第36話 交渉役の席
会議室は、無駄に広かった。
白い壁。
長い机。
窓はなく、時間の感覚もない。
迅は、椅子に座っていた。
両手は空。
拘束もない。
それが、かえって不気味だった。
「……改めて言う」
正面の男が口を開く。
隊長格――青藍院で対峙した人物だ。
「君を“交渉役”に任命する」
迅は、頷いた。
「聞いてる」
男は、続ける。
「元・管理対象――通称“名無し”が」
「各地の境を攪乱している」
迅は、目を細める。
「……あいつは」
「攪乱してるんじゃない」
「試してる」
男の眉が、僅かに動く。
「何を」
迅は、即答した。
「世界が」
「選ばれなかった者を」
「どう扱うか」
沈黙。
男は、息を吐いた。
「君は、彼女に近い」
迅は、否定しなかった。
「近かった」
「でも、違う」
男は、低く言う。
「違いを証明してもらう」
迅は、問い返す。
「方法は?」
男は、端末を操作する。
映像が映し出される。
――拘束された夜刀。
迅の胸が、ざわつく。
「……どういうつもりだ」
男は、淡々と告げる。
「彼女は、境に干渉しすぎた」
「保護対象から、監視対象へ移行する」
迅は、椅子から立ち上がった。
「……それは」
男は、遮る。
「交渉役としての最初の仕事だ」
「“名無し”を説得しろ」
迅の拳が、握られる。
「……条件が悪すぎる」
男は、冷たい目で見る。
「交渉とは、そういうものだ」
迅は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
男は、わずかに驚いた。
「承諾するのか」
迅は、視線を下げない。
「ただし」
「一つ、条件がある」
男は、腕を組む。
「聞こう」
迅は、静かに言った。
「交渉は、俺一人でやる」
「記録も、同席もなし」
会議室が、ざわつく。
男は、眉をひそめる。
「危険すぎる」
迅は、言い切った。
「だから、俺なんだ」
沈黙。
数秒後。
「……許可する」
迅は、胸の奥で息をついた。
会議室を出ると、廊下に灯火が立っていた。
「……聞いた」
迅は、足を止める。
「夜刀のこと?」
灯火は、強く頷く。
「私が……」
迅は、首を振った。
「違う」
「選んだ結果だ」
灯火の目が、揺れる。
「……それでも」
迅は、灯火を見る。
「灯火」
「頼む」
灯火は、息を呑む。
「俺を、信じてくれ」
一瞬、迷い。
それから、灯火は頷いた。
「……分かった」
「でも」
迅は、微笑む。
「帰ってくる」
灯火の胸が、少し軽くなる。
迅は、背を向ける。
扉の向こうに、境の歪みが待っている。
戦わない交渉。
力のない対話。
その先にいるのは――
名前を失った自分自身だった。
迅は、一歩踏み出す。
世界は、また彼を試そうとしていた。




