第6話 目覚めるものたち
薄暗い天井が、波打つように揺れていた。
視界がゆっくり焦点を結ぶと、木の梁、障子、柔らかな灯り――青藍院の客間だと分かる。
迅は、重い体をどうにか起こそうとして、すぐに後悔した。
「……頭、割れそう……」
ズキリと痛みが走る。
自分の身体じゃないみたいなだるさ。胸の奥には、まだあの“影”が残していった余韻のような冷たさがある。
「起きた?」
ふわりと障子が開き、灯火が入ってきた。
その顔を見た瞬間、迅は「あ、怒られる」と直感した。
案の定、灯火は柔らかく微笑みながら、目だけがぜんぜん笑っていない。
「……私を庇って無茶するのは感謝するけどさ。あれ、普通触れたらただじゃ済まないんだよ?」
「いや……なんか、動いちゃったんだよ」
「動いちゃった、じゃないの!」
言葉の勢いのわりに、灯火は迅の枕元に膝をつき、そっとタオルを額に当てた。
怒っているはずなのに、その手つきは驚くほど優しい。
「ごめん……」
そう言うと、灯火は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……ありがとう。でも、本当に怖かったんだから」
その声は震えていて、迅は返す言葉を失った。
しばらく沈黙が落ち、それを破ったのは灯火の小さな呟きだった。
「迅。あなたの中に……妙な反応が出てた」
「反応?」
灯火は頷く。
「影に触れたとき、結界の術式が黄泉側に一瞬引っ張られたの。普通なら、霊力が削られて倒れるだけ。でも迅の場合……逆に相手の側に同調しかけてた」
「意味が分からん……俺が影側ってこと?」
「ちがうちがう!」
灯火は慌てて首を振った。
「あなたが危険だとか、そういう意味じゃない。ただ――」
言いづらそうに唇を噛む。
「迅って、もしかすると“向こう”と波長が合いすぎてる気がする」
向こう。
あの影が来た“世界”か。
その言葉が胸に刺さる。
が、その時。
――コン。
部屋の襖が控えめに叩かれた。
灯火が開けると、立っていたのは青藍院の主・蓮生だった。
白い衣、落ち着いた佇まい。
だが、その瞳だけはいつになく鋭い。
「迅、具合はどうだ」
「まぁ……まだ重いですけど」
蓮生は短く頷き、灯火に目をやる。
「灯火、少し席を外してくれ。迅と二人で話したい」
灯火は一瞬迷ったが、迅の顔を見てから「……分かった」と静かに部屋を出て行った。
襖が閉まる。
蓮生は迅の前に座り、背筋を伸ばした。
「迅。君の身に起きたことを、少し説明しよう」
その声はいつもより低い。
「本来、あの手の影――“ヨミツエ”は人に触れれば魂を削る。しかし君の場合は削れず、逆にヨミツエが後退した」
「……あれ、俺を“視て”た気がしたんです」
迅が言うと、蓮生の表情がわずかに揺れた。
「そうだろうな。ヨミツエは、君の中に“鍵”のようなものを見つけたのかもしれん」
「鍵?」
蓮生は少し言葉を選んでから答えた。
「君は、人の魂の波長の中でも稀にしか現れない“境渡り”の気質を持っている可能性がある」
「さかい……?」
「この世と、あちらの世の境に干渉できる体質だ。術者よりも、むしろヨミツエの方に近い性質と言ってもいい」
迅はしばらく言葉を失った。
「それって……俺、やばいやつなんですか?」
蓮生は静かに首を振った。
「むしろ逆だ。今の時代、境渡りが現れることはほぼない。だが現れた時は――世界の均衡を保つ存在になる」
「重いっすね、それ……」
蓮生の目が柔らかく細められた。
「心配するな。これは呪いではない。力とも言い切れん。ただの気質だ。今すぐ何かが起きるわけでもない」
そう言われても、胸にざわざわしたものが残る。
蓮生は立ち上がり、迅の布団の端を軽く整えた。
「今日はまだ休め。明日、灯火とともに調査をする。あの影が何を求めていたのか――君の中の“何”に反応したのか。それを解き明かさねばならん」
「分かりました」
蓮生が去り、再び静寂が戻る。
息をつくと、胸の奥にひっそり残る声が蘇った。
――“やっと見つけた”
――“こちら側の人間だ”
あれは誰だったのか。
いや、“何”だったのか。
じわりと背中に冷たい汗が滲んだ。
その時、襖の外から小さな気配がして、灯火の声が聞こえた。
「……迅、大丈夫かな」
その声音は、さっきよりずっと弱かった。
迅は、布団の中で拳を握る。
怖さと同時に、妙な決意のようなものが胸に広がる。
――灯火を、もう危ない目に遭わせたくない。
それがどこから湧いた感情なのか、自分でも分からない。
でも、今ようやく自覚できた。
自分は、あの影に触れた瞬間からもう、逃げられないところに立ってしまったのだ。
夜気が、窓からすっと流れ込む。
その風の奥で、誰かが囁いた気がした。
“また、会いに行く”
迅は、震える胸を押さえた。
青藍院の静かな夜は、確実に何かが動き始めていた。




