第3話 『茶碗の縁に残る甘味、そして影は静かに笑う』
夜風に灯籠の火が揺れる西苑を後にして、私たちは短い行程で青藍院へ戻った。側近は寝台に安置され、呼吸は安定している。蒼緋殿下の瞳に安堵の色が差すのを、私はちらりと見た。だが安堵は長くは続かない。毒が“誰かの手”で組織的に使われた可能性が濃厚だからだ。救急処置と解毒がひとまず成功した今、次に必要なのは原因の特定だ。被害が拡がれば、ただの事故で済まない。
「茶の器、持ってきたか?」と私は蒼緋に問うた。彼は短く頷き、護衛の一人が小さな箱を差し出した。中には、側近が飲んでいたとされる茶碗と、茶葉の小片が丁寧に包まれていた。器の縁にはまだ茶渋が残っている。私は手袋をはめ、毛先の柔らかい刷毛で丁寧に縁を拭った。目に見える異常はない。だが匂いを嗅ぐと、微かに甘さが混じっている。自然な甘みではない。私は眉を寄せ、茶葉をほんの少量指で摘んで嗅いだ。確かに、蜜のような甘さ。だがどこか薬的だ。
「これは……甘花草の匂いに似ているが、もっと人工的だ」と私は呟いた。玲花が驚きの声を上げる。蒼緋が厳しく私を見た。「つまり、誰かが混入したと?」と問う。私は首を振る。「混入というより、茶に“何か”が足されている。甘味は被せるように後から入れられた痕跡がある。天然の茶葉が本来持つ渋みを消すための――カモフラージュかもしれない」
「であれば、茶を淹れた人間。あるいは茶を管理している者に聞けば手がかりが掴めるはずだ」と蒼緋は冷静に言った。その口ぶりには、皇族としての嗅覚と、護るべき者を失ったくないという熱が混ざっていた。私はその熱に励まされる一方で、胸の奥に緊張が走る。もし犯人が後宮の内側にいるのなら、私の立場は危うい。だが黙っているわけにはいかない。
まずは茶を淹れた者、側近の食事を管理する台所係に当たることになった。蒼緋の命で、厨房は閉鎖され、関係者は待機させられた。蒼緋と私、数名の武官とで厨房へ足を踏み入れると、湯気の残る石の床と、焦げついた鍋の匂いが鼻をくすぐる。厨房長の女は、年配で厳格な顔立ちだ。彼女は私たちを見ると深々と礼をしたが、その目は疑念に満ちていた。
「厨房長、昨夜の側近の食事と茶の一式を見せていただけますか」私は丁寧に頼んだ。彼女は一瞬ためらったが、蒼緋の一言で渋々と箱を開けた。箱の中には、側近の食器、茶器、そして台所で使う保存食の残りが並んでいる。私は茶器を取り出し、指先で縁を見る。やはり縁に不自然な薄膜のようなものが付着しており、唇の跡とは違う。厨房長は震える声で言った。「昨夜は、下働きの小女が茶を淹れました。名は珠と申します。彼女はいつも通りの時間に来て、いつも通りに淹れたとだけ……」
「珠という娘はどこにいますか?」と蒼緋が訊いた。女は下を向いて答える。「珠は今、控えの間におります。恐らく驚いているだけでしょう」蒼緋は一瞥して命じる。「連れて来い。状況を説明せよ。隠し立ては許さん」
珠は小柄で、震える手を何度も組み直していた。目は大きく、涙で濡れている。彼女は私の顔を見て縮こまるように一歩引いた。「あの、私はいつも通りに淹れただけです……茶葉を一握り、湯を注いで、側近殿に運んだだけで……」と声が震える。
「その茶葉はどこから出されたのですか?」と私は落ち着いて訊ねた。珠は答えた。「厨房の奥に置いてある袋からです。袋には“皇宮供用”と書かれていました。昨夜は厨房長が指示して取り出したと聞きました」厨房長は顔を少し強張らせた。「確かに、昨夜は保存食の点検があった。私はそれを監督した。しかし、袋を開けたのは珠だ。だが、それがどこから来たのかまでは私も把握していない」
情報は細切れだが、それでも手がかりが浮かぶ。供用の袋。つまり、皇宮全体で管理される保存食の一部だ。そこに紛れ込む形で、外部から混入された可能性がある。だが、保存食は定期的に検査される。誰かが意図的に混入したのか、それとも供給段階での汚染か――可能性は広がる。
「珠、昨日の昼以降、見知らぬ人が厨房に来ていなかったか?」と蒼緋が問うた。珠は首を振る。「いえ、見たのはいつもの顔ばかりで……ただ、昨夕、白い着物の中年の女が一度だけ台所に来て、献立の確認をしていました。その方は、よく後宮の巡回をされる方だと聞いています」蒼緋の目が鋭くなる。私はその名を聞きたかったが、珠は知らぬと首を振った。だが“白い着物の女”という描写は、後宮で目立つ。誰かが意図的に特定の色で動いている可能性もある。
厨房での聞き取りを終え、私たちは青藍院へ戻った。蒼緋は歩きながら言った。「供給元を調べる。皇宮の倉庫に記録があるはずだ。そなたも来るか?」私は微笑んで首を振った。「私はここで、解毒薬の余剰を準備し、ほかに症状の出ている者がいないか確認します。念のため、同じ配膳ルートに当たった者の健康状態も洗い出しましょう」蒼緋はそれを聞いて頷いた。「だが気をつけよ。内側に犯人がいるなら、そなたは標的になりやすい」
その言葉を受け止めながら、私の頭にはもう一つの考えが浮かんでいた。被害者は側近という“政治的に意味を持つ存在”だ。誰かが側近を狙った背景には、側近のもつ情報や影響力を奪う狙いがあるのではないか。毒は単なる手段で、目的はもっと大きい。そうであれば、犯人は策略家だ。表面に出てくるのは、いつも穏やかな者かもしれない。私たちは表層の事実だけで満足してはいけない。
青藍院に戻ると、私は調剤台に向かい、同じ薬を幾つか追加で作った。もし誰かが同じ手口で被害を受けた場合に備えて、手元に解毒薬を置いておく必要がある。玲花が手伝いながら尋ねる。「百合様、殿下は……なぜここまで私たちのために動かれるのですか?」私は一瞬考え、静かに答えた。「守る人がいるからだと思う。皇族であろうと、側近であろうと、守りたいと願う気持ちは変わらない。それだけよ」玲花はそれを聞いて目を潤ませる。
深夜、私は一人で茶碗を手に取り、さきほどの甘味を思い出していた。人工的な甘味――現代で言えば甘味料のようなものだ。もしこの世界で人工的な甘味が作られているとしたら、それを扱えるのは限られている。香料師か、薬師か、もしくは特別な調味を施す料理人。誰かが密かに薬草以外の物質を調達しているのだろうか。疑問は尽きない。
その時、青藍院の扉が静かに開き、蒼緋が入ってきた。彼は窓の外を見てから、私に向き直る。「倉庫の記録を見た。供給チェーンの中で不審な改ざんは見つからなかった。だが、供給者の一人が朝廷の外郭で物資を預かる者と密会していた記録がある。その者の名はまだ伏せるが、白い着物の女が何度か顔を合わせていたらしい」私はその言葉に驚いたが、反射的に訊いた。「白い着物の女、というのは珠が見た方ですか?」蒼緋はうなずいた。「ああ。どうやら彼女はただの巡回者ではないようだ。だがこの件、すぐに公にするのは得策ではない。内側に波紋を広げる可能性がある」
私は静かに息を吐き、また決意を固めた。「分かりました。私たちは証拠を集め、静かに動きましょう。誰かを傷つけることなく、真相を掴むために」
蒼緋は少しだけ笑みを見せ、「百合、そなたは思ったよりしぶとい」とだけ言った。その言葉に、私は頬を緩める。だが同時に、背後に忍び寄る影があることを私は感じていた。白い着物の女の存在は、予想以上に深い。誰かが巧妙に後宮のルートを利用し、毒を流通させている。目的は何か。誰が得をするのか。答えはまだ見えない。
夜が更け、私が薬草の瓶にラベルを貼っていると、ふと机の端に置かれた紙切れが目に入った。そこには小さな花の図と、見慣れぬ紋章が薄く押されていた。私はそれを拾い上げ、指先でなぞる。その紋章は、後宮のどの家にも見られない細工だ。だが見覚えがかすかにある。私は紙切れを胸にしまい、心の中でひそかに誓った。必ず、この謎を解いてみせる、と。
朝が来れば、私たちは再び動き出す。だがその影の中で、白い着物の女は静かに笑っているかもしれない。表向きは無害で、誰の疑いも買わない。だが彼女の笑いは、これから訪れる嵐の予兆のようにも思えた。
私は瓶を閉め、火を消した。瞼を閉じる前に、腕時計のように頭の中で刻むのはただ一つ──誰も、不当に失われてはならないということ。そして、この世界で“負けヒロイン”で終わるつもりは、毛頭ないのだから。




