第15話 守ると決めた、その瞬間に
青藍院に戻った夜、迅は眠れなかった。
静かすぎる。
昼間の町の気配が、まだ身体に残っている。
「……立つだけ、か」
呟いた瞬間、障子の向こうで足音が止まった。
「起きてる?」
灯火の声だった。
迅は返事をして、障子を開ける。
灯火は湯飲みを二つ持って立っていた。
「眠れなくて」
「奇遇」
二人は縁側に腰を下ろした。
夜の空気は冷たく、湯気が白く揺れる。
「……今日のこと」
灯火が切り出す。
「怖くなかった?」
迅は少し考えてから答えた。
「怖かったよ。
でも――」
湯飲みを見つめる。
「焼かなくてよかった、って思った」
灯火はほっとしたように微笑んだ。
その瞬間。
空気が、裂けた。
「――動くな」
低い男の声。
闇の中から、三人の影が現れる。
全員、黒いコート。
人間だ。
夜刀が、音もなく迅と灯火の前に立った。
「随分と早いわね」
男の一人が笑う。
「境の異常値が消えた。
原因を追えば、ここに行き着く」
迅の背筋が冷える。
「……何者だ」
「人間側の“管理者”だよ」
男は迅を見る。
「火守の残党。
それに――境渡りの適性者」
灯火が、息を呑んだ。
「迅……?」
男は一歩前に出る。
「安心しろ。
君を殺しに来たわけじゃない」
迅の胸がざわつく。
「じゃあ、何しに来た」
男は淡々と言った。
「君を“回収”しに来た」
空気が凍る。
「君は危険だ。
だが、使える」
迅の中で、焔が疼いた。
夜刀が静かに言う。
「拒否する」
「できない」
男は灯火をちらりと見た。
「一般人を巻き込む覚悟があるなら別だが」
灯火の指が、迅の袖を掴む。
「……迅」
その瞬間、迅は理解した。
――これが、選択だ。
立つだけでは、済まない。
迅は、一歩前に出た。
「俺が行けば……灯火は?」
「守る」
男は即答する。
「彼女には価値がない」
灯火が震える。
迅は、振り返らなかった。
「……分かった」
夜刀が、迅の腕を掴む。
「迅、それは――」
迅は小さく笑った。
「夜刀。
俺、“選ばない”って言ったよな」
男たちが一斉に動く。
迅は、灯火の前に立ち、初めて焔を出さずに言った。
「――この人には、触るな」
境が、鳴った。
男たちの動きが、止まる。
「……なにをした」
迅は、灯火を見て、言った。
「何も」
それでも――誰も近づけなかった。
沈黙の末、男は舌打ちする。
「……いい。今日は引く」
影が、夜に溶ける。
縁側に、静寂が戻った。
灯火は、迅の背中に額を当てた。
「……行かないで」
迅は、初めて迷った顔をした。
「……行くよ」
「でも」
「守るって、決めたから」
迅は振り返り、まっすぐ言った。
「離れることでしか守れない時もある」
夜刀は目を伏せた。
「……最悪の選択ね」
迅は苦笑した。
「慣れてる」
灯火の目から、涙が落ちる。
迅はそっと、その頭に手を置いた。
「戻る。
絶対に」
夜の境が、静かに揺れた。
それは――
迅が初めて、自分の意志で“踏み越えた”瞬間だった。




