第25話 使わないという選択
夜明け前。
旅館の天井に、薄い光が滲んでいた。
灯火は、眠れずに目を開けていた。
胸の奥が、静かに痛む。
昨日使った力の“余韻”が、まだ消えていない。
「……残ってる」
境が、身体の内側に沈んでいる感覚。
動かせば、また広がる。
使えば、きっと楽になる。
「……でも」
灯火は、布団の上で指を握った。
その時、襖が静かに開く。
「起きてた?」
迅だった。
肩には包帯。
動きは、少しだけ重い。
「……ごめん」
灯火は、反射的に言った。
「怪我、させた」
迅は、首を振る。
「俺が選んだ」
「灯火の代わりに、立っただけだ」
灯火は、迅の顔を見つめる。
「……怖くなかった?」
迅は、少し考えてから答えた。
「怖かった」
「でも」
「一人じゃなかった」
その言葉に、胸がきゅっと締まる。
その時。
外で、結界が鳴った。
夜刀の声が、低く響く。
「……来たわ」
迅の表情が、引き締まる。
「追跡者?」
「それだけじゃない」
夜刀が、通信機を切り替える。
「……民間人がいる」
灯火が、息を呑む。
「温泉街の外れ。
避難しきれなかった人たち」
迅は、即座に言った。
「なら、俺が行く」
夜刀が、首を振る。
「迅、あなたはもう限界に近い」
「焔、あと一回がいいところよ」
沈黙。
灯火の中で、何かがざわつく。
「……私が、行く」
迅が、振り向く。
「ダメだ」
即答だった。
「使ったら、また代償が出る」
灯火は、ゆっくりと立ち上がった。
足元が、少し揺れる。
「分かってる」
「でも……」
窓の外を、見る。
まだ眠る街。
何も知らない人たち。
「見捨てる方が、もっと怖い」
迅は、歯を噛みしめる。
夜刀が、静かに言った。
「……灯火」
「選びなさい」
「使って、壊れるか」
「使わずに、失うか」
灯火は、目を閉じた。
境の感覚が、はっきりと分かる。
今なら――
使える。
でも。
「……違う」
目を開ける。
「第三の選択がある」
迅と夜刀が、同時に見る。
「使わない」
「でも……立つ」
迅が、息を呑む。
「どうやって」
灯火は、胸に手を当てた。
「私がやってたのは、境を“閉じる”こと」
「なら」
「閉じないで、知らせる」
走る。
灯火は、街へ向かって駆け出した。
境を広げない。
力を使わない。
代わりに――
境を“感じる”。
どこに人がいるか。
どこが危ないか。
それだけを、迅と夜刀に伝える。
「……ここ!」
「この家、まだ人がいる!」
迅が、焔を最小限に使う。
壁を壊さず、道を作る。
夜刀が、結界で瓦礫を止める。
三人の動きが、噛み合う。
灯火は、膝が震えるのを感じながら、叫び続けた。
「……次、あっち!」
追跡者の気配が、迫る。
だが、灯火は使わない。
境を、閉じない。
代わりに、声を上げる。
「逃げて!」
「今なら、間に合う!」
最後の一人が、街を抜けた瞬間。
迅が、崩れ落ちた。
「……限界だ」
夜刀が、迅を支える。
灯火も、しゃがみ込む。
息が、苦しい。
でも。
境は、これ以上沈んでいない。
夜刀が、灯火を見る。
「……やったわね」
「初めてよ」
「“使わずに守った”の」
灯火は、弱く笑った。
「……怖かった」
「でも」
迅が、顔を上げる。
「壊れてない」
灯火は、頷いた。
「うん」
「私、まだ立てる」
夜明けの光が、街を照らす。
完全な勝利じゃない。
追跡者も、脅威も、消えていない。
それでも。
三人は、初めて知った。
力を使うことだけが、
立つことじゃない。
選ばない勇気も、
また――力なのだと。




