第30話 立たないという選択
朝だった。
雨は止み、空は妙に澄んでいる。
まるで、昨夜の出来事など最初から無かったかのように。
迅は、まだ横になっていた。
身体は動く。
だが、焔の気配は――どこにもない。
「……空っぽだな」
独り言は、思ったよりも静かだった。
襖が、きしんで開く。
夜刀だ。
「目、覚めたのね」
迅は、視線を天井に向けたまま答える。
「……ああ」
夜刀は、少し迷ってから言った。
「人間側が動いた」
迅の眉が、僅かに動く。
「俺を、回収しに?」
夜刀は、首を振った。
「違う」
「切り捨てる準備」
迅は、ゆっくりと上体を起こした。
「……灯火は?」
「外」
「一人にしてる」
迅は、少しだけ安心した顔をした。
「……なら、行かないと」
夜刀が、目を細める。
「止めないの?」
迅は、苦笑した。
「止められる力が、もうない」
廊下を歩く。
足取りは、確かだ。
戦えなくなっても、
立てなくなったわけじゃない。
外に出ると、灯火がいた。
庭先で、地面を見つめている。
「……灯火」
灯火は、振り向かなかった。
「迅」
声が、硬い。
「話すこと、ある?」
迅は、正直に答えた。
「ある」
「でも、その前に」
一歩、近づく。
「俺から言わせてくれ」
灯火が、ゆっくり振り向く。
迅は、目を逸らさなかった。
「……俺」
「戦えなくなった」
「もう、前みたいに立てない」
灯火の表情が、揺れる。
「……うん」
迅は、続けた。
「だから」
一瞬、言葉を探す。
「俺は、前に出ない」
灯火の目が、見開かれる。
「……え?」
「盾にもならない」
「囮にもならない」
「無理もしない」
沈黙。
灯火の胸に、怒りが湧く。
「それって……」
「逃げるってこと?」
迅は、首を振った。
「違う」
「選ぶ」
灯火は、声を荒げた。
「迅!」
「世界は、待ってくれない!」
迅は、静かに言った。
「だからこそだ」
「俺が無理すれば」
「お前は、また力を使う」
灯火の喉が、鳴る。
「……それは……」
迅は、言い切った。
「それを、俺は選ばない」
灯火の目に、涙が滲む。
「……じゃあ」
「私は、どうすればいいの」
迅は、少しだけ考えてから答えた。
「……立て」
「お前が選んで」
「お前の足で」
「俺は、隣にいる」
灯火は、声を震わせる。
「それって……」
「置いていかれる、ってこと?」
迅は、首を振る。
「逆だ」
「俺は、逃げない」
「ただ、前に出ないだけだ」
灯火は、理解できずに首を振る。
「……分からない」
迅は、苦く笑った。
「俺も、分からない」
「でも」
「これだけは、はっきりしてる」
灯火を見る。
「俺が戦わなくなったからって」
「お前を手放す気はない」
灯火の胸が、痛んだ。
「……ずるい」
迅は、頷いた。
「そうだな」
「でも、これが今の俺の“立ち方”だ」
その時。
夜刀が、駆けてくる。
「来たわ」
「人間側」
「……迅を“無力化対象”として処理するつもり」
灯火の顔が、強張る。
「……迅」
迅は、深く息を吸った。
「灯火」
「一つだけ、頼みがある」
灯火は、必死に頷く。
「何でも……」
迅は、はっきり言った。
「俺を、守るために戦うな」
灯火の目が、揺れる。
「……じゃあ、何のために?」
迅は、答えた。
「お前自身のために」
沈黙。
灯火は、拳を握った。
境が、静かに呼応する。
だが、まだ使わない。
「……分かった」
声は、弱い。
でも。
「でも、迅」
顔を上げる。
「それでも、隣にいて」
迅は、微笑んだ。
「もちろんだ」
遠くで、ヘリの音が響き始めていた。
迅は、もう剣じゃない。
盾でもない。
だが――
物語から降りたわけでもない。
立たないという選択が、
新しい戦場を生み始めていた。




