第7話 灯火の秘密、そして呼ばれる名
朝霧の薄い光が障子の向こうで揺れていた。
迅はゆっくり体を起こす。昨夜の重さはだいぶ抜けていたが、胸の奥のざわつきだけは消えていない。
部屋の前で誰かが待っている気配を感じ、障子を開けると、きちんと正座した灯火がいた。
「おはよう、迅。体調は?」
「うん、まだちょっと変だけど……動けるよ」
灯火はほっと胸を撫で下ろした。
その仕草が妙に可愛くて、迅は一瞬言葉を失う。
「じゃあ、行こっか。昨日の影、あれがどこから来たのか調べなきゃ」
灯火が立ち上がり、青藍院の奥へ歩き出す。
迅はその後ろ姿を見つめた。
背は小柄なのに、不思議と頼もしく見える。
歩きながら、灯火はぽつりと話し始めた。
「迅。昨日、蓮生さんと何を話したの?」
「……俺が、“境渡り”かもしれないって言われた」
灯火の足が止まる。
振り返った彼女の表情は驚きと、ほんのわずかな痛みを含んでいた。
「――やっぱり」
「え?」
「ううん、なんでもない。でも……気をつけてね。境渡りって、普通の人間より“影”に狙われやすいから」
灯火は言葉を濁す。
その目は、隠したい秘密を抱えた人の目だった。
迅は思い切って尋ねた。
「灯火って……その、何者なの?」
灯火は一瞬たじろぎ、それから微笑んだ。
「ただの巫だよ。この青藍院を守るために育てられた、“術を扱える人間”」
「……それだけ?」
灯火は少しだけ視線をそらした。
「迅が思ってるほど、大した存在じゃないよ」
明らかに誤魔化している。
でも、追及するより前に、二人は青藍院の裏庭へ着いた。
そこはいつもの静寂が嘘みたいだった。
湿った土に、黒い“痕”が散らばっている。
灯火がしゃがみこみ、地面を触る。
「……ここだ。昨夜の影は、ここから侵入したんだね」
黒い痕――影が通った跡らしい。
霊力の波がざわつくのが、迅にも分かる。手を近づけた瞬間、痕が微かに反応した。
「うわっ……」
「迅! 触っちゃ――」
灯火が叫ぶより早く、影の痕が“生き物”みたいに蠢いた。
次の瞬間、迅の視界が真っ黒に染まった。
――――
闇の中。
足元も分からない。
風もないのに、どこかから声だけがする。
『やっと……』
『探した……探した……』
それは複数の声が重なったような、不気味なくせに妙に懐かしい響きだった。
『境渡り……“欠片”……返せ……』
「欠片? 何の話だよ」
問いかけると、闇がざざっと波打った。
『お前は持っている。ずっと昔に……こちらから“奪われたもの”を……』
「俺が? 奪った? そんな覚え――」
『ある。魂に刻まれている』
その瞬間、冷たい手が迅の胸に触れた気がした。
心臓が、ひいっと跳ねる。
『返せ……“カガリ”……』
「カガ……?」
その名は、聞いたこともないはずなのに、胸が刺すように痛んだ。
と――。
「迅!」
灯火の声が闇を引き裂いた。
強い光が差し込み、闇がぐにゃりと歪む。
次の瞬間、迅は裏庭の地面に倒れ込んでいた。
「大丈夫!?」
灯火が抱きかかえるように寄り添う。
迅は荒い呼吸のまま、胸を押さえた。
「さっき……影が、俺の名前を……いや、違う、“カガリ”って……」
灯火の表情が凍った。
迅はその顔を見て確信する。
「灯火……知ってるの?」
灯火は唇を震わせた。
隠すことに限界が来たようだった。
そして――。
「“カガリ”は……迅の魂に刻まれている“別の名”だよ」
空気が止まった。
「君がまだ思い出してないだけで……迅は、この世界の“外側”に関わったことがある。
影が君を探してるのは、そのせい」
雷に打たれたみたいに、頭の中がしびれる。
「俺が……この世界の外側……?」
灯火は震える手で迅の頬に触れた。
「思い出さなくていい。むしろ、思い出さない方がいい。
迅は迅でいてくれれば、それで――」
その言葉が終わる前に、
裏庭の奥の闇が、音もなく裂けた。
その向こうから、薄い影が一体、ゆらりと姿を現した。
まるで“呼ばれた”ように。
迅を探すためだけに。
灯火が迅の手を強く握る。
「迅、絶対に離れないで!」
影が近づくたび、迅の胸の奥――“刻まれた何か”が激しく脈打った。
影は立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。
『――カガリ』
その名が呼ばれた瞬間、迅の周囲の空気が弾け飛んだ。




