「地図ばかり眺めている女とは婚約破棄だ」と言った婚約者様へ。あなたが男爵令嬢に贈った湖畔の別荘、去年の秋から湖の底ですが
「ナタリー・ベルクール! 地図ばかり眺めている地味な女とは、今日かぎりで婚約破棄だ!」
ヴァロワ侯爵邸の大広間。
二十一歳の誕生日の宴の真ん中で婚約者のレナルド様が声を張り上げた。
乾杯の杯を掲げたばかりの招待客たちがそろって動きを止める。
私は手にした果実水をこぼさないよう、そっと卓に戻した。
「……え、今ですか?」
「今だ! 誕生日だからこそ、僕の本当の気持ちを皆に聞いてほしいんだよ!」
自分の誕生日に婚約破棄を発表する人なんて、初めて見た。
「では、理由を伺っても?」
「理由? 君と話していると退屈なんだよ! 口を開けば等高線だの地番だの、二年間そればっかりだ」
そればっかり、というのは正確ではない。
最初の半年は、レナルド様の好きな狩りの話にも馬の話にも真剣に相槌を打っていた。
地図の話が増えたのは、私が何を話してもこの人があくびをするようになってからだ。
去年の誕生日には、侯爵家の狩り場を三日かけて測量して、手描きの地図を贈った。
その地図は翌週、レナルド様の書斎で酒杯の下敷きになっていた。
丸い染みがちょうど一番大きな池の位置に重なっていて、妙に感心したのを覚えている。
王宮地図局の製図補佐として週に四日も机に向かう伯爵令嬢など、侯爵家の嫁としては確かに風変わりだろう。
それにしても、誕生日の宴でやらなくてもいいと思う。
招待客の視線が肌に刺さる。
憐れみと好奇心が半分ずつ。
悲しいというより恥ずかしくて、そして、ほんの一つまみだけ悔しかった。
二年間、この人の隣で一度も地図の話を最後まで聞いてもらえなかったことが。
「僕が本当に愛しているのは、セリーヌなんだ!」
レナルド様が手を差し伸べると、淡い水色のドレスの令嬢がしずしずと進み出た。
マルボー男爵家のセリーヌ様。
その後ろで父親のマルボー男爵が揉み手をしている。
「レナルド様ぁ……みなさまの前でなんて、恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがることはないさ。今日は君に、僕からの贈り物があるんだよ」
レナルド様は懐から一枚の紙を取り出して、高々と広げた。
「湖の見える別荘だ! 男爵から譲ってもらった。これからは毎年夏になったら、二人で湖を眺めて過ごそう!」
「まあ、素敵! 朝は湖畔をお散歩して、夜は湖に映る月を眺めて……」
広間が拍手に包まれる。
セリーヌ様はうっとりと権利書を胸に抱き、男爵は満足そうに何度も頷いた。
……湖の見える、別荘?
王都の近くで湖といえば、ソレル湖しかない。
去年の秋、治水工事で谷一つ分ほど広がった湖だ。
そして、あの湖の新しい地図を描いたのは私である。
「レナルド様。差し支えなければ、その権利書の地番を拝見できます?」
「は? 未練がましいな。……まあいい、見せてやれよ、セリーヌ」
セリーヌ様が勝ち誇った顔で権利書をこちらに向けた。
――ソレル谷、第七区、十四番。
思わず目を閉じる。
頭の中に、去年描いた地図が勝手に広がっていく。
ソレル谷の谷底、川沿いに建つ白い門柱の別荘。
庭の隅には林檎の木が一本あった。
「……ああ、やっぱり」
「何がやっぱりなんだ」
「第七区の十四番。水深十二メートルの地点ですわ」
広間が静まり返った。
◇
「す、水深?」
レナルド様の声が裏返る。
「ええ。去年の秋に水門を閉じてから、ソレル谷の第三区から第九区までは全部湖の底です」
「は? 何を馬鹿な! 男爵は確かに、湖の見える別荘だと……」
「ええ、見えますわね。真上に」
誰かが噴き出しかけて、慌てて咳払いでごまかした。
笑いごとではない、と自分に言い聞かせる。
谷の家々を一軒残らず歩いて測量したのは、水門を閉じる前の、去年の夏の終わり。
門柱の白さも林檎の木の場所も、水に沈む前の姿を正確に記録しているのは、おそらく地図局と治水局の人間だけだ。
そのとき治水局から案内役として同行したのが、技師のバスティアン様だった。
口数が少なく、愛想もない人で、最初の三日はほとんど会話がなかったと記憶している。
四日目、十四番の別荘の前で、彼は白い門柱の天辺を指差した。
「秋には、ここまで水が来ます。この上に、さらに十メートル」
淡々とした声だったのに、門柱に触れた手だけが妙に丁寧だった。
沈める谷をこの人も惜しんでいるのだと、そのとき分かった。
その日の午後は雨で、測量板が濡れないよう、彼は自分の上着を広げて私の頭上に掲げ続けてくれた。
自分はずぶ濡れになりながら。
……今それを思い出してどうするの、私。
「でたらめだ! 地図局の小娘ふぜいが、口から出まかせを!」
マルボー男爵が真っ赤な顔で一歩前に出た。
揉み手はいつの間にか拳になっている。
「あら、でたらめでしょうか?」
「そうだとも! 地図局の地図など、どうせ間違っておるのだ!」
「まあ。地図局の地図は、王家の徴税台帳にも使われておりますのよ?」
私は首をかしげてみせた。
「もし間違っていたら、男爵様の領地の税額も間違っていることになりますけれど……そちらも、確認いたしましょうか?」
「なっ……い、いや、それは結構! とにかく、あの別荘は今も湖のほとりに建っておる!」
「そ、そうですわ! わたし、去年の夏にあの別荘に泊まりましたもの。窓から湖がきらきら見えて……」
セリーヌ様が加勢する。
夏なら、確かに見えただろう。
水門を閉じる前のソレル湖は、谷の入口に近い小さな湖だったから。
「去年の夏ですか。では男爵様、ちょうどその頃、王家がソレル谷の土地を買い上げたときに補償金をお受け取りになりましたよね?」
宙に浮いた男爵の拳がぴたりと止まった。
「谷に土地をお持ちだった方には、全員に補償金が出ているんです。補償の名簿と地番を照らし合わせて、新しい地図に旧地番を書き入れたのも地図局ですのよ」
卓の果実水をひと口含んでから、私は続けた。
「マルボー男爵様、第七区十四番。金貨八百枚。名簿に確かにお名前がございましたわ」
広間がざわめきに包まれる。
「ほ、補償金……? じゃあ、あの土地はもう王家のもので……」
「ええ。男爵様は王家に売った土地を、もう一度レナルド様にお売りになったことになりますね」
レナルド様がぎぎ、と音のしそうな動きで男爵を振り返った。
「男爵……僕、金貨三千枚も払ったんだぞ……?」
「さ、三千枚っ!?」
今度は私が声を上げてしまった。
補償金の四倍近い。
だいいち、侯爵家の跡取りとはいえ、レナルド様にそんな大金を動かせるはずがない。
「レナルド様。その三千枚、どちらからお出しに?」
「そ、それは……その……」
「だ、旦那様のお戻りです!」
広間の入口で執事が叫んだ。
◇
泥のついた長靴のまま、ヴァロワ侯爵が大股で入ってきた。
この国の治水卿で、ソレル谷の堰堤工事を指揮した張本人。
今朝まで湖の視察に出かけていたはずの人だ。
すぐ後ろには、治水局の技師のバスティアン様が図面の筒を抱えて続いている。
……噂をすれば、上着の人だ。
「何の騒ぎだ? 廊下まで怒鳴り声が聞こえておったぞ」
「ち、父上! こ、これは、その……」
「侯爵様、お帰りなさいませ。ご視察、お疲れさまでした」
私が一礼すると、侯爵は眉を上げた。
「おお、ナタリー嬢か。で、何がどうした?」
答える前に、セリーヌ様の手から権利書がひらりと落ちた。
侯爵はそれを拾い上げ、目を細める。
「ソレル谷、第七区、十四番……? 第七区だと? わしが沈めた谷ではないか」
侯爵は息子の顔と権利書と男爵の顔を順番に眺めて、もう一度権利書に目を落とした。
「……で、誰が、何を、いくらで買ったと?」
「ち、父上、僕は……セリーヌに、湖の見える別荘を……」
「湖の見える、だと?」
侯爵が背後を振り返る。
「バスティアン、図面を出せ」
「はい、閣下」
バスティアン様は卓の皿を手早く脇によけ、筒から大きな図面を広げた。
新しいソレル湖の測量図だ。
湖の部分は淡い青で塗られていて、その青の下に、沈んだ谷の旧地番が細い字で並んでいる。
その青を塗ったのは私だ。
三日がかりで、筆の跡が残らないように。
招待客たちが図面を覗きこもうと、我先に卓に群がってきた。
「第七区十四番は、ここです」
バスティアン様の指が湖の真ん中あたりを差す。
どう見ても、青の、ど真ん中だった。
「まあ……本当に湖の中ですわ」
「湖の底の別荘って、お魚が住んでいるのかしら?」
「おい、うちの釣り場はこの辺りか? ほう、十四番の隣とは」
招待客たちが好き勝手に感想を述べ合い、セリーヌ様の顔からみるみる血の気が引いていく。
「水深は」
「十二メートルです、閣下。正確には十二・四」
バスティアン様は表情一つ変えずに答えた。
私の記憶より、小数点以下が細かい。
さすがは堰堤を設計した人だ。
「……あの、金貨三千枚、と聞こえましたけれど」
私が小声で付け加えると、侯爵の顔色が一変した。
「三千枚だと? お前にそんな金があるはずがない。……まさか、わしの留守中に金庫の鍵を――」
「ち、違うんです、父上! 男爵が、湖の見える別荘は今しか手に入らないって……!」
「この、大馬鹿者がぁっ!」
侯爵の怒声で、シャンデリアの飾りがびりびりと震えた。
招待客の何人かが思わず後ずさった。
「マルボー! 十四番の補償金は、わしの判で払ったはずだぞ! 王家が補償金を払った土地を売り直すとは、王家を欺いたも同然だぞ! 治水卿として見過ごせん。衛兵を呼べ!」
「お、お待ちを、侯爵様! これには深いわけが――」
「深いのは湖だけで十分だ!」
男爵は青い顔でその場に座りこんだ。
セリーヌ様は父親とレナルド様を見比べて、じりじりと後ずさりを始める。
「セリーヌ……?」
「わ、わたし、別荘なんて最初から欲しくなかったんですのよ? 父が勝手に……ご、ごめんあそばせっ!」
水色のドレスが人垣の向こうに消えていく。
逃げ足だけは見事なものだった。
呆然とその方向を見ていたレナルド様は、やがてぎこちなく私に向き直った。
「ナタリー……君、本当に賢いんだな。僕が間違ってた。婚約破棄は取り消すよ。な? 君こそ侯爵家の――」
レナルド様の手が、私の手首に伸びてくる。
一瞬だけ、胸の奥が揺れた。
二年間、この人に地図の面白さを分かってほしいと願っていた自分が、まだ心の隅に残っていたらしい。
だが、この人が今見ているのは私ではない。
怒鳴っている父親から逃げこめる場所を探しているだけだ。
「いいえ。お断りいたします」
「なっ……」
「去年の誕生日に差し上げた狩り場の地図、酒杯の下敷きにしていらしたでしょう?」
「そ、それは……」
「地図ばかり眺めている地味な女ですので。あなたを眺める予定は、もう私の地図にございませんわ」
伸ばされた手が届く前に、横から図面の筒がすっと差しこまれた。
「失礼。ナタリー嬢、閣下が図面の確認をお願いしたいそうです」
バスティアン様だった。
筒の端でレナルド様の手をやんわりと押し戻し、私を卓の向こうに促す。
侯爵は男爵を引き立てる衛兵への指図で忙しく、図面のことなど一言も口にしていない。
……今の、絶対に嘘よね?
やがて息子を叱り終えた侯爵は、私に深々と頭を下げた。
「ナタリー嬢。愚息の非礼、まことに申し訳ない。婚約の解消は、全面的にこちらの非として届け出よう」
「ありがとうございます、侯爵様。……あの、レナルド様をあまり叱りすぎませんように」
「いや、叱りすぎるくらいでちょうどいいのだ」
顔を上げると、バスティアン様と目が合った。
図面の筒を抱えたまま、口の端がわずかに上がっている。
この人のこんな顔は初めて見た。
宴は早々にお開きになった。
帰りの馬車まで送ってくれたのも、バスティアン様だった。
侯爵邸の長い回廊を、彼は私の半歩うしろを無言で歩き、扉の前で立ち止まって、ようやく口を開いた。
「……あの地図、酒杯の下敷きにされていたんですか」
「聞こえていらしたの?」
「すぐ横にいましたので」
何を言うのかと待っていると、彼は真面目な顔で付け足した。
「もったいない。僕なら額に入れます」
馬車の扉が閉まったあとで、私はしばらく顔を両手で覆っていた。
御者に「お加減でも?」と心配されるまで。
◇
婚約の解消は、三日で正式に受理された。
父は侯爵家からの丁重な詫び状を三度読み返し、「水深十二メートルか」と呟いて、なぜか大笑いした。
地図局の同僚たちは、私が出勤すると拍手で迎えてくれた。
局長には「旧地番の書き入れ、手を抜かなくてよかったな」と肩を叩かれた。
あの作業は退屈だと散々ぼやかれていたので、少しばかり胸を張りたい気分だった。
そして一週間後、私はソレル湖の上にいた。
小舟を漕いでいるのはバスティアン様だ。
湖の視察に地図局から一人付けてほしい、と治水局から名指しで依頼が来たのだという。
名指しされたのが私なのは、偶然ではないと思う。
依頼状の署名の筆跡に、見覚えがあったので。
秋の湖は鏡みたいに静かで、空の青を映していた。
図面に塗った青より、少し深い色だ。
「この辺りです」
バスティアン様が櫂を止めた。
「第七区の十四番、真上ですよ」
覗きこんでも、深い緑色の水しか見えない。
白い門柱も林檎の木も、十二・四メートル下で眠っている。
「マルボー男爵は、補償金と三千枚の両方を返すことになりました。爵位も危ないそうです」
「セリーヌ様は?」
「田舎の伯母上のところで、しばらく謹慎だとか」
「レナルド様は?」
「侯爵様の命令で、来月から下流の水路工事の現場に入ります。下働きから」
「……まあ。お父様のお仕事を、やっと間近でご覧になれますわね」
ちょっと気の毒で、ちょっと胸がすく。
私はそっと水面に指をひたした。
ひやりと冷たい。
「あの夜の図面の確認、侯爵様は一言もおっしゃっていませんでしたよね?」
「……気づいてましたか」
「地図局の人間は、細かいところを見るのが仕事ですもの」
バスティアン様は気まずそうに櫂を握り直した。
「あの人、あなたの手首をつかもうとしてたので。つい」
つい、で治水卿の名前を使う人がいるだろうか。
胸の奥がくすぐったくなって、私は湖面に目を逃がした。
「去年の夏の終わりに、ここを一緒に測りましたね」
「覚えていらしたんですか?」
「雨の日に、あなたが測量板を抱えて離さなかったのも覚えてます。それと、十四番の庭の林檎をかじって、酸っぱいって顔をしかめてたのも」
「わ、忘れてください、それは!」
「忘れられませんよ。あの日から、ずっと」
バスティアン様は櫂を握りしめたまま、湖面を見ている。
日に焼けた首筋がうっすら赤い。
やがて彼は足もとの籠から林檎を一つ取り出した。
「市場で買ってきました。今度のは甘いやつです。……たぶん」
「たぶん、なんですか?」
「味見したら、怒られそうな気がしたので」
受け取って、一口かじる。
甘い。
ちゃんと甘い。
「……地図の話を退屈そうにせずに聞いてくれたのは、あなたが初めてでした」
「退屈なわけないです。等高線の話をしてるときのあなた、すごく楽しそうなので」
ちょっと待って。
そういうことを、そんな真顔で言わないでほしい。
明日から等高線の話しかできなくなってしまうじゃない。
「それで、その……」
バスティアン様がようやくこちらを向いた。
「岸に、林檎の木を植えようと思うんです。いつか家を建てるなら、その横に。湖の上じゃなくて、ちゃんと岸に」
「……それは、つまり」
「湖の見える家です。今度は本物の。……そこに、僕と一緒に住んでもらえませんか。結婚して、という意味で」
湖の上にいるのに、頬だけが日向にいるみたいに熱い。
返事をしなければ。
淑女らしく、落ち着いて、気の利いたことを。
「で、でしたら、地番は私が振りますわ」
口から出たのは、それだった。
バスティアン様が目を丸くして、それから声を立てて笑い出した。
小舟が揺れて、湖面に輪が広がっていく。
「それは……承知していただけた、ということで、いいんですか?」
「地番を振るのは、そこに住む人の特権ですもの」
言ってから、顔が一気に熱くなった。
バスティアン様は櫂を置いて、私の手をそっと取った。
大きくて少しかさついた、測量をする人の手だった。
「じゃあ、一番は二人の家に」
「ええ。……二人の家に」
地図局の新しい地図には、来年、岸辺に小さな家が一つ増えるかもしれない。
地番はもう決めてある。
湖岸区、一番。
備考の欄には、こっそりこう書き添えるつもりだ。
――正面の湖底に、酸っぱい林檎の木あり。




