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宮廷薬師は負けヒロインにつき、陰謀を解きつつ恋を手直しします  作者: 和三盆


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第5話 青藍院、忍び寄る影

夜の青藍院は、昼間の静謐さとはまるで違う顔を見せていた。

虫の声も風のざわめきもなく、ただ広い庭に月光が落ちているだけ。その光はやけに白く、どこか冷たい。灯りを最小限に落とした築山の縁側を歩きながら、迅は背中の汗を拭った。


「本当に……何かが来るのか?」


声に出した瞬間、胸の奥のざわつきが強くなる。

昼間、灯火が“結界にわずかなさざ波があった”と告げた時の表情が忘れられない。あの普段ふわふわしている彼女が真顔になった瞬間、院全体が一段階くらい緊張したのだ。


その灯火は今、裏手の祠に籠もっている。結界の調律をしているらしい。いつもより口数も少なく、迅に「少し離れてて」とだけ告げて。


ああいう言い方をする時の灯火は、たいてい本気だ。


縁側の角を曲がったところで、迅は足を止めた。

肌を撫でる空気の性質が、明らかにさっきまでとは違う。


「……冷たい?」


まるで霜が降りたような気配だ。いや、違う。冷たさではなく、“静かすぎる”のだ。

音が消えている。夜が丸ごと沈んだような無音。


ごくりと唾を飲み込んだ瞬間。


――カラン。


背後で、庭石が小さく鳴った。

振り返ると同時に、迅の背筋が総毛立った。


黒い霧が、庭の中心に立つ灯籠のそばで蠢いている。


「な、なんだ……あれ」


霧といっても自然のそれじゃない。

逆光のように月光を拒み、形を持つ影がゆらゆらと揺れている。人型に見えなくもないが、輪郭が常に崩れ、溶けては盛り上がっている。


それが、こちらを“見た”。


目なんて無いはずなのに、分かる。

触れられれば終わる。そんな予感が、骨の奥に突き刺さってきた。


逃げるべきか、叫ぶべきか、あるいは――。


影が、滑るように近づいてくる。


「っ……!」


迅は数歩後ずさった。

額の汗が落ち、息が浅くなる。


と、その時。


庭全体に、線のような光が走った。


「結界、張り直し完了……っ!」


祠から飛び出してきた灯火が、杖を地面に叩きつけた。

澄んだ音と共に結界が青く瞬き、影の進路を塞ぐように光の壁が立ち上がる。


だが影は、その壁に触れるや否や、まるで嘲笑うようにざら、と形を変えた。

そして、そのまま壁を滲ませるように突破し――灯火の真正面に現れた。


「えっ、ちょっと待――」


灯火の声が途中で途切れる。

影の“手のようなもの”が伸びかけた、その瞬間。


迅は動いていた。


判断より先に体が走った。

灯火に向かって飛び込み、肩から彼女を突き飛ばし、自分が代わりに影の濃い中心部にぶつかった。


冷たさでも熱さでもない、“無さ”の感触。


世界から自分だけ消されたような、底の見えない暗闇。


「っ……う……!」


視界がぶれる。

膝が折れそうになるのを必死でこらえた。

それでも後ろでは灯火が息を呑む気配がする。


よかった。灯火には触れていない。


影は、迅の胸元に張り付くように揺らめきながら、何かを探っているようだった。

呼吸が、浅く、細くなる。


――“視ている”。


意識の奥に直接触れられているような感覚。

記憶、感情、あるいは別の何かに、冷たい指先を差し入れられている。


「……やめ……ろ」


声にならない声を絞り出した瞬間。


影が震え、迅の胸からぱっと弾け飛んだ。

その身体に駆け寄ろうとする灯火の手も届かず、影は庭の中央を跳ねるように移動し、月光の中でひび割れたように薄くなっていく。


「……退いた?」


灯火が呟いた時には、もう影は霧散していた。


残されたのは、静寂。

そして、気を失いかけている迅だけだった。


灯火はすぐに彼に駆け寄り、その身体を抱き起こす。


「迅! ねぇ、迅、しっかり!」


その声は、いつもののんびりさとはほど遠く、必死で震えていた。


迅は薄く目を開けた。


「……灯火、大丈夫……か?」


「大丈夫なのは私の方だよ! なんで飛び込んだの……!」


涙声に近い灯火の声を、迅は少しぼんやりしながら聞いた。

自分でも、なぜあんな無茶をしたのか理解していなかった。


ただ――怖かったのだ。

灯火が消えてしまう未来が。


「……なんか、勝手に身体が……」


灯火は唇を噛み、迅の手を強く握った。


「……迅。あなた、ちょっと特別すぎるよ」


言葉の意味を問おうとしたが、視界が暗く揺れ、意識が落ちた。


灯火が呼ぶ声が遠ざかる。


その最後に――影が触れた時の、あの奇妙な感覚だけが胸にこびりついていた。


暗闇の中で、誰かの声がしていた。


“ああ、やっと見つけた”


“君は、やはり……”


“こちら側の人間だ”


迅は、その声を理解する前に完全に意識を失った。


夜の青藍院は再び静寂を取り戻したが、その静けさはもはや、以前と同じものではなかった。

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