第16話 檻の中で、火は燃えない
目を開けたとき、迅は白い天井を見ていた。
無機質な光。
消毒液の匂い。
そして――身体が、異様に軽い。
「……ああ」
腕を動かそうとして、気づく。
力が入らないのではない。
力が“いない”。
胸の奥にあった焔の気配が、すっかり消えていた。
「目が覚めたか」
声がした。
横を見ると、ガラス越しにあの男が立っている。
黒いコートは脱ぎ、白衣を羽織っていた。
「歓迎するよ。
ここは人間側の管理施設だ」
迅は起き上がろうとして、ベッドに固定されていることを知る。
「……拘束する必要、あるか?」
「念のためだ」
男は淡々と続ける。
「君は火守であり、境渡りだ。
想定外のことが多すぎる」
迅は、天井を見つめたまま言った。
「灯火は?」
「無事だ」
即答だった。
「約束は守る」
迅は、ゆっくり息を吐いた。
「……それで?」
男は椅子に腰を下ろす。
「取引だ」
「またかよ」
「君は協力する。
境の異常が起きた場所へ同行し、立つだけでいい」
迅は、目を細める。
「拒否権は?」
「ない」
短く、冷たい言葉。
「だが、報酬は出す」
男は、端末を操作する。
画面に映し出されたのは――青藍院だった。
「灯火さんの身柄は保護対象にする。
一切、干渉しない」
迅の喉が鳴る。
「……脅しだな」
「現実だ」
男は迅を見据えた。
「君は優しすぎる。
それは、武器になる」
迅は、しばらく黙っていた。
焔がない。
力もない。
それでも、胸の奥がざわつく。
「……ひとつ、聞かせろ」
「なんだ」
「今まで、何人“回収”した?」
男は、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
「……数え切れない」
迅は、静かに笑った。
「じゃあさ」
視線を男に向ける。
「俺も、その中の一人か?」
沈黙。
男は答えなかった。
その夜。
迅は、独房のような部屋に移された。
扉が閉まり、完全な静寂が落ちる。
「……立つだけ、ね」
壁に背を預け、迅は目を閉じる。
火がない。
境も感じない。
ただの、人間だ。
――それでも。
ふと、灯火の声が脳裏に浮かぶ。
「迅は、迅のままで立ててる」
胸の奥が、微かに温かくなる。
「……ああ」
小さく呟く。
「それだけは、嘘じゃない」
その瞬間。
何もないはずの空間が、わずかに揺れた。
迅は、目を開ける。
焔ではない。
境でもない。
“存在している”という感覚だけが、確かにあった。
「……なるほど」
迅は、初めて気づく。
火守でも、境渡りでもない時の自分。
「俺は……」
誰に言うでもなく、言葉を落とす。
「檻の中でも、立てるらしい」
監視カメラの向こうで、男が眉をひそめた。
「……数値が、動いている?」
迅は、ゆっくりと立ち上がった。
拘束は、もう意味をなしていなかった。
火は燃えない。
だが――迅は、確かにそこにいた。
境は、彼を中心に、静かに均されていくのだった。




