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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

おとなののんびりシリーズ

「お迎えに参りました」――退屈していた未亡人は、無口な執事への恋に気づかない

作者: 茨野 三智
掲載日:2026/05/24

 「院長ーッ!! トミーがまた窓割ったー!!」


 朝六時。


 聖マリア孤児院に、サラ・ヴィンチェスターの絶叫が響いた。


「またぁ!?」


「今回はわざとじゃないよ!」


「前回はわざとだったの!?」


「前回は気合い入ってた!」


「何の気合いよ!!」


 ぎゃはは、と子供たちが笑う。


 床を走る足音。泣き声。誰かが転び、誰かがパンを奪い、誰かがそれを追いかけている。


 三か月前まで、西海岸有数の富豪未亡人だった女は、今や完全に孤児院の院長先生だった。


「お嬢様、お下がりください」


 静かな声と同時に、サラの頭上へ降ってきた木片がぱし、と掴まれる。


 ギルバートだった。


 今日も完璧な燕尾服姿である。


 こんなボロ孤児院にいるのに、なぜか靴まで光っている。


「ありがとう、ギルバート!」


「窓修理代が増えますので」


「もう少し私を心配しなさいよ!」


「しております」


 淡々と言う。


 だが片手は、さりげなくサラの肩を庇ったままだった。


 それに気づいて、少しだけ胸がむずむずする。


 最近よくこうなる。


 原因は分からない。


「院長ー! 朝飯まだー!」


「今やるわよ!」


「ギルバートのやつがいい!」


「完全に私より人気あるじゃない!!」


 厨房ではすでにギルバートがスープを仕上げていた。


 湯気の向こうで、子供たちが尻尾を振る犬みたいな顔をしている。


「ずるいわ……」


「努力の差かと」


「腹立つ!」


 だが、笑ってしまう。


 こういう騒がしい朝を、少し前のサラは知らなかった。


 ◇◆◇


 サラ・ヴィンチェスターは退屈していた。


 ――三か月前までは。


 夫の遺した莫大な財産。


 サンフランシスコの大邸宅。


 最新のドレス。夜ごとの舞踏会。


 何でも持っていた。


 だが、毎日が死ぬほどつまらなかった。


「ギルバート。何か面白いことないの?」


「昨日は馬車を金色に塗っておられました」


「もう飽きた」


「左様でございますか」


 この執事、昔から全然動じない。


 長身で、無駄に顔が良くて、社交界の令嬢たちをざわつかせるくせに、本人はまるで興味なし。


 サラにも一歩引いていた。


 いつだってそうだ。


 助けてくれるのに、踏み込んではこない。


 だから少しだけ腹が立つ。


 そんなある日。


 サラは偶然、港近くの孤児院を見つけた。


 壁はひび割れ、窓は欠け、子供たちは痩せていた。


「寄付を……」


 頭を下げる老人を見て、サラは眉を寄せた。


「ギルバート」


「嫌な予感しかしません」


「この孤児院、助けるわ」


「やはり」


 十五分後には、なぜか新院長になっていた。


 ◇◆◇


「院長先生ー! パン焦げてるー!」


「きゃあああ!!」


 現実は過酷だった。


 朝から晩まで大騒ぎ。


 洗濯物は消える。


 ストーブは壊れる。


 五分に一回誰かが泣く。


「静かになさいッ!!」


 叫んだ瞬間。


 バシャア!!


「きゃああああ!?」


 頭から冷水。


 子供たち大爆笑。


「また!?」


「成功したー!」


「成功じゃないのよ!!」


 ギルバートが無言でタオルを差し出した。


「お風邪を召します」


「知ってたなら止めなさい!」


「三日前から設置されておりました」


「見守るな!!」


 子供たちが転げ回る。


 サラも結局、吹き出してしまった。


 不思議だった。


 社交界では一度も笑えなかったのに。


 ◇◆◇


 その頃からだった。


 ギルバートを見ると、変に落ち着かなくなったのは。


「ギルバート、これ運んで」


「はい」


「……重くないの?」


「お嬢様よりは」


「それ遠回しに失礼じゃない!?」


 だがギルバートは少しだけ笑っていた。


 本当に少しだけ。


 それを見るたび、胸が変な音を立てる。


 そんな時だった。


「はじめまして。ダミアンです」


 孤児院の隣へ、若い実業家が引っ越してきた。


 柔らかな笑顔。


 育ちの良さそうな物腰。


 子供にも優しい。


 しかも顔がいい。


(素敵ーーーー!!)


 サラの脳内で鐘が鳴った。


「ぜひお茶を!」


「え?」


「ギルバート、お茶!」


「すでに」


「仕事が早い!」


 だが。


 サラが浮かれて喋る横で、ギルバートは妙に静かだった。


 ◇◆◇


「ピクニックをするわ!」


「規模は」


「恋が始まりそうな感じで」


「承知しました」


 三時間後。


 芝生には高級料理が並んでいた。


 ローストビーフ。


 シャンパン。


 高級チーズ。


「多くないですか?」とダミアンが笑う。


「恋は勢いよ!」


 その瞬間。


「肉だァァァ!!」


 子供たち突撃。


「あっ!! それ高級ローストビーフ!!」


「うめえ!!」


「待ちなさい! それ恋愛用よ!」


「恋愛用の肉って何!?」


 五分後。


 料理壊滅。


 サラは芝生へ崩れ落ちた。


「私の恋が……」


「食欲に敗北しましたね」


 とギルバート。


 ダミアンは腹を抱えて笑っていた。


「でも、こういうの好きですよ」


「……本当に?」


「ええ。生きてる感じがする」


 優しい笑顔だった。


 でも。


 なぜかサラは、その言葉を聞いた瞬間、隣に立つギルバートのほうを見てしまった。


 彼は笑っていなかった。


 ◇◆◇


 冬前。


 孤児院の資金が尽きた。


 パンも石炭も足りない。


 子供たちまで静かだった。


「チャリティ・バザーを開きましょう」


 提案したのはダミアンだった。


 新聞記者を呼び、富豪たちから寄付を集める。


 サラは机を叩いた。


「素敵!」


 そこからは地獄だった。


「“院長を殴れるコーナー”って何!?」


「一回一セント!」


「誰が殴られるの!?」


「院長!」


「却下よ!!」


「ギルバート写真館やろうぜ!」


「絶対売れる!」


「やめなさい!」


 だが当日。


 なぜか大繁盛した。


 令嬢たちはギルバート写真館へ殺到。


 子供たちは暴れ回り、新聞記者は笑いながら記事を書く。


 気づけば寄付金箱は札束だらけだった。


 孤児院は救われたのだ。


 ◇◆◇


 その夜。


 ダミアンが高級レストランへ連れていってくれた。


 ガス灯の灯る店内。


 夢みたいな時間だった。


 でも。


「僕は政界へ進みたいんです」


「まあ、素敵」


「今回の件で名前も広がりました。慈善活動は印象がいいですからね」


 サラの笑顔が止まった。


「……印象?」


「ええ。あなたの人気も使えば、さらに――」


 その瞬間。


 胸がすっと冷えた。


 悪い人じゃない。


 でも違った。


 子供たちを見ていた時の目と。


 今の目は。


「ごめんなさい、ダミアンさん」


 サラは静かに立ち上がった。


「私、勘違いしてたみたい」


 ◇◆◇


 港の風は冷たかった。


 遠くで霧笛が鳴る。


「お嬢様」


 聞き慣れた声だった。


 振り返ると、ギルバートが立っている。


「……どうしてここに」


「お迎えに参りました」


 いつもの声。


 なのに。


 その一言だけで、泣きそうになる。


「私、見る目なかったわね」


「いいえ」


 ギルバートは静かに首を振った。


「お嬢様は、真剣だっただけです」


 優しい声だった。


 昔からずっと隣にいたのに、今さら気づく。


 この人はいつも、サラが泣きそうな時に来てくれる。


「……ギルバート」


「はい」


「あなた、ずっと私を助けてくれてたのね」


「執事ですので」


「またそれ」


 思わず笑う。


 するとギルバートも、少しだけ口元を緩めた。


 その顔に、胸がどくりと鳴る。


 落ち着くのに。


 苦しい。


 でも嫌じゃない。


「帰りましょう、お嬢様」


 差し出された手を、サラはそっと握った。


 温かかった。


 ◇◆◇


「院長ー! 朝飯ー!」


「ギルバートが作ったわよ!」


「やったー!」


「今日も水バケツやる?」


「やめなさい!!」


 聖マリア孤児院は今日もうるさい。


 笑い声も、怒鳴り声も絶えない。


 でも最近、サラはこの騒がしさが好きだった。


 ふと隣を見る。


 そこにはいつも通り、ギルバートがいる。


「……ねえ、ギルバート」


「はい」


「私、本当の恋ってちょっと分かったかも」


 ギルバートは少しだけ目を細めた。


「それは何よりです」


「でもまだ秘密」


「承知しました」


 春の風が吹き抜ける。


 子供たちの笑い声の中で、サラはそっと笑った。


 最後まで読んでくださってありがとうございました!

 昔々のお蔵入り。

 サラは勢いだけで孤児院に突っ込んでいきましたが、たぶん本人はかなり楽しかったと思います。

 ギルバートは大変だったと思いますが笑

 十九世紀アメリカの「成金文化」と「貧民街の雑多さ」を混ぜるのがすごく楽しかったです。

 少しでもクスッとしていただけたら、、、これ幸い!


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