第9話 揺らぐ魂、灯火の願い
迅はその夜、なかなか眠れなかった。
布団に横たわっても胸の奥がざわざわして、あの影の言葉が繰り返し響く。
――“カガリ”
――“王”
――“戻れ”
そんなはずはない、と理性では思うのに、胸の中心に刺さった棘のような違和感は消えない。
「……俺が、影の王……?」
声に出してみても、現実味なんかまるでなかった。
ただひとつだけ確かに分かるのは――
それを聞いた瞬間、心の奥が“うなった”ということ。
まるで、封じられた何かが目を覚ましかけているかのように。
そのとき。
襖が、こつん、と控えめに叩かれた。
「迅……起きてる?」
灯火の声だ。
迅は慌てて身を起こし、返事をした。
「起きてるよ。入っていいよ」
灯火はそっと襖を開け、手に湯気の立つ木杯を持っている。
「寝られないと思って……温い薬湯、持ってきた」
微笑む灯火は、どこか心ここにあらずで、目の奥に不安を隠しきれていなかった。
迅は受け取ると、口をつけて熱い息を吐いた。
「ありがとう……灯火も寝てないんだ?」
「迅のこと、心配だから」
灯火はそのまま、迅の隣に静かに座った。
二人の間を夜風が通り抜ける。
灯火の揺れる髪の香りがほんのり漂う。
「ねぇ迅……さっき、蓮生さんから詳しく聞いたの」
灯火は膝を抱えながら、ぽつりと話し始めた。
「“境渡り”の中でも特に危険なのが、魂に“二つの名”を持ってしまった者だって」
「二つの名……?」
「うん。一つはこっちの世界の名。もう一つは、異界で呼ばれる名。……迅が今呼ばれた、“カガリ”みたいに」
灯火の声が震える。
迅はその震えが怖さによるものだと気づいた。
「灯火……俺のこと、怖い?」
「怖いんじゃない……ただ、失うのが嫌なだけ」
灯火は俯きながら、そっと迅の袖をつまんだ。
「“カガリ”が目覚めれば、迅の魂は、影の世界のほうへ引っ張られ始める。
……もう、戻ってこれなくなるかもしれないんだって」
胸がギュッと締め付けられた。
灯火は続ける。
「迅も感じてると思う。“それ”が、内側から呼び覚まされてること。
だからこそ、私、すごく……すごく怖くて……」
声が震え、目に涙がにじむ。
迅は思わず灯火の肩に手を置いた。
「灯火、俺は――」
言葉を紡ごうとしたとき。
灯火が静かに顔を上げ、少しだけ唇を噛みしめた。
「もし……どうしても記憶が戻りそうになったら、私が……迅の魂を“結び留める”」
「結び留める?」
灯火は小さく頷いた。
「“魂鎖”――術師だけが使える危険な術。
二人の魂を短時間だけ“つなぐ”技……。
本来は外で迷った魂を戻すための縛りだけど、境渡りの揺らぎを抑えることもできる」
迅は息を飲んだ。
魂をつなぐ。
自分と灯火が――。
「……でも、それって」
「うん。危険。下手すると、私の魂が迅に引っ張られるし……最悪、二人とも戻れなくなるかもしれない」
灯火はそれでも、毅然とした目をしていた。
「それでも私は、迅を失いたくない。
“カガリ”なんて呼ばせたくない。
迅は……迅だよ」
その言葉に、胸の奥のざらつきが少し和らいだ。
「ありがとう、灯火。俺も……」
そう言いかけたときだった。
――パキィン!!
外で激しい破裂音が響いた。
灯火が目を見開く。
「迅……来た!」
迅は立ち上がり、窓の外を見る。
青藍院を覆う結界が、まるで押し広げられるように波打ち、白いひびが走っていた。
「嘘……結界が破られそう……!」
続けざまに、黒い影が結界の外側をぐるりと取り巻く。
闇が渦のように回転し、中心に“裂け目”がじわじわと広がる。
――そこで、聞こえた。
『……カガリ……』
『……応エヨ……』
『……門ヲ、開ケ……』
灯火が迅の手を掴む。
その手は震えている。
「迅、来ないで……来ちゃだめ、あの声に返事しちゃだめ!」
迅の胸の中心が燃えるように熱くなった。
呼ばれている。
あの影の世界が、自分の名を求めている。
その名が――自分の中で疼いている。
「……俺の名前……」
言いかけた瞬間、灯火が迅を抱きしめた。
「違う! 迅の名前は“迅”だよ!
“カガリ”なんかじゃない!」
灯火の声が震え、涙が迅の胸を濡らす。
外で結界が軋む音が響く。
黒い影が裂け目から腕を伸ばし、青藍院へ侵入しようとしていた。
――そのとき。
迅の胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。
輝くような熱が全身に走る。
影が叫ぶ。
『カガリ……!!』
灯火が叫ぶ。
「迅、だめ――!!」
その瞬間、迅の口から、無意識に言葉がこぼれた。
「……やめろ、“俺の名を呼ぶな”」
影たちが一斉にざわめく。
灯火が息を飲む。
迅の瞳が、ふつふつと赤く燃え上がった。
「“火守の名”は……俺のもんじゃねぇ」
闇の裂け目がぴたりと動きを止める。
影たちの声が途絶える。
灯火は震えながら、迅の顔を見つめた。
「迅……今のは……?」
だが迅自身も、何が起きたのか分からなかった。
ただひとつ分かる。
――“カガリ”は、確かに自分の中に存在する。
でも今の迅は、その呼び声に抗える。
その瞬間、青藍院の奥から蓮生の声が響いた。
「迅、灯火! そこを離れろ!!」
蓮生が駆け込むのと同時に、闇の裂け目が再び動き始める。
影たちの叫びは、形を持ち始めていた。
迅の知らぬ“過去”が、完全に目覚めようとしていた。




