第23話 守れなかった名前
廃れた温泉街は、時間から取り残されたように静かだった。
割れたガラス。
崩れかけの看板。
かつて人が集い、笑っていた痕跡だけが残っている。
迅は、古い旅館の一室に灯火を寝かせた。
畳は冷たい。
布団も、湿っている。
「……ごめん」
灯火が、小さく言った。
「また、迷惑かけた」
迅は首を振る。
「迷惑じゃない」
「俺が立ててるのは、お前がいるからだ」
灯火は、少しだけ笑った。
「……それ、前と逆だね」
迅は言葉に詰まる。
夜刀は、部屋の隅で結界を張り終え、静かに背を向けた。
「……灯火」
「あなた、自分の限界、分かってる?」
灯火は、少し考えてから答えた。
「……使うたびに、境が“私の中”に残る」
「戻らない感じがする」
夜刀の表情が、僅かに曇る。
「やっぱり」
迅が夜刀を見る。
「どういうことだ」
夜刀は、しばらく沈黙した後、口を開いた。
「……昔」
「私にも、守る対象がいた」
部屋の空気が、張りつめる。
「迅みたいな存在じゃない」
「特別な力もなかった」
「ただ……境が見える子だった」
灯火が、ゆっくりと目を向ける。
「その子も、灯火みたいに――」
夜刀は、言葉を切った。
「“止めたい”って言った」
迅の胸が、ざわつく。
「……結果は?」
夜刀は、目を伏せた。
「使わせすぎた」
「境を閉じさせすぎた」
「最後は、自分がどこに立ってるのか、分からなくなった」
灯火の手が、きゅっと握られる。
「……じゃあ」
「私は……」
夜刀は、はっきりと言った。
「同じ道を辿る可能性がある」
迅が、立ち上がる。
「そんなの、許すわけない」
夜刀は、迅を見る。
「だから言うの」
「迅」
「あなたが、止める側になりなさい」
迅は、言葉を失った。
「灯火が使う前に」
「灯火が壊れる前に」
「あなたが、立つ」
迅の中で、焔が小さく揺れる。
「……俺は」
「誰かを守るために立つ資格なんて」
夜刀が、遮った。
「あるわ」
「あなたは、もう選んでる」
灯火が、そっと迅の袖を掴んだ。
「迅」
「私ね」
目を閉じて、深呼吸する。
「怖い」
「でも……使わないで誰かが壊れるのも、嫌」
迅は、灯火の前に膝をついた。
目線を合わせる。
「……約束しよう」
「お前が限界を越える前に、俺が立つ」
「俺が止める」
灯火の目が、潤む。
「……うん」
夜刀は、その様子を見て、静かに息を吐いた。
「……遅すぎた約束だけど」
「今度は、間に合いそうね」
その時。
結界が、微かに震えた。
夜刀が即座に立ち上がる。
「……追跡者、二」
迅が、拳を握る。
「来るな」
「ここで、止める」
灯火は、布団の上から迅を見上げた。
「迅」
「……戻ってきて」
迅は、振り返らずに答えた。
「戻る」
「立って、戻る」
外に出た瞬間、夜の空気が冷たく刺さる。
追跡者の影が、路地に滲んでいた。
迅の焔が、静かに灯る。
燃え盛らない。
だが、消えない。
灯火の“代わり”ではない。
灯火と並ぶための焔。
迅は、一歩踏み出した。
「――ここから先は」
「俺が、止める」
遠くで、灯火はその背中を見つめていた。
不安と、誇らしさが入り混じった感情で。
彼女は、初めて理解する。
守られるとは、
離れることじゃない。
同じ場所に、立つことだと。




