「お迎えに参りました」――退屈していた未亡人は、無口な執事への恋に気づかない
「院長ーッ!! トミーがまた窓割ったー!!」
朝六時。
聖マリア孤児院に、サラ・ヴィンチェスターの絶叫が響いた。
「またぁ!?」
「今回はわざとじゃないよ!」
「前回はわざとだったの!?」
「前回は気合い入ってた!」
「何の気合いよ!!」
ぎゃはは、と子供たちが笑う。
床を走る足音。泣き声。誰かが転び、誰かがパンを奪い、誰かがそれを追いかけている。
三か月前まで、西海岸有数の富豪未亡人だった女は、今や完全に孤児院の院長先生だった。
「お嬢様、お下がりください」
静かな声と同時に、サラの頭上へ降ってきた木片がぱし、と掴まれる。
ギルバートだった。
今日も完璧な燕尾服姿である。
こんなボロ孤児院にいるのに、なぜか靴まで光っている。
「ありがとう、ギルバート!」
「窓修理代が増えますので」
「もう少し私を心配しなさいよ!」
「しております」
淡々と言う。
だが片手は、さりげなくサラの肩を庇ったままだった。
それに気づいて、少しだけ胸がむずむずする。
最近よくこうなる。
原因は分からない。
「院長ー! 朝飯まだー!」
「今やるわよ!」
「ギルバートのやつがいい!」
「完全に私より人気あるじゃない!!」
厨房ではすでにギルバートがスープを仕上げていた。
湯気の向こうで、子供たちが尻尾を振る犬みたいな顔をしている。
「ずるいわ……」
「努力の差かと」
「腹立つ!」
だが、笑ってしまう。
こういう騒がしい朝を、少し前のサラは知らなかった。
◇◆◇
サラ・ヴィンチェスターは退屈していた。
――三か月前までは。
夫の遺した莫大な財産。
サンフランシスコの大邸宅。
最新のドレス。夜ごとの舞踏会。
何でも持っていた。
だが、毎日が死ぬほどつまらなかった。
「ギルバート。何か面白いことないの?」
「昨日は馬車を金色に塗っておられました」
「もう飽きた」
「左様でございますか」
この執事、昔から全然動じない。
長身で、無駄に顔が良くて、社交界の令嬢たちをざわつかせるくせに、本人はまるで興味なし。
サラにも一歩引いていた。
いつだってそうだ。
助けてくれるのに、踏み込んではこない。
だから少しだけ腹が立つ。
そんなある日。
サラは偶然、港近くの孤児院を見つけた。
壁はひび割れ、窓は欠け、子供たちは痩せていた。
「寄付を……」
頭を下げる老人を見て、サラは眉を寄せた。
「ギルバート」
「嫌な予感しかしません」
「この孤児院、助けるわ」
「やはり」
十五分後には、なぜか新院長になっていた。
◇◆◇
「院長先生ー! パン焦げてるー!」
「きゃあああ!!」
現実は過酷だった。
朝から晩まで大騒ぎ。
洗濯物は消える。
ストーブは壊れる。
五分に一回誰かが泣く。
「静かになさいッ!!」
叫んだ瞬間。
バシャア!!
「きゃああああ!?」
頭から冷水。
子供たち大爆笑。
「また!?」
「成功したー!」
「成功じゃないのよ!!」
ギルバートが無言でタオルを差し出した。
「お風邪を召します」
「知ってたなら止めなさい!」
「三日前から設置されておりました」
「見守るな!!」
子供たちが転げ回る。
サラも結局、吹き出してしまった。
不思議だった。
社交界では一度も笑えなかったのに。
◇◆◇
その頃からだった。
ギルバートを見ると、変に落ち着かなくなったのは。
「ギルバート、これ運んで」
「はい」
「……重くないの?」
「お嬢様よりは」
「それ遠回しに失礼じゃない!?」
だがギルバートは少しだけ笑っていた。
本当に少しだけ。
それを見るたび、胸が変な音を立てる。
そんな時だった。
「はじめまして。ダミアンです」
孤児院の隣へ、若い実業家が引っ越してきた。
柔らかな笑顔。
育ちの良さそうな物腰。
子供にも優しい。
しかも顔がいい。
(素敵ーーーー!!)
サラの脳内で鐘が鳴った。
「ぜひお茶を!」
「え?」
「ギルバート、お茶!」
「すでに」
「仕事が早い!」
だが。
サラが浮かれて喋る横で、ギルバートは妙に静かだった。
◇◆◇
「ピクニックをするわ!」
「規模は」
「恋が始まりそうな感じで」
「承知しました」
三時間後。
芝生には高級料理が並んでいた。
ローストビーフ。
シャンパン。
高級チーズ。
「多くないですか?」とダミアンが笑う。
「恋は勢いよ!」
その瞬間。
「肉だァァァ!!」
子供たち突撃。
「あっ!! それ高級ローストビーフ!!」
「うめえ!!」
「待ちなさい! それ恋愛用よ!」
「恋愛用の肉って何!?」
五分後。
料理壊滅。
サラは芝生へ崩れ落ちた。
「私の恋が……」
「食欲に敗北しましたね」
とギルバート。
ダミアンは腹を抱えて笑っていた。
「でも、こういうの好きですよ」
「……本当に?」
「ええ。生きてる感じがする」
優しい笑顔だった。
でも。
なぜかサラは、その言葉を聞いた瞬間、隣に立つギルバートのほうを見てしまった。
彼は笑っていなかった。
◇◆◇
冬前。
孤児院の資金が尽きた。
パンも石炭も足りない。
子供たちまで静かだった。
「チャリティ・バザーを開きましょう」
提案したのはダミアンだった。
新聞記者を呼び、富豪たちから寄付を集める。
サラは机を叩いた。
「素敵!」
そこからは地獄だった。
「“院長を殴れるコーナー”って何!?」
「一回一セント!」
「誰が殴られるの!?」
「院長!」
「却下よ!!」
「ギルバート写真館やろうぜ!」
「絶対売れる!」
「やめなさい!」
だが当日。
なぜか大繁盛した。
令嬢たちはギルバート写真館へ殺到。
子供たちは暴れ回り、新聞記者は笑いながら記事を書く。
気づけば寄付金箱は札束だらけだった。
孤児院は救われたのだ。
◇◆◇
その夜。
ダミアンが高級レストランへ連れていってくれた。
ガス灯の灯る店内。
夢みたいな時間だった。
でも。
「僕は政界へ進みたいんです」
「まあ、素敵」
「今回の件で名前も広がりました。慈善活動は印象がいいですからね」
サラの笑顔が止まった。
「……印象?」
「ええ。あなたの人気も使えば、さらに――」
その瞬間。
胸がすっと冷えた。
悪い人じゃない。
でも違った。
子供たちを見ていた時の目と。
今の目は。
「ごめんなさい、ダミアンさん」
サラは静かに立ち上がった。
「私、勘違いしてたみたい」
◇◆◇
港の風は冷たかった。
遠くで霧笛が鳴る。
「お嬢様」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、ギルバートが立っている。
「……どうしてここに」
「お迎えに参りました」
いつもの声。
なのに。
その一言だけで、泣きそうになる。
「私、見る目なかったわね」
「いいえ」
ギルバートは静かに首を振った。
「お嬢様は、真剣だっただけです」
優しい声だった。
昔からずっと隣にいたのに、今さら気づく。
この人はいつも、サラが泣きそうな時に来てくれる。
「……ギルバート」
「はい」
「あなた、ずっと私を助けてくれてたのね」
「執事ですので」
「またそれ」
思わず笑う。
するとギルバートも、少しだけ口元を緩めた。
その顔に、胸がどくりと鳴る。
落ち着くのに。
苦しい。
でも嫌じゃない。
「帰りましょう、お嬢様」
差し出された手を、サラはそっと握った。
温かかった。
◇◆◇
「院長ー! 朝飯ー!」
「ギルバートが作ったわよ!」
「やったー!」
「今日も水バケツやる?」
「やめなさい!!」
聖マリア孤児院は今日もうるさい。
笑い声も、怒鳴り声も絶えない。
でも最近、サラはこの騒がしさが好きだった。
ふと隣を見る。
そこにはいつも通り、ギルバートがいる。
「……ねえ、ギルバート」
「はい」
「私、本当の恋ってちょっと分かったかも」
ギルバートは少しだけ目を細めた。
「それは何よりです」
「でもまだ秘密」
「承知しました」
春の風が吹き抜ける。
子供たちの笑い声の中で、サラはそっと笑った。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
昔々のお蔵入り。
サラは勢いだけで孤児院に突っ込んでいきましたが、たぶん本人はかなり楽しかったと思います。
ギルバートは大変だったと思いますが笑
十九世紀アメリカの「成金文化」と「貧民街の雑多さ」を混ぜるのがすごく楽しかったです。
少しでもクスッとしていただけたら、、、これ幸い!




