第37話 名前を呼ぶ声
境は、白かった。
何もない空間。
上下も距離も曖昧な場所。
迅は、一人で立っていた。
「……ここか」
「遅い」
背後から、女の声。
振り向くと、彼女――“名無し”が、腕を組んで立っていた。
「一人で来たのね」
迅は、頷いた。
「約束だからな」
女は、少し笑った。
「相変わらず、律儀」
迅は、周囲を見回す。
「夜刀は?」
女は、指を鳴らす。
空間の端に、影が浮かび上がる。
拘束された夜刀。
意識はある。
だが、動けない。
「無事だ」
女は言う。
「まだ」
迅の胸が、わずかに締まる。
「……本当に」
「試すのが好きだな」
女は、肩をすくめる。
「世界が嫌いなだけ」
迅は、ゆっくり息を吸った。
「それで?」
「俺に何をさせたい」
女は、視線を逸らす。
「簡単よ」
「あなたに、選んでほしい」
迅は、眉をひそめる。
「……何を」
女は、迅を見た。
その目は、冗談ではなかった。
「私を」
沈黙。
迅は、すぐには答えなかった。
「……どういう意味だ」
女は、静かに語る。
「私はね」
「管理対象だった」
「名前も、役割も、居場所もあった」
「でも」
「使えなくなった瞬間」
「全部、消された」
迅は、黙って聞いていた。
女は、続ける。
「あなたは、違った」
「力を失っても」
「誰かが、あなたを呼んだ」
迅の喉が、鳴る。
「……灯火か」
女は、頷いた。
「名前を」
「ちゃんと」
迅は、拳を握る。
「……それで」
「俺が、お前を選べば」
女は、即答した。
「夜刀は解放する」
迅は、女を見る。
「……それだけ?」
女は、少し笑う。
「それ以上、何を望むの」
迅は、静かに言った。
「お前は」
「俺が“選ばなかった未来”だ」
女の表情が、強張る。
「……何が言いたい」
迅は、言葉を選ぶ。
「もし、俺が」
「誰にも呼ばれなかったら」
「誰にも縛られなかったら」
「たぶん」
「お前みたいになってた」
女は、歯を食いしばる。
「……同情?」
迅は、首を振る。
「理解だ」
女の声が、低くなる。
「じゃあ、選べ」
「私か」
「“向こう側”か」
迅は、ゆっくり目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、灯火の声。
――迅。
ただ、それだけ。
肩書きも、役割もない。
名前だけ。
迅は、目を開けた。
「……俺は」
一歩、前に出る。
「お前を、選ばない」
女の瞳が、揺れる。
「……どうして」
迅は、はっきり言った。
「選ばれなかった者が」
「誰かを選ぶために生きると」
「世界は、また同じことを繰り返す」
女は、叫ぶ。
「じゃあ、私はどうすればいい!」
迅は、夜刀を見る。
そして、女を見る。
「名前を」
「取り戻せ」
女の息が、止まる。
「……無理よ」
「もう、ない」
迅は、静かに言った。
「ある」
「お前が、捨てただけだ」
女の拳が、震える。
「……呼んで」
声が、掠れる。
迅は、少し迷ってから、口を開いた。
「……」
そして。
「――綾音」
女の目が、見開かれる。
「……なぜ」
迅は、答える。
「資料の端に」
「一度だけ、残ってた」
女――綾音は、膝から崩れ落ちた。
「……呼ばれた」
涙が、落ちる。
迅は、続ける。
「選ばれなかったんじゃない」
「呼ばれなくなっただけだ」
境が、揺れる。
拘束が、解ける。
夜刀が、息を吸った。
「……迅」
綾音は、顔を覆う。
「……ずるい」
迅は、苦く笑う。
「そうだな」
「でも」
「俺は、そうやって生きる」
境が、ゆっくりと解けていく。
綾音の姿が、薄れる。
「……次は」
「私が、選ぶ番ね」
その声だけが、残った。
迅は、夜刀のもとへ駆け寄る。
「大丈夫か」
夜刀は、苦笑した。
「……ほんと」
「厄介な男ね」
迅は、息を吐いた。
戦わなかった。
勝ち負けもない。
だが。
名前が、一つ、世界に戻った。
迅は、立ち上がる。
もう一度、灯火のもとへ帰るために。




