第4話 『白い着物の女は、名乗らずに去った』
朝の光が青藍院の障子越しににじみ、夜の冷たい空気をそっと溶かしていく。その静けさの中、私は目を覚ました。と言っても、眠ったのはほんの二刻ほどだ。眠りが落ちていく瞬間まで、私は昨日拾った紙切れの紋章を見つめていた。──細く絡む二つの花。どこかの家紋にも似ているが、どこにも属さない形。後宮の者がつけるには奇妙すぎる。すべてが不自然で、まるで「見つけてください」と言わんばかりに置かれていたようにも思えた。
「百合様……起きておられたんですね」
控え室から玲花が顔を出した。目の下に隈をつくっている。きっと彼女もまともに眠れなかったのだろう。
「解毒薬、朝分の補充をしておきました。あと、殿下が……百合様のことをお呼びです」
「あぁ、やっぱり来たか」
私は用意していた外套を羽織り、気を引き締めて蒼緋のもとへ向かう。
青藍院の廊下を進むと、蒼緋はすでに窓辺に立っていた。射し込む光を背にして、黒衣の裾が揺れている。寝ていないのは、彼の顔を見ればすぐに分かった。だがその目には疲れではなく、凍りつくような確信が宿っている。
「百合、昨夜の件で新しい情報が入った」
私は近づきながら問う。「白い着物の女、ですか?」
蒼緋はゆっくり頷いた。
「名前が分かった。“白妙”。後宮の巡視を担当する女官の一人だ。だが記録上、その名は一年前を最後に消えている。本来なら、後宮にいない者だ」
「……じゃあ、どうして彼女は厨房に?」
蒼緋は腕を組み、じっと私を見た。
「それが分からん。記録が改ざんされている可能性もある。だが厄介なことに、白妙が動いたのは昨夜だけではない。ここ数日、複数の場所で姿が目撃されている」
「何のために?」
「それを探るため、ある場所へ行く。そなたも来い」
胸が大きく跳ねる。嫌な予感──いや、もっと深い何かが仄暗く広がる。それは「この件は単なる毒事件では終わらない」と告げていた。
向かったのは、皇宮の北端に位置する倉庫群だった。巨大な朽ち木の扉が並ぶその場所は、朝であっても薄暗く、冷えた空気が肌にまとわりついた。
蒼緋は護衛に合図し、倉庫の一つを開けさせた。埃が舞い、古い木材の匂いが鼻をつく。中には大量の酒樽や箱、そして乾物の包みが積み上げられていた。
「供給袋の保管場所はここだ。だが、昨夜調べた記録には一つ奇妙な空白があった」と蒼緋。
「空白?」
「ここにあるはずの“皇宮供用”の袋の一部が、数日前に移動されている。だが、その記録が抜け落ちている」
私は眉を寄せた。「誰かが、あえて“消した”?」
蒼緋は無言で箱を一つ開けた。中には茶葉の袋──昨夜見たものと同じ印の袋が積まれている。だが、その中に一つ、違う袋が混じっていた。
──薄い灰色の袋。袋口が綺麗すぎる。新品の布のように整っている。
「これ……」
「開けてみろ」と蒼緋。
私は慎重に紐を解き、中を覗いた。
甘い匂いがした。
昨夜の茶碗で嗅いだ、あの不自然な甘さだ。
「ここに……毒の元が?」
「まだ断言はできないが、甘味をつけるための何かが混ざっている可能性が高い」
私は粉を少量指先に取り、匂いを嗅いだ。思わず息を止める。
──薬草じゃない。
──料理の甘味料でもない。
もっと……人工的で、整えられた匂いだ。
「これは、自然には作れない。誰かが“精製した”甘味だわ」
蒼緋は短く息を吐き、低い声で言った。
「白妙は、この袋を倉庫から運び出した記録がある。だが、その後の動きが不明だ」
「じゃあ……白妙は犯人なの?」
問いかけに、蒼緋の反応は沈黙だった。答えはどちらにも転べる。それが逆に重かった。
「ただし、もう一つ問題がある。白妙の姿が、数日前に“青藍院の外側”でも目撃されている」
「……私の、院の?」
「そうだ」
空気が一瞬凍った。背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「百合、お前は狙われている可能性がある」
「どうして……?」
蒼緋は視線を強めた。
「そなたが、前の百合とは違うからだ」
その一言は鋭かった。まっすぐで、逃げ場がなかった。
「そなたは変わった。知識も動きも。陛下の周囲で話題になっている。気づいた者がいても不思議ではない」
私は思わず息を呑んだ。後宮という場所は、気づく者がいれば狙う者もいる。
「だから、白妙がそなたの院に姿を見せた。毒の件と同じ“線”で動いているかはまだ分からないが……今は警戒するに越したことはない」
私は外套の袖を握りしめた。恐怖よりも、怒りに近い感情が胸に広がる。
――前の百合のようには絶対にならない。
蒼緋が袋を護衛に渡し、倉庫を後にしようとした時だった。
「殿下。青藍院のほうから伝令です!」
武官の一人が息を切らして駆け込んできた。
蒼緋が振り返る。「どうした」
「……青藍院の裏庭に、白い着物の女が現れたとのこと! 名乗らず、すぐに姿を消したそうで……!」
一瞬、世界が静まった。
私も蒼緋も、同時に顔を上げた。
蒼緋は舌打ちし、短く命じた。
「院へ戻る。急げ」
走り出した足が震えているのが自分でも分かる。だが止まらなかった。
白妙は──青藍院に来ていた。
私のいる場所に。
そして名乗らずに去った。
まるで、「まだ終わっていない」と告げに来たかのように──。




