第20話 名前を呼ばれた日
それは、報告書の一行から始まった。
人間側管理組織・第七観測室。
無数のモニターが並ぶ部屋で、あの男――迅を“回収”しようとした管理官は、静かに画面を見つめていた。
「……交差点での異常、再確認」
部下がデータを表示する。
「境歪度、ゼロに収束。
発生源は――三名」
男の指が止まる。
「三名?」
「はい。迅、夜刀、そして……」
一瞬の間。
「青藍院 灯火」
男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ついに、名前が出たか」
その頃、青藍院。
夕暮れの庭で、灯火は一人、掃き掃除をしていた。
風が涼しい。
どこか、胸騒ぎがするほどに穏やかだ。
「……さっきの、私」
箒を止め、自分の胸に手を当てる。
交差点で、あの光が溢れた瞬間。
考えるより先に、身体が動いた。
「……立ちたい、って」
それは、迅の真似だったのか。
それとも――。
「考えすぎだな」
そう呟いた瞬間、背後で気配が揺れた。
「――灯火」
低い声。
振り向いた瞬間、背筋が凍る。
庭の端に、黒いコートの男が立っていた。
「……誰ですか」
灯火は、箒を手放さずに問う。
男は、ゆっくりと歩み寄る。
「人間側の管理者だ」
名乗りは、ない。
「今日は、確認に来た」
「何を……?」
男は、灯火の目を見た。
「君が“対象”かどうかを」
空気が、重くなる。
灯火は、一歩も引かなかった。
「対象って……」
「境を均す迅」
男は淡々と言う。
「その迅を、繋ぎ止めている存在」
灯火の喉が鳴る。
「……迅を、どうするつもりですか」
男は答えない。
代わりに、言った。
「君が消えれば、迅は不安定になる」
その瞬間。
灯火の中で、はっきりと何かが切り替わった。
恐怖ではない。
怒りでもない。
「……それは、させません」
男が、わずかに眉を動かす。
「君に、止められるのか」
「止める、じゃない」
灯火は、静かに言った。
「立ちます」
庭の空気が、震えた。
光が、灯火の足元に広がる。
柔らかく、しかし確かな存在感。
男は、一歩後ずさる。
「……確定だな」
端末を操作しながら、呟く。
「青藍院 灯火――
境界安定因子・S指定」
灯火は、その言葉の意味を理解しきれないまま、男を見据えた。
「……迅に、手を出したら」
男は、少しだけ笑った。
「その時は、世界が揺れるだろう」
次の瞬間、男の姿は結界の外へ消えた。
夜。
迅は、灯火の異変をすぐに察した。
「……誰か来たな」
灯火は、隠さなかった。
「うん。人間側」
迅の顔色が変わる。
「何を言われた」
灯火は、まっすぐに答えた。
「名前を呼ばれた」
迅は、言葉を失った。
夜刀が、静かに言う。
「……ついに来たわね」
「灯火」
迅は、彼女を見る。
「……怖い?」
灯火は、少しだけ微笑んだ。
「怖いよ」
「でも」
迅の手を、しっかり握る。
「迅が立つなら、私も立つ」
迅の胸の奥で、何かが――
確かに、燃えた。
焔ではない。
だが、失われたはずの“熱”が、戻り始めている。
夜刀は、それを見逃さなかった。
「……迅」
「焔が、条件付きで戻るわ」
「灯火が隣にいる時だけ」
迅は、驚いて灯火を見る。
灯火は、少し困ったように笑った。
「……一人じゃ、ダメみたい」
迅は、息を吐いて、笑った。
「じゃあ、離れられないな」
青藍院の夜が、静かに更けていく。
だがもう――
この場所は、“守られるだけの聖域”ではない。
二人の名前は、
世界の危険な場所に、並んで刻まれるのだった。




