ないぎりぎりの強さで、冴島に見られているのを承知の上で。
「向井局長のことも含めて」
「冴島」
「はい」
「酒がまずくなる話はやめようや」
声は穏やかだった。
だからこそ、冴島もそれ以上何も言わなかった。
「失礼しました」
「まったくだ」
上総は新しい酒を頼む。
矢坂は何も聞かなかったような顔をして酒を注いだ。
それがこの店の良いところだった。
「で、返事は?」
「断る」
「即答ですね」
「こんなロートルを今さら公務員に戻してどうする」
「年齢なら、あなたより年上の現役警察官はいくらでもいます。エルフ化すればなおさらです」
「それも断る」
「そこまで警察が嫌いですか?」
「警察は嫌いじゃないよ……」
グラスを口元まで持っていき、少しだけ考える。
嘘は言えないが、真実を口にする勇気もないそんな言葉を。
「……だから戻れないんだ。悪いな」
冴島はその言葉の意味を考えたようだったが、何も尋ねなかった。
実にわざとらしい笑顔を作る。それはこの話の終わりの合図。
「分かりました。今日は諦めます」
「今日は?」
「気が変わるかもしれませんから」
「変わらんよ」
「人間、何があるか分かりません」
「警察官が希望的観測で仕事するな」
「人事は別です」
冴島が携帯端末を取り出す。
上総も同じように端末を出した。
「何をしているんです?」
「割り勘だ」
「今日は私が誘ったんです。私が払います」
「警視様に酒を奢ってもらうほど落ちぶれちゃいない」
「賞金稼ぎでしょう?」
「賞金稼ぎだからだよ」
「では、次は上総さんが」
「次がある前提かよ」
「警視庁への返事を聞く必要がありますから」
「断っただろ」
「どうせ別の事件で顔を合わせるでしょうし」
「……」
それは冴島なりの奢りなのだろう。
だから、上総はお釣りを渡さざるを得ない。
「合わせたくはないが、事件は待ってくれないか。
何かあったらマスターに伝えてくれ。
こっちも、それ相応のお釣りは出すよ」
「入ってくれると、このあたり楽なんですけどね」
「かわりに警視庁内の椅子取りゲームに巻き込まれるんだろう?」
「わかりますか?」
「元警官なんで」
冴島が会計を済ませ、上総も会計を済ませる。
もちろん公費ではなく自腹らしい。
店の外まで見送る必要もないだろうと思ったが、上総も煙草を吸い終えると立ち上がった。
「お二人とも。またお越しください」
「ごちそうさま」
「上総さん」
矢板の挨拶を聞いて出ようとする上総に冴島が出口で声をかける。
「気が変わったら連絡してください。席くらいは用意します」
「警視庁も人手不足だな」
「有能な人間は、いつだって人手不足ですよ」
「買いかぶりだ」
「そういうところも含めて、です」
そう言い残して冴島仁警視は岸壁を歩いていく。
彼の後ろにいつの間にか刑事の乗った車がついてゆく。
その背中を見送ってから、上総君茂は煙草を一本取り出した。
「警視庁ねぇ……」
悪くない話なのだろう。
それが分かっているからこそ、受ける訳にはいかなかった。
火をつけようとしたところで、携帯端末が震える。
表示された名前はジェラルド。
「今度は何だ?」
『仕事だ』
「警視様に公務員へ戻らないかと誘われたばっかりなんだがな」
『断ったんだろ?』
「なんで分かる」
『お前が警察に戻れる性格なら、最初から賞金稼ぎなんぞやってない』
「うるせえ」
岸壁に煙を吐き出して、彼は刑事から賞金稼ぎの顔に戻る。
東京湾は眠らない。
街も事件も賞金稼ぎも。
「で、仕事ってのは?」
ジェラルドの返事を聞きながら、上総君茂は歩き始めた。




