悪い種子が芽ばえる時
ちょっと古い本です。
悪い種子が芽ばえる時 B.M.ギル 著 / 吉野 美耶子 訳
なぜこれが絶版になるのか分からないほどの名作サスペンス。
謎解きはないから、ミステリではない、と思う。
主人公は一見、天使のように清らかな美少女,。
だが、その内側は、自分の欲望を満たすために他者を踏みにじることに何の躊躇も罪悪感も持たない。
高慢で嫌みな大人のミニチュアではない。ただただ、罪悪感がないのだ。
舞台は第二次世界大戦中のイギリス。主人公の両親は善良な人間であり、二人の疎開児童を預かっている。主人公と同い年の少女と、その弟。
物語は、主人公が齢6才にして、単にその子が使っているおもちゃで遊びたいという理由から年下の男の子を水死させる、というショッキングなシーンから始まる。
親は、「善悪の分からない子供のしたこと」だとして真実を隠蔽し、男の子の水死を事故だったことにする。
少女の行為は少しずつエスカレートしてゆく。親は「我が子を失いたくない」「我が子が罪人だと思いたくない」気持ちから、それらの罪に対して見て見ぬふりをする。
彼女はその見た目の清らかさ故に、正直に罪を告白しても周囲はそれを信じない。「どこでそんな悪い冗談を覚えたの」と笑われ、時にはお菓子をもらいさえする。
こうして少女は、自分は罪を犯しても許される、あるいは自分が行うすべてのことは罪ではない、特別な存在として自分をとらえるようになる。
主人公と対照的な疎開児童の少女は、すべてを理解している。
しかし、彼女が主人公を連れて警察へ行った時も、警察は彼女が純真な主人公をそそのかし、罪悪感を植え付けたと決めつける。
疎開児童の少女は、一般的な美的感覚で言えば、けして美しくはない。
「内面は表に出る」というのは、本来は表情や行動のことを指すのだと思うが、人は単に「姿形が美しく清らかである」事にいともたやすくだまされる。また、「見た目が醜い」と言うことに対しても、同じように。
「自分は特別に許され、愛される」という妄想(この物語では半ば真実でもある)は成長と共にさらにエスカレートし、少女は罪を重ねる。
そして、衝撃のラストシーン。
その中でさえ、彼女は自分の妄想の中身に何の疑問も抱かない。
気が狂っているのではない。それが、彼女の人生における基盤であり、彼女にとっては「これまでずっとそうだった」事なのだ。他の世界観など持ちようがない。
物語の中で、自分の妄想と欲求のために何人も殺害する少女は、ある意味、大変純粋である。
それらの行為が神の前で赦されるものと、信じて疑わないからだ。
少女は純粋に、自分は許される存在だと信じて育った。
ただそれだけの事が、いくつもの悲劇を生んだ。
「純粋」「清らか」というと、人は「偽りない」「優しい」などの精神的美徳を想像しがちである。
しかしこれらの言葉は、単に「混じりけのない」状態を指し示す言葉でもある。
考え方のベクトルを変えれば、「純粋な悪意」は存在するし「清らか=無知」という見方も成り立つ。 そして本書において、これらの言葉を精神面においてやたらと珍重する人間は、残念ながら少女の本質を見抜けない。「美しい=正しい」という単純な図式を信仰する人々。
そこには、多様性とか個性とか、事実だけを追う客観性とか、そういう物を見る目が欠けているように思えるのだ。
劇薬にして良書。
図書館か古本屋で出会ったら、ぜひ読んでみて欲しい。
そんなことを思ってみたりするのでした。